来年もまた晴れたら 夜明け前の町を二人で歩く。
くぁ、と眠たげにあくびをする杉下に釣られるように桜からも小さなあくびがこぼれ出た。
かなり眠たい。
初日の出を見に行くつもりで、桜はともかく杉下は一度眠ってしまえばなかなか起きられないからと二人揃ってずっと起きたまま夜を過ごしていたせいだ。
空はまだとっぷりと暮れて夜の様相を呈している。
明け方が近づくにつれどうにも眠気に耐えきれなくなって、このままでは寝落ちしかねないと外に出てきたが些か日の出には早すぎたようだと桜はそっとため息を吐いた。
「…これ、どこ向かってんの」
寒さでも拭いきれない眠気を紛らわそうと杉下に話しかけると、杉下は杉下で眠気でうまく頭が回っていないらしく答えの代わりに小さくむずかるような声を漏らす。
そのくせ外灯にぼんやりと照らされた杉下の顔は眠気に抗うように思い切りしかめられていて普段より随分と厳めしく、その顔と行動の見合わなさに思わず桜の口からふは、と笑みがこぼれ出た。
桜の笑い声でほんの少し意識がはっきりしたらしい杉下が何故笑われているのかわからない、と言いたげな顔をして桜を見る。
「っ……これどこ向かってんのって」
笑みを引っ込めようとしても勝手にじわじわと持ち上がってしまう口角を咳払いで誤魔化して同じ問いかけを繰り返す。
ああ、と杉下が暫し考えを巡らせるように視線を彷徨わせて、それからひたりと桜に目を向けた。
「だいぶ歩くけど、いいか」
特に断る理由もなく、二つ返事で了承した桜を先導するようにゆらりと歩き出した杉下についていく。
ぽつりぽつりと他愛もない会話をしながらだいぶ歩くという杉下の言葉通りそれなりの距離を歩き続け、ふと空を見上げた時には空はいつしか夜の気配が薄らいで夜闇の黒から紺青色へと姿を変えていた。
夜風にふわりと靡く杉下の髪の色がその空の色に溶けるように馴染んでみえて、桜は呼び掛ける代わりに腕を伸ばして杉下の髪を少し掬い、確かめるように指先で撫でた。
「何だよ」
「別に。……まだ着かねぇの」
杉下に訝しげな目を向けられ、確かな感触があったことにそっと安堵して手を離す。
こうしている間にも夜明けはじりじりと迫ってきていて、空の明るさが少しずつ増してきていた。
刻一刻と移り変わる空の色から目を離せなくてずっと視線が上向いたままの桜に呆れたように息を吐いて、桜の腕を掴んだ杉下がそのままゆっくりと歩き出す。
「…もう着く」
桜が転けないように、ぶつからないように導く杉下に連れられて残り僅からしい目的地までの道を歩く。
建物と建物の間に見えていた空が不意に大きく広がって、桜はそこでようやく視線を前に戻した。
「…海?」
「ん。…よくじいちゃんと釣り来たりしてたから」
見晴らしがいい場所、と考えて思いついたのがここだったらしい。
水平線の向こうにはもう曙色が滲んでいる。
堤防や海沿いの道にはポツポツと疎らに人の姿があって、間もなく訪れる日の出を今か今かと待っている様子が窺えた。
「…早く家を出てきて良かったな」
そうでなければきっとこの場所に辿り着く前に日の出を迎えていた。
もしそうなっていたら、河川敷の橋の上だとか、そういうところで初日の出を拝むことになっていただろう。
それはそれで良いものだと思うがやはり杉下が桜のためを想って考えてくれたことが嬉しくて、どんどん明るさを増していく水平線上の曙色の麓から輝かんばかりの眩さを伴って太陽が顔を出した時、桜はその光景に容易く目を惹き付けられた。
じわり、じわり、と太陽が次第にその全容を現していく。
陽が昇っていく様をこれほどまじまじと見たことがなかったからその光景が何だか新鮮ですっかり見入ってしまい、太陽がその全容を現して尚さらに高く昇るところまで夢中になって目で追いかけた。
そうして初日の出に目を奪われている間に冬の空気と海風に冷えた体がぶるりと震え、桜はそこで唐突に我に返った。慌てて杉下の方に視線を向ければ杉下はじっと様子を窺うように桜のことを見つめていて、二人の視線は逸らされることなく束の間ぴったりと重なり合った。
「…そろそろ帰るか?」
「…そうだな……ありがとう、杉下」
初日の出を拝む、という目的を達成したからかいつしか忘れていた眠気がその強さを増して襲いかかってくる。
たぶん家に戻ったらすぐ自分も杉下も泥のように眠るだろうなとぼんやり思って、それからそういえば連れてきてもらった礼がまだだったとぽつりと礼を口にした。
最後にと振り仰いだ空にはもういつも通りの青空と太陽の姿があって、あれほど食い入るように見つめていたというのに何だか名残惜しいような気持ちになる。
「…もうちょっと見てたかったな」
「?…見に来たらいいだろ」
うっかりこぼれ落ちた桜の本音を怪訝そうな顔をした杉下が拾う。
さらりと事も無げに言葉を返した後、桜と同じようにもう日の出と言うには遅すぎる空を見上げ、来年もまた晴れてたら、と呟くように続きの言葉を口にした杉下に桜はぱちくりと目を瞬く。
それは、天気さえ良ければまた同じようにここに来てくれるということか。
「…来年も起きといてくれんの」
「」
つい確かめるような言葉を口した桜に杉下から不機嫌そうな声が漏れる。
しかしその声とは裏腹に杉下の表情がわざわざ確認するなと言外に訴えかけてきていて、桜の口許がむずむずと緩んだ。
「じゃあまた来年、晴れてたら」
ん、と杉下から頷きが返ってきて、そこでぱたりと会話は途切れる。
二人の間で交わされた、眠気も相まって夢のようにも感じる何とも気の長い約束がちゃんと果たされてくれたらいいと密かに願って、二人は早朝の町をゆっくりと歩き出した。