常ならば曲者と言いつつ此方を追い掛けてくる可愛い子は、然し今日は些か勝手が違うらしい。学園長の部屋から出て廊下を歩いている此方に気付くも、軽く頭を下げるだけで行ってしまった。それが何だか無性に面白くない。燻る胸の奥が気持ち悪くて、あの子の後を追うべく庭に出るとそのまま歩き始める。背後から山本の制止の声が聞こえたが、今はあの子の事を優先すべく歩みを進めると程なくして見慣れた忍び装束の後ろ姿に追い付いた。
「今日は追い掛けてこないの?」
「追い掛ける必要がない」
「どうして?」
「学園長の客として来ているなら、正規の手続きを踏んでここにいるんだろう?」
だったら、曲者じゃあない。追い掛ける必要がどこにある。
此方の問いに至極真面目な顔で答える子に、成程、確かにそれもそうだと納得する。保健委員会の子供達に薬を貰う際は、手続きを面倒がって不法侵入するのが常だ。だから曲者扱いをされるのは当然で、今の私はきちんと手続きをしているのだからそうではないとこの子なりに弁えているらしい。至近距離まで歩み寄って、未だ幼さの残る頬にそっと触れる。徹夜続きで隈を常駐させている目許を指先で撫でれば、擽ったいのか微かに笑んで見せるが少しも逃げようとしない。些か不用心だと思いはするが、笑った顔が可愛くてつい此方の表情も緩んでしまう。
「可愛いね」
「……目が悪いんじゃないのか」
「視力は正常だよ」
可愛いのに可愛くない事を紡ぐ口唇を親指で撫でて。さて、この子はどこまで許してくれるのだろうかと考えたのは刹那だった。
きっと、この子は許してくれる。
敵対すれば容赦なく叩き潰そうとするが、一度懐に入れた相手にはとことん甘くなるのがこの学園の子供達だ。目前のこの子もそういった性質を持っている筈だから、きっと何だかんだ言いつつも私を受け入れてくれる。そう確信めいた事が脳裏を過ったのは、この子がとろりと蕩けた視線を此方へ向けた所為だった。
「好きだよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「それも嘘」
「酷いなぁ」
くすくすとお互いに笑いながら、ゆっくり顔を寄せ合う。あとほんの少しで口唇が触れ合う、その刹那だった。
「何してやがる! 曲者!」
「おっと」
不意に殺気を感じて僅かに身を捻れば、蟀谷の直ぐ側を苦無が勢い良く飛んでいく。次いで何かが腹を目掛けて飛んでくるものだから、傍らにいた子を抱えて後ろへ下がったのは無意識だった。
「ちょっ、離せって……!」
「危ないから大人しくしてなさい」
「留もやめろ!」
腕の中から逃れようとする子を更に抱き締めて、今度は脚を狙って突き出された凶器、鉄双節棍を躱す。それが誰の獲物かなんて、確認するまでもなかった。これはこの子の同輩である食満君の獲物。だから腕の中の可愛い子も、食満君をとめようと声を張り上げるのだが少しも聞いてくれない。
「こら、危ないでしょうが」
「五月蝿い、文次郎を返せ!」
「返せって言われてもねぇ……」
この子は君のものではないんだけど。そうは思ったが、声には出さずまた攻撃を避ける。どうにも、食満君はこの子が好きらしいと気付いたのはいつだったか。割と出会って直ぐの頃だった気もするが、然し彼等の性格を考えれば想いを告げるなんて出来なかったのだろう。だから、この子にちょっかいを掛ける私が気に入らない。何とも子供らしい感情の在り方に、口布の下でゆうるり微笑むと跳躍して食満君から距離を取った。
「名残惜しいけれど、そろそろ帰らないと」
ぐるりと学園を囲む塀へ視線を向ければ、呆れた様に溜息を吐く山本がそこに立っている。同時に『帰りますよ』と矢羽音で告げられて、時間切れかと諦めて腕の中の可愛い子を漸く解放した。
「またね、文次郎くん」
「二度と来るな曲者!」
離れる寸前に、掠める様な口吻けをひとつ。食満君には見えない角度で触れるが、それでも何やら察するものはあったのだろう。食満君の怒鳴る声を背中に受けながら、軽やかに塀を乗り越えて走り始めると同時に笑い出した私に山本が面妖な顔をしたが気にしない。
「ばかたれ」
口吻けの後、あえかな声で紡がれたあの子の言葉。それが何とも艶めいていただなんて、私だけが知っていれば良い事だ。食満君には悪いけれど、早い内に私のものにしようと心に決めたのは言うまでもない。
【終】