大学生の薫と女子高生晃牙のパロまだまだ寒い3月の下旬、暦の上では春だって言うのに最近の気象は様子がおかしい。本当にこれから春が来るのか怪しいほどに風が冷たくて未だに衣替えも出来ていない。今日だって中々布団から抜け出せなくて、いつもより早く起きようと思って設定したアラームを止めて二度寝した。結局普段通りの時間にやっと動き出して、こうして客人を迎える準備をしている。
(大事な話……なんだろ)
滅多にメッセージを送ってこない父さんから来た久々の連絡は相変わらず端的で、ただ『大事な話がある。20日、予定を空けておきなさい』とだけ。わざわざ日付も指定してくるなんて一体なにを言われるんだろうと少し緊張してしまって、さっきから壁にかけてある時計をチラチラと確認している。忙しいあの人がわざわざ俺の家まで出向いてくるなんて余っ程のことじゃない限りありえない。なにか悪いことしたっけなぁ…と、良くない話をされる事を前提に頭を悩ませている自分に思わず苦笑して、小さく深呼吸をしながらリビングのソファに座り込んだ。時計の針は10時56分を刺していて、約束の11時まであと僅かであることを示している。父さんのことだから時間丁度か少し前にはインターホンがなるだろうと予想していると、針が一つ進んだタイミングでちょうど軽快なチャイムの音が鳴り響いた。
「はいはーい」
リモコン越しに声をかけてエントランスの扉を開く。一人暮らしするにあたって防犯がしっかりしているところに住むように、と条件を出されたから、こうして普通の大学生では到底借りれないようなマンションに住まわせてもらっている。所謂タワマンというやつなのだが、正直大学の友達には住んでると言いづらい家だ。男なんだし防犯面はそんなに気にすることじゃないと思っていたけれど、それを言ってしまったら父さんの長いお小言が始まってしまうので口を噤んで大人しく言われた通りの物件に身を置いている。まあ最寄り駅までも遠くないし、近くに大きなスーパーもコンビニも飲食店も、ある程度揃っていて良いところだとは思うけれど。
色々と考えているうちに今度は玄関先のインターホンが鳴った。一応ドアスコープを覗いてからドアガードを外して鍵を開ける。これももう習慣になってしまっていることだ。我ながら親の言いつけを守るいい子ちゃんだよね。扉を開けた先には、昔から変わらない硬い表情と少し白髪の増えた髪、それと懐かしい香水の匂いを纏った父さんが立っていた。
「いらっしゃ……」
言葉を続けようと開いた口をそのままに、視界の隅に写った人影に視線が引き付けられた。ドアスコープ越しでは父さんの陰に隠れて分からなかったけれど、父さんの後ろには俺より幾つか年下であろう女の子が立っていた。綺麗な銀髪を肩口まで伸ばしていて前髪の隙間から覗く大きな金色の瞳はじっとこちらを見つめている。手には大きなキャリーケースがあり、格好だけ見ればまるで旅行帰りのようにも見える。しかしその表情はとても楽しく遊んで来ましたというものには見えなかった。俺と目が合えばこちらを警戒している野生動物みたいに顔を強ばらせて、持っているキャリーケースのハンドルをきつく握りしめた。
想定していなかった訪問者にぽかんと呆けることしか出来なくて思わず父さんを見やるものの、相変わらず感情の読めない表情で淡々と言葉を連ねていくだけだった。
「久しぶりだな、薫。いつまでも玄関に立ってないで部屋に通してくれないか」
「あぁ、うん……えっと、その……後ろに立ってる子、誰?」
