勇尾「Incenstuelの後日談」「はい、終わり」
百之助がオセロの最後の駒をひっくり返すと、盤面は綺麗な白にそまった。
「ああ……っ! また負けた……っ!」
ソファの上で正座していた勇作は、土下座のように頭をもたげ、ぎゅうと膝を抱いた。
「兄様は宇佐美さん以外にお友達がいないから、こういうのなら勝てると思ったのに……!」
「残念。昨今はAIという心優しい友達がいるんですなあ」
「うう、あのとき角を取っていれば」
百之助は盤面の角から順に駒を重ね、互いのスペースに収める。オセロの前はウノ、花札、トランプで弟を打ち負かし、勝負はこれで五戦五勝だった。
「急に勝負だなんて言い出して、どうしたんですか」
勇作は膝を抱えたまま、潤んだ目で百之助を見上げた。
「……兄弟ならば互いを補うべきでしょう。俺は自分の優れたところを見つけたい。どんな時にあなたの役に立てるか、知っておくのは俺の義務です」
「はあ、ああ、そう」
「今回は惜しかった……次は勝てそうな気がする……もう一度お相手してもらえますか?」
「まあ、いいですよ。他にやりたいことないんでしょう」
「ありがとうございます!」
勇作は起き上がり、百之助の隣でピシッと背筋の伸びた正座で盤面を睨んだ。
中央に白黒交互に駒を置き「では私から」と勇作が黒を置く。二手、三手……六手目で百之助は勝利を確信した。
「勇作さん、本当に弱いですね」
そういいながら、一つ目の角を取る。
「アッ!……っくぅ~、憎たらしいほど強い……!」
「長考タイムを取りますか?」
「ぜひ!」
「はあ……好きなだけどうぞ」
「今度こそ勝ちますからね!」
「ふん」
百之助はソファに肘を預け、オセロを睨んでぶつぶつ呟く弟の横顔を眺めた。
〈なになにするべきだ〉
勇作はこの〝べき〟が大好きで、時折兄の望みよりそちらを優先させたがる。
情報社会に突入して初めて、人類は未曾有のウィルスに襲われた。報道は毎日感染者数と重傷者、死亡者の数字をパネルに並べて、誰も彼もグラフの上下に一喜一憂する日々。冬の終わりにようやく収まったかと思えば、今度はワクチンをすり抜ける変異株が現われて、再び都市部の感染者数が上昇しつつある。幾度目かのパンデミックよりぎりぎり早く迎えた年末だった。
勇作と百之助は長いこと会えずにいた。
鶴見に薦められるまま退職した勇作は、外国との貿易を仲介する会社に就職した。本格的なパンデミックが起こった時、運の悪いことにヨーロッパへ出張していたのだ。陸続きの諸外国は一斉に国境を閉ざし、互いにウィルスを送り込まないよう完全に鎖国してしまったから、日本との直行便のない小さな国にいた勇作はしばらく出国できなかった。いざ成田へ到着しても数週間の隔離を求められた。
そこまで離れていたら、もう一家族とは呼べない。隔離期間を終えても勇作は家に帰らないと言った。真面目な弟の意思を尊重し、百之助は別居に同意した。
今日、ようやく仮住まいを引き払い、たったふたりの兄弟は十八ヶ月ぶりに顔を合せた。一年半も会えずにいたのに、勇作は帰ってくるなりゲーム盤やカードを広げて勝負を申し出た。もっと他にやる〝べき〟ことがあるんじゃないだろうか。というか、自分が何の役に立っているかなんて、散々教えてきたと思うのだが?
ひとりでああでもないこうでもない、と頭をひねる弟を見ていて、百之助は忍耐が限界に達した。
「やめだ」
弱々しい磁石で吸い付く駒をざあと手で乱す。
「あっ、ひどい、どうぞと言ったのに!」
「ひどいのはどっちだ。勇作さんは俺のことなんて何にも見ていなかったんですね」
「え?」
百之助はぽかん、と口を開ける弟の襟首を掴んで自分に引き寄せた。引き締まった顎に鼻先をすりつけると、勇作は顔を背けた。
「あ、兄様、まだ日も高いのに」
「何を今さら。一緒に暮らしはじめた頃は一日中ベッドにいたじゃありませんか」
「あ、あれは、だって、若かったし」
「たった三年前の話だ」
百之助は弟の腰を膝ですりすり愛撫し、たくましい胸板の中心に走る深い谷を指でつう、となぞる。勇作は「あ」と息を漏らして、腰を引いた。
「ほら、まだ若い」
「……離してください」
身体の熱と相反して勇作の声が硬いので、百之助は素直に手を離した。自分はしつこいくせに、同じことをして怒らせるとそれはそれは厄介なのだ。
「俺は、この大変な時をあなたと離れて過ごして、無力さを噛みしめたんです。愛情だけではどうにもならないことがある。病に限ったことではなく、これからの人生で、あなたのために何が出来るかって」
弟はパンデミックのドキュメンタリーに感化されたのだろう。ワクチン摂取率が八割を超えた今は数字も落ち着いているが、一時は入院先が見つからず、自宅待機中に亡くなる事態に陥った。変異の速度が速いウィルスだから、いつ抗体が無意味になるか知れない。若くても、既往がなくても、けして他人事ではない。
「馬鹿だな。どんなときだって、お前に出来る事なんてたった一つだ」
「ひ、ひどい! 俺は真剣に!」
百之助は勇作の胸に額を預けた。
そろいの鍵がチャリと鳴る。
「生きてるうちに、こうして、たくさん抱いて」
「……兄様」
勇作は百之助の肩を抱き寄せた。ぐっと力がこもって、より鼓動が近くなる。
「そんなこと言われたら、身動き出来なくなるじゃないですか」
「それでいい」
勇作は「もう」とため息をつき、兄を抱えてソファに寝転がった。
とく、とく、とく。
百之助は目を閉じて、勇作が生きている音を身に刻む。
いつか必ず別れがくるなら、出来るだけ長く、この幸福を噛みしめていたい。
しばらくは穏やかな時間を過ごしたが、一時間もすると勇作が「やっぱり一度くらい勝ちたい」と今度は意地で言い出したため、結局ゲーム機も持ち出して十戦した。もちろん百之助の全勝だ。
「んんんんん」
勇作はコントローラーを投げるに投げられず、ぶんぶん振り回して唸った。百之助は武道や陸上競技では絶対に弟に勝てないと大分前から確信しているが、面白いから黙っておいた。