言葉足らず、分かち愛 杉下京太郎は悩んでいた。
梅宮さんの畑の苗が上手く育たないこと?違う。小テストの結果が見るも無残で、どう祖父母に言い訳をするかということ?違う。
悩みというのはそう、桜遥との関係性に悩んでいた。
桜とは少し前に想いを通じ合った仲……要はお付き合いをしている状態ではあるが、如何せん二人とも恋愛初心者なので何も発展がない。いつも通り言い合いをして、小突き合いなんかもして周りに宥められての繰り返し。何も変わらない、付き合う前と変わらぬ日常を過ごしている。これで良いのだろうか?と思うのだが、従来の口下手が邪魔をして何を伝えられる訳でもない。愛の言葉なんて以ての外だ。逆も然りで、桜から何か囁かれるわけでもない。もちろん、喧嘩以外で触れ合うこともない。そんな状態で時間だけが無情にも流れるのだ。そうして今日もただこうして、桜が周りの友人らと楽しげにしている様子を一人離れて眺めていることしかできない。
もっと国語の勉強が得意であったら胸の内を明かすことも容易かったのだろうか。早くから人間関係について向き合っていたら円滑に物事を進められていたのだろうか。そう思わずにはいられない。
胸がつかえるような感覚をどうにかしようとはああ、と重いため息をつく。すると後ろからとんとん、と軽く背を叩かれた。振り返るとそこには心配そうな顔をした楡井秋彦が立っていた。「えっと、あの」と楡井が口にする度にふわふわとしたたんぽぽ色の髪の毛が上下に揺れている。「なんだ?何か用か?」という疑問を目だけで訴えると楡井は大きな目を右へ左へときょろきょろさせ、意を決したように口を開いた。
「す、杉下さん!」
「……………………なに」
「ひぇ…………あ、あ、あの…………杉下さん、また何か……悩み事があるんじゃないかな…………と!ため息……ついてたので」
メモ帳を持ちながらワタワタと慌てた様子を見せる楡井。本当に、コイツは周りをよく見ている。目敏い奴だな……と思いながらも楡井の方へ向き直った。数秒程、頭の中で話す内容を考えながら口をもごもごとさせる。その間も楡井は急かすこと無く、ただ黙ってオレの次の言葉を待ってくれていた。
「……………………なや、み……というか」
「はい!」
「その…………桜、に……何か、言ってやった方が……いいの、かな……って。アイツも……なんも、言わねぇ……し」
「桜さんに……ですか?何か伝えたいことがあるんですか?」
「ゔ………………」
付き合っているのだから、何か甘い言葉の一つや二つ伝えたほうがいいのか?なんて。絶対に言えない。言えるわけが無い。柄じゃない。顔を茹でダコのように真っ赤にして唸っていると、楡井が何かを察したのか、ハッとしたような顔をして腕組みをした。
「なるほど……そういうことですか……でも、杉下さん。オレ……あんまりこういうことに関して詳しくは無いので、参考程度にして欲しいんですが……良いですか?」
「……………………ん」
「多分、多分ですよ?そういう愛情表現とかって、言葉だけに限定するものでは無いと思うんです」
「……………………ン?」
何か難しい話をしている気がする。理解が追いつかず、頭に疑問符を浮かべていると楡井が「なんて言ったらいいんでしょう……」と腕組みをしたまま身体を仰け反らせていた。うんうん、と唸りながらも楡井は続ける。
「きっと今杉下さんは、桜さんに愛ある言葉を告げられないこと、また桜さんからも言葉が特に無いことに少し不安を感じている……んですよね?」
「ん…………?んん」
「一応、肯定と取りますね。ほら、思い出してみてくださいよ。商店街の硝子屋のご夫婦。特に会話とか仲良くしてる様子って無いなあと思いませんか?」
商店街の硝子屋の夫婦を思い出す。あそこの夫婦は小さい頃から知っているが、確かに言葉数が少なかったような気もする。交わしているのは仕事中の報告のような事務的なやり取りで、世間話をしているような様子は一切見たことがない。楡井の話にこくり、と頷くとそれを確認した楡井が続けた。
「でもあそこのご夫婦の雰囲気って、冷たさなんかは一切無くて……寧ろ互いがずっとあたたかい縁側に座っているような……そんな柔らかな雰囲気がありませんか?」
「………………ん」
「ご夫婦の詳しい事情とかはよく分かりませんが、きっと言葉が無くとも愛を感じられる瞬間があるから、ああして今も尚、二人寄り添えられていると思うんです」
言葉が無くても愛情を感じられる瞬間。そんなものがあるのだろうか。だって、愛というのは目に見えなくて、だからこそ言葉にしないと分からないものなんじゃないのか。以前、テレビで垂れ流しにしていた恋愛トークショーなんかでもそういう意見が飛び交っていた気がする。いや、でもあの硝子屋の夫婦はそんなの関係無しに上手くやっている……らしい。どういう理屈なのだろう?やはりオレには難し過ぎる話な気がしてきた。頭から湯気が出るのではないかというくらい悩み唸っていると、楡井が少しだけくすっ、と笑った。