嫌味を言われたことよりも謎の少女の存在の方が俺にとっては重要で、反応することも忘れて女の子を凝視する。父さんが言っていた大事な話、わざわざ俺の家に来たこと、そしてこの見知らぬ女の子。嫌な予感が脳内を駆け巡る。
「彼女についても詳しく話すことがある」
促されるがままに父さんと女の子を部屋に迎えて二人にはリビングのソファに座ってもらってから飲み物を取りにキッチンへと向かった。飲み物、紅茶でいいかな、父さんは珈琲でもいいだろうけどあの子の好みは分からないしあまり時間もかけていられない。用意しておいたお茶菓子と飲み物をトレーに乗せてリビングへと戻れば、シンと静まり返ったなんとも居心地の悪そうな空間が出来上がっていた。
「はい、どうぞ」
「……どーも」
ローテーブルにカップを置けば小さな声が聞こえた。想像よりハスキーな声は耳に心地よくてちらりと顔を見れば、彼女はただジッとカップを見つめていた。
父さんの前にもカップを置いて向かい合う形になるように一人用のソファに腰掛ける。無言の時間が流れて、どう話を切り出したものかなと考える。だって、大事な話があると言われてまさか見知らぬ女の子が着いてくるなんて思うわけないだろう。てっきり二人きりで今後の俺の進路についてとか話すとばかり予想していたのに。俯きかけている彼女の顔をチラリと横目で盗み見る。微動だにしない様子と服の裾をぎゅっと握りしめている手をみて、さっきまでの俺より余程緊張しているのが分かって酷く可哀想なことをしている気分になった。
「…さて、いきなりだが本題に入らせてもらおう」
静かにカップをソーサーに置いた父さんがそう切り出した。ゴクリと唾を飲み込んで、膝の上に乗せた手を握り締める。父さんの真剣な眼差しに射抜かれて無意識に背筋が伸びた。
「薫、お前にはこれから彼女と一緒に暮らしてもらう」
「……ん?」
「お前は一人暮らしだし問題ないだろう」
「え?え、なに?」
俺の動揺も気にとめず話を進めようとする父さんに待ったをかける。いや、ちょっといきなり変な情報が流れ込んできて処理しきれない。父さんは一体何を言っているんだ?一緒に暮らす?誰と誰が?俺とこの女の子が?
「えっと……ちょっと待って、どういうこと?」
「そのままの意味だ」
「そのままって」
チラリと視線を彼女の方へ向ける。ばちりと視線が合った瞬間気まずそうに逸らされて、それを見てしまえばこの話が冗談でもなんでもないと嫌でも理解してしまう。
「そんなのいきなり言われても…そもそも、どんな事情があればこんなおかしな話になるの」
「それについてはこれから話す」
「……分かった」
納得しきれていないけれど、ここで言い合っていても仕方ない。大人しく引き下がって口を閉ざした俺を見て父さんも一つ頷いてから話を続けた。
なんでも、一昨年の夏頃に彼女の両親が交通事故で揃って亡くなられたらしい。残されたのは彼女一人、以来二年ほどはお祖父さんの家で過ごしていたのだという。だが彼の持病が悪化して入院生活を余儀なくされてしまって、他に迎え入れてくれる親戚もいなかったためここに来ることになったそうだ。
彼女は一人で暮らせると言ったそうなのだが、如何せんまだ未成年の女の子を保護者の目の届かないところで1人にさせる訳にはいかない、というお祖父さんの意志により彼が信頼を置いている人間に声がかかったのだそう。そこで手を挙げたのが父さんだったという訳だ。
「…つまりこの子まだ学生ってことだよね」
「ああ。四月から高校二年生だそうだ」
父さんの言葉に思わず頭を抱える。いや、確かに大学生と高校生なら歳は近いけれども。
