自堕落に暮らしていたおじさんがファウストにスカウトされる時の話 空になった缶、瓶、カップ麺の器、その他諸々。部屋に散乱するそれらを見て、グレゴールは長く深いため息をついた。
(そろそろ、全部片付けるべきだな)
ガシガシと髪の毛を掻く。適当に括った髪の毛は更に乱れ、グレゴールはもう一度ため息を吐いた。
人間というのは不思議なもので、今のいままでは平然と暮らしていたゴミ溜めに、ふと我に帰ると耐えられなくなってくるのだ。グレゴールにとってはこの瞬間がそうだった。この部屋の惨状に、これ以上は耐えられそうにない。今すぐ全てを捨て去ってやりたかった。
ゴミ箱はとっくの昔に一杯になっている。掃除をするならばまずゴミ出しから始めるべきだろう。それから書類(主に家賃の督促状)を片付ける。それから、良い加減切らしている食器用洗剤を買ってきて、片付けていない食器を洗って……。
そこまで考えて、面倒臭さにグレゴールは呻いた。疲れ切っている俺には超えるべきハードルが高すぎる。
それに、家賃を払うだって?一体どうやって。
グレゴールは昨日、勤めていたフィクサー事務所に暇を出されたばかりだ。平たく言えば所長に愛想を尽かされて、クビになった。痩せ我慢でも何でもなく、ろくでなしばかりで、辞めさせられたって構わないような事務所だったのだが。不随意に暴れ回る右腕を抱えながら出来る仕事なんて限られている。暴走にうっかり巻き込んでも良心の呵責に囚われないような、くそったれの人間ばかりが集うところしかグレゴールは選んでいない。
もう何も考えたくない。
部屋と同じくらいぐちゃぐちゃの思考をどうにかしたい───だが、幸にして俺は、全部を一瞬で片付けちまう手段を知っている。淀んだ琥珀色の瞳で、グレゴールは床を見下ろした。
(結んだ荒縄。重たいものを持ち上げるに足るもの)
打ち捨てられた諸々の中に、"それ"は転がっている。以前正体もなくベロベロに泥酔をした時に、左手一本でどうにか作り上げた作品。雑然とした部屋の中で、グレゴールにはそれだけが唯一意味を持ったものに思えた。少なくとも、督促状なんかよりもよっぽど。
荒縄を拾い上げる。何か酷く面白いものでもあるように、じっくりと眺めた。頭の中で、"これ"を使う自分を考える。戦場で、今まで幾度となく人が死ぬところを見てきた。だが死について、俺は全くなにもしらない。
唇が震える。死。永遠の終わりを考える。自分の意思の終わり。真っ暗な無明の闇。
(嫌、だ。死にたくなんて、ない)
どくん。
不意に、心臓が二つあるかのように身体が脈打った。不吉な予兆を感じて、思わず右腕を押さえる。
果たして予想のとおり、異形の右腕がいつの間にか鎌首をもたげていた。いつもの棘だらけの形ではなく、細く伸び上がるように形を変えて獲物を探している。まるで、敵を見つけたかのように。まるで命を脅かすものを見つけたかのように。そして、グレゴールの意思とは関係なく、荒縄に向けて飛びかかっていった。
「やめろ、やめろ!」
今や完全に戦闘の体勢となって、グレゴールは己の右腕に引き摺られていった。ゴミと埃だらけの床に引き倒される。最初の一撃で、右腕は荒縄の結び目を断裂した。
荒縄を目掛けて飛んでいく右腕を、息を荒げて静止する。だが、自分よりも遥かに強い膂力を持つ右腕には到底敵わなかった。一人きりで踊る無様なポルカのように、身が勝手に翻る。いつの日にか駅で、親切にも話しかけてくれた人を襲いかけた時のように。
ひとしきり暴れ回り、ようやく右腕は止まった。グレゴールが目を向けた時には、ズタズタに引き裂かれ、繊維を晒している荒縄が部屋中に撒き散らされていた。床は傷だらけになりひどい有様だ。ゴミ袋も破れて内容物が更に汚く撒き散らされている。
俺の右腕は、俺を害するものを決して赦しはしないのだ。たとえそれが───自分自身であったとしても。
「はは、はは……ははははは!」
俺の生きていたいと言う根源の願望。それに反応してこの醜い生汚いくそったれの右腕は暴れ回る。死を恐れる本能が無くならない限り、この腕は俺を生かし続けるために存在する。
(この───くそったれ───お前のせいだ───お前のせいで、ぜんぶ)
転がっていた酒瓶。グレゴールは無意識にそれを拾い上げていた。役目を終えて、今やすっかり元のかたちに戻った右腕に向けて掲げる。忌々しく悍ましい異形の腕に振り落としたかった。どんなに痛くたって構わない。
だが、酒瓶が振り下ろされることはなかった。無駄なことだと、己が1番分かっている。この程度では傷一つ付きやしない。痛みとともに多少凹みはするだろうが、それも数日も経てば綺麗さっぱり治ってしまうだろう。
(酒瓶が割れて、破片が散らばったら面倒だ。やめとけって)
頭の片隅では、冷静にそう考えている。
さっきまで全てを諦めようとしていた筈なのに。今じゃあ、部屋が余計掃除をするのが面倒くさくなるという打算が湧き上がってくる。そのことが可笑しくて、へらへらとグレゴールは笑った。笑い続けた。可笑しさが抜けた時。波のように襲いくる惨めさに耐えられずに、蹲ったまま息を漏らした。