「杉下さん。今日の見回り、桜さんとお二人で廻ってみては?他のルートはオレたちが廻りますので!」
「え………………なんで」
「これはオレの勘ですが、桜さんの隣で歩けば何か分かりますよ!きっと!」
そう言ってにかっと笑う楡井。適当なこと言いやがって……と頭を掴みそうになるが、思い留まった。楡井のアドバイスというのは核心を突いていることが殆どだ。物事を色んな視点から見ることができ、それらを噛み砕いて理解し、他者へ提示できる楡井の言葉には頷く他無いのである。
「………………わかった」
「そうと決まれば話は早いですよ!オレから桜さんには伝えときますんで!」
駆け足で傍を離れ、桜の元へ向かう楡井をただ眺めることしかできなかった。前に桜について相談事をして以来、楡井は本当に遠慮が無くなったように思う。仔犬がキャンキャンと周りを跳ねているような騒がしさに項垂れそうになることもあるが、真正面から向き合おうとしてくれることに感謝している気持ちは変わりない。楡井と桜が話している様子を横目に机に突っ伏す。次第にあたたかな陽の光が緩やかな眠気を運んでくる。重くなってゆく瞼に抗えず、そのままゆっくりと眠りに落ちた。
◇◇◇◇◇
「…………い、す…………した!杉下!」
「…………ンン?」
肩を揺さぶられ、耳元で聞き慣れた凛とした声がした。眠たさに未だ目を開けられずにいると、目の前に居る声の主がぺしんと額を軽く叩いてきた。苛立ちを隠しもせず、声の主の方へと唸り声を上げる。
「………………何すんだ、テメェ」
「何すんだ、じゃねぇよ。見回りだっつってんだろ。もう他の奴ら出ちまったし……早く準備しろよ」
ぱちりと目を開けると、目の前には不機嫌そうにした白黒猫が唸っていた。早くしろ、と急かすそいつを無視して一つ欠伸をする。外に目をやると少しだけ日が傾いていた。そんなに眠っていたのか、と少々驚きつつ伸びをする。桜はそんなオレを見て呆れたようにため息を吐きながらつま先をタンタンと鳴らしていた。まるで猫がしっぽをタシタシと床へ叩きつけているようだな、なんて思っていると桜が不貞腐れたような声を上げた。
「今日、オレと杉下で別の道見回り行けってさ。楡井が言ってた。何なんだろうな、別に皆で行けばいいのに」
「…………………………さあ」
がたり、と席を立つ。桜の方を一瞥し、そのまま教室の扉の方へ向かうと桜が小走りで追いかけてきた。
「杉下テメェ……待っててやったのに置いてくたあ、どんな料簡だ?ア?」
「うるせえな、早くしろ」
「お前が言うな!」
ぎゃあぎゃあと廊下に響き渡るような言い合いが始まる。まただ。ここで自分が『待たせて悪かった』とか『一緒に行こうか』とか気の利いた言葉の一つや二つが言えれば特に問題など無いのだ。それがやはり言えず、こうして売り言葉に買い言葉を重ねてしまう。どうしたものか、と眉を寄せる。ふと、眠りにつく前に交わした楡井との言葉を思い出した。『隣で歩けば何か分かりますよ!』という何とも曖昧な言葉。
大股で歩く足を緩め、斜め後ろを小走りに追いかけてくる桜の隣に並んだ。そのまま歩幅を合わせてゆっくりと歩く。これで、何が分かるというのだろうか。特に二人の間で面白可笑しい会話などをすることも無く学校を出て、いつもとは違う馴染みの無い道をゆったりと歩いた。耳に届くのは町にある風鈴の音と桜の足音だけ。楡井の奴……やはり適当なことを言ったのだな、と少し腹立たしさを感じて眉を寄せた時、桜の小さな声が聞こえた。
「………………ねこ」
「あ?」
「屋根の上。いつもアイツあそこで寝てんの」
桜の指差す方をすっ、と見上げると青い屋根の上で三毛猫が丸くなって寝ていた。いつも、ということは桜は何度かこの道を通ったことがあるのだろう。きっと趣味の散歩か何かでウロウロとここら辺を歩いては、様々な景色を色違いの両の目に映しているのだ。
「…………他は?」
「あ?何が」
「あと、いつも何見てんの」
移りゆく景色をあの昼夜を宿した瞳に記録している。なんだかそれがとても美しいことのように思えて、桜にいつも見ている景色の共有の催促をした。単純に、知りたくなった。コイツが何を見て、何を感じているのか。
桜はううん、と一つ唸り考え込む。それからぽつりぽつりと話し始めた。
「あの曲がり角の公園で、紙芝居やってるじいさんがいる」
「へぇ」
「ここの自販機のコーラ、何故かいっつも売り切れてる」
「ふうん」
「たまにあっちの土手の方、草刈りしてんだよな。草の匂い、オレ好き」
「そう」