この人は俺がいきなり見ず知らずの女子高校生を家に置けと言われてはい分かりましたと頷くと思っているんだろうか。
「この子のご祖父は私の恩師でな。昔から世話になっているんだ」
聞けば彼女のお祖父さんは何処ぞの社長さんだそうで。父さんが若い頃から色々とお世話になっている人らしい。確かに父さんの会社と繋がりがあるのなら、彼女のお祖父さんが信頼を置くのも納得がいく。実際に、名前を聞けばうちの親会社だということがわかった。
つまりなんだ、父さんが気にかけているのはこの子じゃなくて彼女の家からの評判だってことか。面倒事は俺に押し付けて自分は高みの見物、年頃の女の子が成人した男の部屋に転がり込もうがどうでもいいのだろうか。
実際、この話を聞いてから一度も、過ちを犯さぬようにと諭されることは無かったし、そもそも年頃の男女をひとつ屋根の下に住まわせようという話をしてくる時点で利益のことしか考えていなかったのかもしれない。
「生憎私は仕事が立て込んでいる。お前なら時間など有り余っているだろう」
「そりゃあ、父さんよりは暇だけど…だからって」
「薫」
強く名前を呼ばれて思わず口を噤む。昔から、父のこういう静かな威圧感が苦手だった。これ以上口答えする気もなくなってフローリングに視線を落とす。
「話は以上だ。すまないがまだ仕事が残っているから私はここで失礼する。薫、大神さんにくれぐれも失礼のないように。お前は賢い子だから、分かっているよな」
そう言って俺には目もくれずリビングを出ていってしまう。直ぐに玄関の扉が閉まる音が聞こえた。…賢い子、ね。言外に問題を起こすなよと釘を刺されてしまった。はいはい、分かってるよ。絶縁されたら困るし、俺だってなにかする気なんてない。彼女が気まずそうにそっとこちらを伺っているのが嫌でもわかってしまって、気分の良くないものを見せてしまったことになんとなく申し訳なくなりながらも出来るだけ優しい声を出した。
「えーっと……大神さん?」
「……ッス」
「その、父に言われてるかもしれないけどそんな身構えなくてもいいからね。…って言っても、いきなり知らない男と二人きりなんて怖いよね」
「いや、別に…」
「……とりあえず、お互い自己紹介しようか」
「…はい」
「俺は羽風薫。今年大学三年で歳は20。後は…海が好きで夏はよくサーフィンとか行くかな」
「大神晃牙、です。四月から高二で…歳は16、です」
緊張が解けないのかまだ警戒してるのか、素っ気なくも律儀に返される自己紹介に苦笑いする。女の子の相手は慣れてるけれど中々会ったことないタイプの子だ。三つも年下の子だと異性の相手というより何となく庇護対象に見えてくる。自分が高校生の頃はなんとも思っていなかったけれど、もしかしたら世間から見た高校生ってだいぶ子供っぽいんだろうか。
「最初に聞きたいんだけどさ、大神さんはここに来ること、ちゃんと了承してるの?」
「…納得はしてね〜、です。けど他に頼れるとこもね〜し…。さっきあんた…羽風さんの親父さんが言ってた通り、あたしの爺ちゃんが一人暮らしはダメだって言うから」
「そっか。まあお祖父さんの言うこともわかるよ、女の子の一人暮らしは危ないもんね。高校はどこ通ってるの?」
「夢ノ咲だけど」
「えっほんと?俺も高校夢ノ咲だったよ」
そうして暫く話をしていれば段々リラックスしてきたようで、時折ぎこちない笑顔も見せてくれるようになった。何とかやって行けそうで一安心する。
こうして俺と大神さんの奇妙な同居生活は始まったのだった。
✧✧✧✧✧✧
