かあいい仔犬のしつけ方 とある昼下がり。
午前の授業が終わり、ガヤガヤと教室内が騒がしくなる時間帯。お昼ご飯を食べたり友人とお喋りをしたりと、各々が好きなように過ごす休憩時間での出来事だった。
ガタァンッ!と教室中に響くけたたましい音。音の原因は倒れた椅子のようであった。
椅子の傍には酷く不機嫌な顔をした杉下京太郎と、その顔を真正面から受け睨み返す桜遥の姿があった。
まさに一触即発、今にもお互いが掴みかかりそうな雰囲気を醸し出している。
「ヴヴ………………」
「何だ、テメェ。やんなら表出ろや」
低く唸る杉下に、目を見開き煽る桜。
このままではまずい、と思ったのであろう楡井秋彦が大声でストップをかける。
「ちょ、ちょっとちょっと!桜さん!杉下さん!何してんすか!」
「ア?何って、コイツが喧嘩売ってくるから買っただけだ」
くいっと親指を杉下の方へ向ける桜。その仕草すら癪に障るのか、杉下は「……?」と額に青筋を浮かべている。
そんな二人に気圧されまいと楡井が再び声を上げた。
「いやもう喧嘩するのはいつものことなんで良いんすけど!場所と時間考えてくださいよ!皆、穏やかにご飯食べてたんすよ!?他所で!やってくださいっす!!!」
桜がちらりと周りを見遣ると、教室にいるクラスメイトらが心配そうにこちらを伺っていた。
近くにいた杏西なんかは、自分の昼飯がひっくり返されないようにとお弁当を抱えている。
桜はバツが悪そうに白黒頭をポリポリと搔いて、舌打ちをした。
「…………ちっ、わあったよ。こっち来い、杉下」
「命令すんな、バカが」
「!?テメェ、今ここで絞め落としてやってもいいんだぞ」
「出来ねぇこと言うんじゃねぇ」
またしても掴み掛かる二人。無限ループかと思われたが、二人の間から楡井がぬるりと顔を出す。
「桜さん……?杉下さん……?オレの話……聞いてました?」
楡井の声のトーンが一つ下がった。流石に杉下もまずいと思ったのか、桜のシャツを掴んでいた手をパッと離し「…………行くぞ」と少しだけ目を泳がせながら教室の外へ向かっていった。
のそのそと教室を出ていく杉下。その後ろをついて歩こうとしていた桜の足がぴたりと止まる。
教室を出る直前、桜は楡井と蘇枋の方へと振り返り声を掛けた。
「…………楡井、蘇枋。午後、多分……多分な?暫く戻らねぇ……と思う。少し頼めるか?」
楡井と蘇枋はお互い顔を見合わせ、ため息をついた。
「はぁ……見回りの時までには戻ってきてくださいよ?」
「桜くん、程々に……ね」
「………………アイツ次第だ」
くるりと踵を返し、教室を出る。
先に出ていた杉下へ「ついてこい」の意味を含ませながら顎を刳る。
杉下は先程のように文句を言うことは無く、大人しく隣へ立った。
「最初からそうしろってんだよ」
「……………………ふん」
桜の歩幅に合わせて歩く杉下。
道中は特に二人で何を話すでもなく、ある場所へ向かった。
◇◇◇◇◇
ガラッ、と少々建付けの悪い扉を開く。
今はどの授業にも使われていない空き教室だ。人があまり出入りしないせいか、少し埃っぽい。
桜はいそいそと閉められていたカーテンを開き、窓を開ける。あたたかい陽の光と清らかな空気が入り込んできて、少しだけマシになったように感じた。
そのまま近くにある椅子に腰掛け、未だ立ったままの杉下へ声を掛ける。
「………………杉下、こっちおいで」
「…………………………や」
「や、じゃねぇの。お話しような?京太郎くん?」
おいで、と自身の太腿をパンパンッと鳴らすと、杉下は渋々といったように近付いてきた。
そのまますとん、と床にしゃがみ込み桜の太腿へ頭を預ける。
「ちゃんと来れるじゃん。京太郎くんはいい子だな」
「………………黙れ」
「そんな口、きいていいんだっけ?」
じっ、と桜が杉下の瞳を見つめる。杉下は「…………んん」と一つ唸り、目を伏せてしまった。まるで叱られた仔犬だな、と桜はふっと笑みを零す。
「……で?何であんな不機嫌だったの」
「……………………」