桜の口から小さく零れる何でもない話が、特別なもののように聞こえた。別に愛が込められた蕩けるような言葉なんかじゃない。それでも、どうしてこんなに心満たされるのだろうか。少し考え、ふと思いついたように猫背を更にグッと曲げた。桜と同じ目線になるくらい、身を屈めた。少しだけ低くなった視界がどこか新鮮だった。
ああ、そういうことか。
楡井の言っていた意味を少しだけ理解できたように思う。好いた人が何を見ているか、何を感じているか、それを知ることができるだけでもこんなに満たされるのだ。自分の持っているスケッチブックの真っ白なページに鮮やかな絵を描いてもらっているような感覚。自分が持ち得ない色を用いて次々と彩られてゆく感覚。きっと、あの硝子屋の夫婦もそういった愛の形を共有し続けていたのだろう。今なら少しだけ、納得ができる。一つ愛の定義とかいうものについて理解が深まったことに満足していると、隣の桜が小さく震えていることに気が付いた。
「え、何、杉下……顔近ぇ…………」
「ア?あー…………いや、お前の目線ってこんなんなのかって」
「は?小せぇって馬鹿にしてんのか」
「違ぇよ、バカが」
「ア!?」
シャー!と毛を逆立てた猫のように威嚇をする桜にフンッ、と一つ鼻を鳴らす。しかしここで一つ疑問に思った。オレは特に言葉を貰わずとも満たされると解ったが、桜の方はどうであろうか?桜もまた、不安に駆られることがあるのではないだろうか?オレの見るものを共有したところで、桜が同じように満足してくれるとは限らない。そう気付いてしまい、何だかまた振り出しに戻ってしまったような心地がした。桜に合わせていた目線をすっ、と戻す。少し身を屈め過ぎて首が痛くなってしまった。後ろ首を摩っていると、不意に反対側の袖をくんっ、と引かれる。そちらに目を遣ると桜が何か言いたげにしていた。なんだ、と目だけで訴えると桜が口を開く。
「……さっきの、話、あんま……楽しくなかったろ」
「は、なんで」
「いや…………何となく?」
何となく、で人の感情を判断するとは何事か。そういった視線を向けると桜は慌てて顔を逸らした。気まずそうに俯く桜の旋毛が見える。どうもコイツは呆れるほどに自己肯定感が低いらしい。つんつん、ぐりぐりと旋毛を押してみると「やめろやぁ……」とか細く鳴く声が聞こえた。ふむ、と少し考え、試しに自分の見てきたものを共有してみようと思い立つ。桜も同じように満足してくれるかなんて分からないが、何もしないよりはマシだろう。頭の中にある淡い記憶を一つずつ差し出すように呟いた。
「ここの川の上流、鮎がよく釣れる」
「ン……?へえ」
「流れが緩やかなところもあって、そこでよくじいちゃんと笹舟作って流してた」
「笹舟?」
「ん。笹の葉で作れんの」
「へえ、お前意外と器用なんだな」
「笹笛なんかもできる」
「え、すご」
パッと顔を上げキラキラと目を輝かせる桜に安堵した。ああ、こいつもオレの見ている景色や経験の共有で喜んでくれるのだな、と。同じような感情を抱いてくれることが嬉しくて目元が緩む。緩んだ目もそのままに、桜に問いかけた。
「どうだ?」
「ん?」
「楽しくねぇ?」
桜は目をぱちくりとさせて、やがてゆっくりと首を横に振った。少しだけ赤く染めた頬をポリポリと掻いている。ちょん、と口をほんの少しばかり尖らせてぽそりと零した。
「んーん、楽しい……し、嬉しい」
「あ、そ」
「なあ、杉下。今度お前が言ってた川の方に行ってみようぜ。ちょっと、気になった」
「………………ん」
短く返事をして、また二人でゆったりと歩き出す。会話なんてやはり無い。
未だ甘ったるい言葉や気の利いた台詞なんて声に出すことを考えられないけれど、それでも良いのだと思えた。何も明確な言葉などに囚われる必要など無かった。こうして、互いの人生を彩った何かを共有するだけでも伝わるのだ。情景を、経験を分かち合えることが、オレらにとって最上級の愛情表現であると言えるかもしれない。それが分かっただけで十分な収穫だ。それはそれとして言葉選びもまた勉強しなくてはならないな、とは思う。だが今はそれは後回しだ。国語の勉強はめっぽう苦手なのだ、ちょっとくらい遠回りしたっていいだろう。
太陽が段々と沈んでゆき、遠くに一等輝く金星が見える。茜と青藍が混じる空を今、隣にいる桜と共に眺められている。ちりちりと鳴る小さな風鈴の音を共に聴けている。そんな小さな幸せに口元が少しだけ緩んだ。
「何ニヤついてんだ?杉下」
「……………………別に」
「んだよ、教えてくれたっていいだろ」
「やだね」
変な奴、とボヤきながら隣を歩く白黒猫。その足取りがやけに楽しそうに見えた。少しでも桜を、桜と同じ景色を長く見ていたくて、ゆったりとした歩調を更に緩めた。