「大神さんって春休みいつまでなの?」
「4月の頭まで。あと…2週間くらいか」
「あー高校ってそんなに早かったっけ。俺は中旬くらいまではずっと休みで、逆に時間有り余ってて暇なんだよね〜」
「大学生ってそんな休みなげ〜の?」
同居を初めて一週間程が経った。少しずつこの子との距離感とか付き合い方が分かってきて、今では普通に雑談を交わしたりリビングで一緒に寛いだりする程度まで打ち解けられている。
今日も適当につけたテレビを流しながら、二人してソファに腰掛けてダラダラと過ごしていた。テレビから流れるのは昼の情報番組で、今話題のカフェや雑貨屋の紹介をしている。それをぼんやりと眺めながらスナック菓子をつまんで他愛もない話をする。
「長いよ〜特に春休みは。日程表みてびっくりしたもん。大学生なんて暇人の集団みたいなもんだよ」
「ふ〜ん。…あ、そうだ。レオンの事なんだけどよ」
「ああ、ペットだっけ」
「ペットじゃなくて家族だっつの。今週末にはこっち連れてきていいか」
「うん。ケージとかももうあるしね」
大神さんが家に来たあの日、彼女に「ここペット可って聞いたんだけ…ですケド」とおずおずと尋ねられてちゃんと聞いてみれば、どうやら犬を1匹飼っているらしい。今は友達の家に預けているけどずっとそうする訳にもいかないから、と相談されたのだ。犬のアレルギーも苦手意識もないし、どちらかと言うと動物は好きな部類だ。女の子ウケもいいし。
「大丈夫だよ。ポメラニアンとか?」
「いや、コーギー」
「あ、お尻が可愛いわんちゃん」
「必要なもんとか餌代とか自分で出すから、一個だけ頼みたいことがあるんすけど」
「うん?」
「ストレス掛けたくないから放し飼いしたくて…ちゃんと躾もしてあるしレオンは賢いから滅多に粗相もしないし」
「ああ、そういう。全然いいよ。あ、でも万が一食べたら危ないものとかは仕舞わなきゃかな…うぅん、俺犬についてはよくわかんないから教えてほしいな」
「……」
「…ん?どうかした?」
「いや…、やけにあっさり認めてくれんだなって。普通いきなり家で犬飼いたいって言われるだけでも迷惑だろ、なのに放し飼いのことも気にしてなさそうだしよう」
「まあ、何も心配してない訳じゃないけど。この家無駄に広いし、犬が一匹増えても問題ないと思うから。それに飼い主さんもいるなら大丈夫なんじゃないかってね」
「…そーかよ。…あ、ありがと、ございます」
可愛い女の子の頼みを断るなんて選択肢は俺には無いし、とは本人には言わないけど。レオンの事を話している間は彼女も自然体で、それからはだいぶ砕けた調子で話せた気がする。
「早く会いたいなあ。写真で見せてくれたレオンちゃんめちゃくちゃ可愛かったし。早くもふもふしたい、お散歩したい」
「んな事言ってテメ〜早起きとか出来んのかよ。レオンの散歩は朝5時だかんな」
「ふふん、見くびって貰っちゃ困るよ。俺朝は強い方なんだから」
こうして話していると何だか妹っぽく思えてくる。俺は末っ子だから年下の兄妹は居ないけどお兄ちゃんってこういう気持ちなのかな、なんて。大神さんとは相性抜群!超仲良し!って訳じゃないけど気を使わないで接せるし、今更他の子にするみたいに口説いたりデートに誘ったりとかは無いから気楽に過ごせる。
あとこれは本人には絶対言えないけど純粋に顔が可愛いから一緒にいて癒される。可愛いものを可愛いって思うことに罪はないよね。
それにしてもずっと家にいるのも退屈になってきた。どこか出掛けたいけど大神さんはそういうのどうなんだろ。実はインドア派だったり?