「お話、できる?」
杉下の髪の毛をさらりさらり、と撫でてやる。撫でられることが余程心地好いのか、杉下が「もっと」というように頭を擦り付けてくる。
だが今は〝お話〟が最重要事項だ。杉下の頭からパッと手を離す。
急に撫でられることを中断された杉下は少しだけ眉間に皺を寄せて不服そうにこちらを見上げた。
桜はそんな杉下の涙袋を親指で一つ優しくなぞる。
「撫でて欲しいなら、話せるな?」
目を見て問うと、杉下は小さくこくりと頷いた。
「……………………ん」
「どうして?」
暫く黙っていた杉下だったが、桜が「杉下」と催促するとやがてぽつりぽつりと話し始める。
「……………………お前、が……飯食ってる時……アイツらの方見て」
「うん」
「楡井と蘇枋のことが……かあいいって、顔……した」
「………………うん?」
いや、まあ確かにあの時昼飯を食っているアイツらの方をちらりと見たのは確かだ。
ただ、友人らが楽しそうにしているのを見て少し顔を綻ばせただけだ。本当にただそれだけ。
だが、杉下はそれが気に食わなかったという。不機嫌を顕にしてしまうくらいに。
つまり
「…………なんだ、ただの嫉妬か」
「……………………だから言うのやだったんだ」
桜の太腿へ顔を埋めるようにする杉下。その耳がほんのり赤く色付いているのを桜は見逃さなかった。
耳朶へ指先を這わせると、杉下がピクリと肩を揺らす。
そろり、と顔を上げこちらをギロリと睨んでくるが全く怖くなどない。そんな顔をしたって、仔犬のかあいらしい威嚇に過ぎない。
「そんなにオレが余所見すんのやだったの、京太郎くんは?」
「…………………………」
「ふは、そんなに唸るなよ」
可愛い奴だね、とまた一つ頭を撫でてやる。
すると杉下がいきなり手首を掴んで強めに引っ張ってきた。
座っていた姿勢がぐらりと崩れる。
自然と杉下と顔の距離が近くなった。思わず視線を逸らしてしまう。
「…………ってぇな、何すんだ」
「…………話したぞ」
「あ?あぁ、そうだな」
「……いい子に出来たんだからさ、褒美があっても良いんじゃねぇの」
さらにぐいっ、と引っ張られ椅子から転げ落ちるかと思えば杉下の膝へ乗せられた。
そのまま背中の方へ手を回され、がっちりと固定される。逃げ場がなくなってしまった。
「…………褒美って、何して欲しいんだよ」
「お前が一番分かってると思うけど?ご主人様」
「………………タチ悪ぅ」
「なんとでも」
杉下が鼻頭をすりすりと擦り付けてくる。眦、頬、鼻へ擦り付けるだけで、唇を重ねようとはしてこない。
待てが出来るのは褒めることだが、今の雰囲気で忠犬よろしく待てをされても焦れったいだけだ。
ちょん、と人差し指で杉下の下唇に触れて催促する。
「…………早くしろよ」
「ア?褒美なんだから、お前からしろ」
「あ、アア!?」
「………………」
「…………………………っ、クソ!」
じっとりと見つめてくる杉下に根負けして瞳を閉じて唇を重ねようとした。
だがそれをひょいと躱される。
「…………おい、ふざけてんならやめるからな」
「違う」
「じゃあ、何だよ」
苛立ちを隠さずに杉下へ問い掛ける。
ただ杉下は小首を傾げてこちらを伺ってくるだけだった。
何が不満だ、と問おうと口を開こうとすれば杉下の声が重なった。
「……犬の躾は、目見てやるもんじゃねえの」
「……………………はっ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
杉下はそれを気にすることも無く続ける。
「褒美やるのだって、躾の一環だろうが。目見なきゃ意味ないだろ、桜」
ついっ、と瞼をなぞられる。
コイツ……と睨むが杉下は心底楽しそうな顔をしている。何が躾だ、本当にタチが悪い。
揶揄われているようで腹が立つ。だが今更コイツの腕を振りほどいて立ち去ることも出来ないくらい、先を期待してしまっている自分がいる。それにも同じくらい腹が立った。