───きっと俺は、こうやって明日も明後日もまた生きていくだろう。死ぬことすら選べずに、惨めったらしく這いつくばり続けるのだ。
どれくらい、そうやって蹲っていただろう。
夜明けごろ、グレゴールはチャイムの音が鳴り響くのを聞いた。
(誰、だ)
ゆるゆると顔を上げる。動くことも億劫で、とても愛想良く戸口に出ることなど出来なかった。
とんとん、と控えめなノックの音が徐々に大きくなってくる。居留守を使いたくて、グレゴールは息を殺した。誰だろうが何だろうが、早くどこかへ居なくなってくれ、そう願っていた。
「グレゴールさん、グレゴールさん。そこに居るのは分かっています」
「………?」
扉越しに、鈴を転がすような、透き通った声が聞こえてきた。グレゴールは思わず首を傾げた。好奇心に負けて、立ち上がって玄関扉を開ける。
そこにいたのは、白髪の女性だった。
ところどころ寝癖をつけたような柔らかな白髪を持ち、グレゴールよりも長身の女性が見下ろしている。全く、見たこともない顔だった。
むわり、と部屋から立ち込めた臭気に、その女性は僅かに顔を顰めた。なけなしの羞恥心に、思わずグレゴールは頬をあからめた。ゴミだらけの自堕落な部屋は、きっとひどい匂いがするだろう。とっくにおかしくなった自分の鼻には臭わないが。
「はじめまして、グレゴールさん」
「……あー、大家さんに雇われた人かな?」
多分違うだろう、と算段をつけながらもグレゴールは問いかけた。
経験から言うと普通、借金取りっていうのはもっとコワモテの男が来るのだ。こんなインテリそうな、ましてや女性が来ることなどグレゴールの知る限りは有り得なかった。
ぐるぐると視線を巡らせる。どうやら、訪問客は彼女一人ではないらしい。
彼女の背後には、素晴らしく長身の赤い瞳を湛えた男が己を睥睨していることに気がついた。
男は何をしているわけでもない。アパートの剥き出しの鉄筋にもたれ掛かって、ただ物憂げにグレゴールの姿を眺めているだけだ。大きな傷の走った顔。
じわり、と何もしていないのに冷や汗がグレゴールの背中を伝った。戦場で過ごした身が、この男には到底敵わないということを本能に訴えている。思わず半歩身を引いた。
「悪いけど俺さ、昨日無職になったばっかりなんだ。……ちょっと待ってくれないか。三日……いや、一日だけで良い。今月分の家賃くらいは持っていけるから…な?」
我ながら情けのないへつらい笑いだ。さっきまで死のうとしていた筈なのに。また惨めさが胸に押し寄せてくる。……でも、虫ケラにも、死に方を選ぶ権利だってあるだろ?流石にこの部屋から叩き出されて、迫り来る掃除屋の波を眺めながら過ごすのは御免だ。
「……何か、重大な勘違いが生じているようですね」
「我々は、リンバスカンパニーから、迎えに上がったのです。借金取りなどではありません。グレゴールさん」
「リンバス……カンパニー?」
聞いたこともない会社名だ。思わず唇を動かして、聞きなれない名前を口にする。
「私の名前はファウスト。貴方は、弊社に入社する権利があります。……いえ、半ば義務と言っても良いでしょうね。ファウストは貴方が拒否した場合には、取るべき手段を持っています」
ちらり、とファウストという女性の視線が後ろに立っている男の方へ向く。なんか今、ものすごく物騒なことを言っていなかったか?この人……。
それからは流れるようにリンバスカンパニーとやらについて説明を受けた。「ヘルマン」という名前が出た時だけ、びくりとグレゴールは肩を揺らした。寝不足の頭には、彼女が列挙する『俺がリンバスカンパニーに入るべき理由』とやらはさっぱり入ってこない。ファウストさんの説明を聞いても、リンバスカンパニーが、どんなものかグレゴールには何一つ分からない。バスに乗るとか、俺に囚人になれだとか……そう言っていた気がする。胡散臭くて堪らなかった。
(……何だって言うんだ。一体)
およそ想像がつかない事態に巻き込まれて、うろうろと視線を彷徨わせるばかりだった。
ファウストは、説明の最後に息を整えた。真っ直ぐに、グレゴールの顔を見据える。その透き通った青の瞳は不可思議な魅力に輝いていた。
「貴方は───心から望んでいる願いを叶えたくはありませんか?」
そう、臆面もなく問いかけてくる。
「随分とまあ……胡散臭い勧誘だな」
思わず、ゆるゆると皮肉な笑みが漏れる。こうして笑ったのもいつぶりだろうか?
願いを叶えられるだなんて。なんてありきたりで、そして何と素晴らしい誘い文句だろう!
もしかしたら、これは俺をハメる碌でもない罠かもしれない。軽々しくイエスと言えば明日には人間ポップコーンマシンにでもなってる可能性もある。……でも少なくとも、部屋に転がっている荒縄よりはマシなものだろう。グレゴールにはそんな奇妙な予感がした。
「あー……分かった。話を聞くよ。ちょっと待ってくれるかな?身支度を整えるから……」
そう言って、グレゴールは自分の部屋へ引っ込んだ。振り返って部屋を見る。ゴミ溜めに向かい合ってまたため息が漏れた。まだ着古していない、比較的まともな服は一体どこに転がっていたっけか?
薄汚れた窓の外からは、いつの間にやら朝日が差し込んでいる。
グレゴールの寝不足の目には、その光は随分と眩しかった。