そうして考え込んでいると、くうと小さくお腹が鳴る音が聞こえた。見れば大神さんがバッとお腹を押えて少し恥ずかしそうにしている。ああそうだ、これなら。
「そろそろお昼だしたまにはなんか食べに行こっか。ついでに買い物でもしようよ。ずっと家いても暇でしょ?」
「ん…行く」
すぐにでも出られると言うので、頷いたのを確認してから財布やら鍵やらを持って家を出た。エレベーターで地下まで降りて駐車場へ出れば不思議そうに辺りを見渡している。
「車、こっちだよ」
「え、車?」
「うん。俺免許持ってるから」
「へえ…」
感心したような声を出すから、君もそのうち取ることになるんだよ、と言ってから助手席のドアを開ける。乗るように促せば恐る恐るといった様子で乗り込んだ。車内を物珍しそうに観察してくるのがなんだか可愛い。
「羽風さんてやっぱ金持ちなんだな」
「そう?普通だと思うけど」
向かう先は車で少し行った所の大きめなショッピングモール。飲食店も洋服屋も雑貨屋も一通り揃っているし、娯楽施設も入っているから暇つぶしにはもってこいだ。
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「ふあぁ…おはよー…」
「はよ、朝飯出来てんぞ」
新学期が始まって二週間。ついこの間まで綺麗に咲いていた桜も散ってしまって、気温も随分と暖かくなってきている。もうコートは要らないだろうか。
寝ぼけ眼でリビングへ行けば、ソファに座った大神さんが朝のニュース番組を眺めていた。テレビの中からは天気予報士のお姉さんが「今日は一日暖かくなるでしょう」と最近よく聞く台詞を口にしている。
「毎朝ありがとね」
「別に、ついでだし。たまに羽風さんもやってくれんだろ」
テーブルにはほかほかと湯気を立てる朝食が並んでいて、思わず顔が綻ぶ。
この同居生活が始まってからというもの、彼女はほぼ毎朝こうして朝食を作ってくれている。俺が作る日もあるけど、レオンちゃんの散歩に行く大神さんの方が圧倒的に早起きなのでここの所頼りっぱなしだ。この生活にもすっかり慣れてしまったな、としみじみ思う。
「羽風さん今日何時に帰ってくんの」
「んー今日はサークルあるから夜まで帰らないかな。大神さんは部活?」
「まあな」
ニュースキャスターが7時50分を告げた。ぐうっと背伸びをした大神さんのひとつに纏められた髪が揺れている。いつもの風景だ。見慣れてしまったそれをチラリと目で置いながら、いただきますと手を合わせた。
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「………すき」
「…え?」
言ってしまってから口を塞いでも変わらない。言いたくなかった。言うつもりなんて無かった。自覚したくなかった。気づかないフリをしていた。
好きになんて、なりたくなかった。
「……ちがう…」
目の前にいる羽風先輩の顔を見れない。目の前がぼやけて情けなく手が震える。全身から血の気が引いて自分が立っているのかどうかも分からなくなる。どうしよう、どうしよう、どうしよう。そればかりが頭の中を巡って、言い訳も誤魔化しも何も思いつかなくて、ただ意味の無い言葉だけが口から零れる。
「違う…間違えた…、ちがう…」
「…晃牙ちゃん」
「ちがう、違う……っ!好きなんかじゃ」
「晃牙ちゃん」
肩を掴まれて反射的に顔を跳ね上げた。ぼやけた視界の中で先輩がどんな表情をしているかなんて分からなくて、ただただこわくて身体が震える。
「晃牙ちゃん…、俺は」
「違う!嘘、嘘だから…っ!」
この人にそういう目で見られていないことなんて分かってる。ただの後輩だろ?分かってる。弁えてる。だから、何も言わないでくれ。今すぐこの場から逃げ出したいのに足は地面に縫い付けられたように動かない。ほんと情けね〜。離して欲しくてぐいぐいと身体を押し退けようとしても、先輩はびくともしない。こんな所でまた年の差を感じさせられて、こんな事で傷つく自分にイラついて、悔しくて、また涙が出た。