イライラと歯軋りをしていると、急かすように杉下から甘えた声が発せられる。
「なぁ、なんもくれねぇの?」
「……………………」
「さくら」
「………………わあったよ、んな甘え声で鳴くな」
ふわりと杉下の両頬を包み込み、唇を重ねる。勿論、目はお互い開けたまま。
互いの瞳を見つめ合いながら何度も角度を変え唇を重ね合わせた。
すぅっと細められる杉下の瞳。次第に羞恥心が募り、自身の目にじわりと涙が溜まるのが分かる。
もういいだろ、と唇を離そうとすると後頭部をがしりと抑えられた。そのままがぶり、と再度唇に噛みつかれる。
「んんっ……!?んっ……ぁ、ちょ、すぎ…………んっ」
「………………ん、もっかい、ね、さくら」
「お、い……も、おわ…………んっ、んぶ、んんんっ……は、ぁっ……ん、く」
唇の隙間を割って、杉下の分厚い舌が入り込んでくる。逃げようと舌を引っ込めるが、いとも容易く絡め取られてしまった。何でこういうところは器用なんだコイツは、と心の中で小言を漏らす。
散々口の中を舐められ、しゃぶられ感覚が無くなってきた。最後に、と強めに舌先を吸われ腰が震える。
長い口付けの合間に漏れる甘い声に杉下は気を良くしたのか、満足気に鼻を鳴らしていた。
酸欠でくらくらする頭でどうにか文句を言おうとするが、上手く言葉にならない。
「…………ぁ、も…………あほ、駄犬…………」
「…………なんで、ちゃんと気持ちよくしただろ」
「……はっ、ふぅ……きもちくしろ、なんて、……ん、言ってねぇんだよ……ばか」
ぽすっと杉下の頭を叩く。
べとべとになった口周りを拭い、息を整える。
壁に掛けられた時計を見遣ると、だいぶ時間が経ってしまっていた。そろそろ昼休みも終わってしまう。
教室に戻ろうと立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。それに、背中に回された腕に力が込められたのが分かった。
「…………杉下?」
「……………………まだ……………欲しい」
鎖骨付近に顔を寄せられる。杉下の長い髪が肌に当たって擽ったい。
擽ったさを逃そうと身を捩らせるとぐっ、と甘えるように腰を擦り付けられた。
杉下の、明らかに熱を持ったソレが臀部に擦り付けられカアァッと頬が熱くなるのを感じた。
「………………お、お前なぁ……おいたが過ぎんぞ」
「……じゃあ躾ろよ」
なぁ、と小首を傾げながらこちらを見つめてくる。
コイツはどうも、オレがそのかあいらしい仔犬のような顔に弱いことを学習しているらしい。
「………………躾、だからな」
「ん」
「甘やかしてんじゃ、ないからな」
「ん」
「……………………………………お、いで」
「…………わん」
どさり、と杉下が覆い被さってくる。長い髪を退けてやると、どろどろとした欲が融けた瞳と目が合った。
あぁ、クソ。全然……仔犬なんかじゃねぇ。
桜はほんの数秒前の自分に舌打ちをしながら、目の前の涎を垂らす獣に腕を回した。
◇◇◇◇◇
「桜さんたち……大丈夫でしょうか?」
ちらりと時計を見ると、桜と杉下が出ていってからだいぶ時間が経っている。楡井は何度も心配そうに教室の扉の方を確認しては、落ち着きなくソワソワとしている。
「うん?あぁ……どうだろうね。まあ、今日の見回りはメンバー変えることも考えとかなきゃいけないかもね」
蘇枋はにこりとしながら何でもないように答える。
そんなカラッとした様子の蘇枋とは真逆に楡井は冷や汗をだらだらと垂らした。
「え、そんな大喧嘩になる予定っすか……?やっぱ今からでも止めに行った方が……」
「あ、いや怪我というより……足腰が立たなくなる、が正しいかな?あと止めに行くのは辞めた方が良いよ、にれくん。火傷するから」
「足腰……?やけど……?」
頭に疑問符を浮かべる楡井。そんな楡井のたんぽぽのような頭をふわふわと撫でながら蘇枋はまたにこりと一つ笑顔を浮かべた。
「ふふ、まあ放っておいても大丈夫だよ。あの二人はオレらが思ってるよりずっと、ずぅっと上手くやってるんだから」