「……ごめんね」
ごめんねなんて言わせたくなかったのに。
ごめんって、なに。
そんな顔しないで。そんな風に言わないで。
もっとバカにしろよ。笑って、冗談でしょ?って流してくれた方がよっぽど楽だった。
知ってるよ。他に好きなやつが居るんだろ?大学の後輩だっけか、楽しげに話すから嫌でも覚えちゃったじゃん。
「泣かないで」
やめろよ。頭撫でんな。それが、優しいのが、どれだけずるいことか分かってんのか。何処までも庇護対象でしか無いと言われてるようで惨めで仕方ない。いっそ突き放してくれたらいいのに。
文句ばかり思いつくくせに頭に乗せられた手を払い除ける事もしない自分にほとほと呆れてしまう。どれだけ好きじゃないと言い聞かせても、好きだという気持ちは消えてくれなくて、嫌いになれたらどれだけ楽か、そればっかり考える。
クリスマスを前にした街中はイルミネーションで嫌という程煌めいているのに。
頬を伝う熱を拭うことも忘れて、ただひたすら時間が戻って欲しいと願い続ける。こんな形で、こんなとこで、届きもしない想いを伝えるつもりなんてなかった。今まで通り、ただの後輩のままで居られたらきっとこれからも変わらずこの人と日々を過ごせただろうに。それで良かったのに。たった一言で全てが壊れてしまった。
「好きって言ってくれてありがとう。嬉しかった。…でも、ごめん。君の気持ちに応えられない」
ああ、やっぱり
「好きな子が居るんだ」
酷いやつだよ、先輩
✧✧✧
「お前今日元気無いけどどうした?」
「……別に、なんでもね〜よ」
あの後、どうやって羽風先輩と別れて、どんな風に部屋に戻ったのか分からなかった。気がついたら電気もつけずに真っ暗なままの自分の部屋に居て、そのままベッドに飛び込んでいた。何も考えたくなくてずっと布団にくるまっていれば、朝になっていた。
学校を休んでしまおうかとも考えたが、一人で部屋にいる方がしんどくて重い足を引きずって学校まで来た。何より家に居たら先輩と顔を合わせなきゃいけない気がして半ば避難するように登校した。
「そうか?ならいいけど…。なんかあったら言えよ、話くらいなら聞くからさ」
ニコリと人のいい笑顔を向けてくる赤毛に適当に返事を返して再び机に突っ伏した。寝不足で回らない頭の中は昨晩のことでいっぱいで、どうせ振られるならちゃんと告白しとけばよかったとか、そもそも自分はあんな奴のどこに惚れたんだとか、終わりが見えない事ばかり考えていた。
(なんかもう…考えんのめんどくせぇ…)
授業を受ける気力も無くて、うとうとしていればいつの間にか教室は賑わっていて、昼休みになっていることに気がついた。普段からクラスメイトとつるんでいる訳ではないので特別何か話す事もなく、適当に買ったパンを口に放り込みながら屋上へ向かった。立ち入り禁止のそこは誰もいなくて荒んだ気持ちのあたしにとっては心地いい場所だった。
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偶然か必然か、今夜はクリスマスだ。雪まで降りそうな天気のなかあたしはあの人に出会った。街中の交差点でたまたますれ違うなんて、そんなドラマみたいな出会い方をしてしまった。
「晃牙ちゃんは?元気にやってる?」
「まーな」
それなりに元気だよ。前みたいに家に帰るのが楽しみじゃ無くなったけど。「おかえり」の声がないのが寂しいなんて知りたくなかった。ほんと、テメ〜は余計なことばっかあたしの中に残していきやがって。
今思えばあの時きちんと振ってくれたのはあたしのためだったんだろう。確実な答えを与えられたくなかったあたしはあの時必死になって先輩が言葉を紡ぐのを止めようとしたけれど、可能性を残してわずかでも期待させるより、無理なものは無理なのだときっぱり断られていた方がきっと辛くなかっただろう。
あれから1年。長い時間のはずなのに、会わないようにと逃げ出したのは自分なのに、未練がましくこの人を想い続けている。
「そういえば受験はこれから?晃牙ちゃんの志望校ってどこなんだっけ」
「え?…ああ、年明けてから試験だな。推薦貰えるほど成績良くね〜し」
「そっか、大変な時に呼び止めちゃってごめんね」
実は先輩の大学も志望校に入ってるなんてそれこそ未練タラタラで言えないけれど。適当に濁しながら、そろそろ帰らないとと別れを切り出した。
「じゃあ、またね」
「……おう」
ああ、嫌だな。こんな些細な会話なのにまだこの人のことを好きな自分が居る。また会えることを示唆されて、まだ恋していていいのだと言われているみたいで。
「あ、そうだ。晃牙ちゃん」
「ンだよ?」
「メリークリスマス」
そう言って渡されたのは小さな紙袋だった。開けてみてと促されて中身を取り出せば、そこには四角い箱が入っていて、その中には煌びやかな石が一粒飾られているだけのシンプルなピアスが入っていた。思わず顔を上げれば相変わらず何を考えているか分からない笑みでこちらを見つめていた。
「なんで……」
「本当は自分で付けようかなって思ってたんだけど、君の方が似合うと思って」
「っこんなん貰っても困る。受け取れね〜よ」
「え?なんで?」
なんでってなんだよ。大体、いくらすんだこれ。あたしは目利きが良くないから分からないけど、このお坊ちゃんのことだから本物の宝石だろうし、きっと高いに違いない。それにせっかくアンタから離れたのに、こんな物貰ってしまったらまた部屋の中にアンタを感じてしまう。
「あたしには勿体ね〜って言ってんの」
「そんな事ないよ。晃牙ちゃんならきっと似合うよ」
「は、…馬鹿じゃねえの」
小さな箱を突き返そうとしても先輩は頑なに受け取ろうとせず、挙句の果てには「晃牙ちゃんが貰ってくれないなら捨てるしかないかな〜」なんて言い出したもんで、思わず「は?」と声が出た。
「な、なんでそうなるんだよ。自分で付ければ良いだけだろ」
「そうじゃなくて!貰って欲しいんだって」
「だからなんで」
「……クリスマスだから?」
いっそ分かりやすくはぐらかせよ。鈍く痛む頭を抱えそうになりながら、箱に印字されたアルファベットを目にして今度こそため息が出た。流行物にあまり詳しくないあたしでさえ知ってる高級ブランドの名前を目にして項垂れる。絶対にこんなのガラじゃない。身につけている自分があまりにもアンバランスに思えて仕方ない。
ああもう…でも、それでも……
「……分かったよ」
「!ほんと?」
「こんな高級品簡単に捨てる訳にいかね〜だろうが」
渋々と頷きながら、そっと小箱の上蓋を閉めた。軽い音を立ててそれが手の中に収まった瞬間にまたひとつ捨てられないものが増えてしまった。
「じゃあまた、連絡するから。風邪ひかないようにね」
「羽風先輩もな。テメ〜冬になると調子崩しがちなんだからよう」
うん、とマフラーに顔を埋めて笑う先輩に軽く手を振ってくるりと踵を返す。駅の方向は同じだけれどこれ以上一緒にいたら余計なことまで言ってしまいそうで足早にその場を離れた
。何も考えずにひたすら足を進めて、ふと目に入ったショーウィンドウを前に足が止まる。小さなクリスマスツリーとプレゼントボックスやらテディベアやらが飾られた眩しいそれに何だか目が奪われて、カサリと音を立てた手元の宝物にはっとする。
(……っ)
顔が熱い。心臓が嫌という程速く脈打っているのは早歩きでここまで来たからなのか、それとも。
おかしくなかっただろうか。ちゃんと普通に出来ていたかな。声を思い出すだけでも愛しさが押し寄せてくるのに会ってしまえばもうダメだった。表情にも匂いにも指の動きひとつにだって、好きだという想いが溢れて止まらない。この小さなプレゼントを貰った時、たぶん嬉しいという気持ちを隠せていなかった。
(どうしよ…)
はあ、と白い息を漏らしながら手にぶら下げた紙袋を目線の高さに上げてみる。店内から漏れ聞こえてくる陽気なクリスマスソングを流し聞きしながら、暫くその場から動けないでいた。
✧✧✧✧✧
(まずったかなあ…あんなのキモかったよね…)
電車に揺られながら先程のやり取りを思い返して小さくため息を付く。まさか街中で偶然出会うなんて、そんなロマンチックなことあるわけないと思っていたのに。
渡したピアスは彼女に出会うすぐ前に購入したものだった。たまたま入った店で見つけた琥珀色のピアスが、どこと無くあの子の瞳と同じいろに思えて思わず手に取ってしまっていた。完全に衝動買いしてしまったそれをどうしようかと考えあぐねている時に、見慣れたはずの、けれど暫く見ることが出来ていなかった銀髪が隣を通り過ぎようとしておもわず腕を掴んでしまった。
「…え」
「……あ」
多くの人が行き交う交差点の真ん中で、1年ぶりに目にした姿に酷く心がざわついた。あの頃より長く伸びた髪が風に乗って揺れる。どうしても思い出すのは泣きながら俺に告げたあの告白。
「…は、かぜ…先輩…」
驚いているような怯えているような表情に意識が引き戻される。慌てて掴んでいた腕を離してみるけれど、視界の隅に映るのは点滅している青信号。
「っし、信号!赤になっちゃうから」
「うわっ」
今度は手を引いて彼女が向かっていた方向に小走りで駆けていく。横断歩道を渡りきって振り返れば少し息を上げている晃牙ちゃんがいた。
「え、っと…こんな所で会うなんて奇遇だね」
「……そうだな」
ぎこちない会話に気まずさを感じながらもせっかく得た再開のタイミングを逃すはずもなく再び口を開いた。
「晃牙ちゃんってこのあと予定ある?」
「……いや、別に」
あからさまな警戒心を解かないまま、それでも律儀に返事をくれる彼女に思わず笑いが零れる。
「ならちょっとお茶しない?…久しぶりに、会えたんだし。もちろん、無理にとは言わないけどさ」
きっと、きっかけは何でも良かった。もういちど話がしたいと思っていた。彼女が俺を好きだとか、俺がこの子をどう思っているかとか、そういう難しいことを抜きにして単純にまた話がしたかった。なにか、何でもいいから、繋がりが欲しかった。
忘れたくなかったし、忘れられたくなかった。
自己満足だなんて分かっている。この子にとってのオレは、もう何者でもないのかもしれないし、苦い思い出の登場人物かもしれない。振っておいて何調子のいいこと言ってんだって、それも分かってるよ。
「…い〜ケド」
頷いた彼女の頬が少し赤らんで見えたのは、そうであって欲しいという俺の願望からかな。
適当に入ったカフェで、その奇妙な逢瀬は始まった。当たり障りのない会話から始めて、彼女の近況や今しているバイトの話なんかを聞いて、俺の話も少し。この頃にはリラックスしてきたのか柔らかな笑顔を見せてくれて、その表情に安堵する。ああ、こういう所がどうも抜けない。晃牙ちゃんのことを他人でもただの後輩でもなく、妹のように見てしまう自分がいる。始まりがあんなだったからか、どうにも庇護欲が疼くのだ。
「…、先輩は?」
「うん?」
不意にそう返されて意識を戻してみれば、少し遠慮がちに問いかけるように彼女が俺を見つめていた。何か聞きたい事でもあるのか問えばおずおずと口を開くから思わず身構えてしまう。手にしているマグカップをいじりながら意を決したように声を出した。
「あの人とはどうなったんだよ」
「あの人…?」
「だ、だから……今彼女いんの?」
そこまで言われて「あの人」が誰のことを指すのかを理解した。恐らく俺が恋していたあの子のことだ。半年ほど前に聞いた噂を思い出して、ふっと息を零した。
「いないよ。なんかね、彼氏が出来たんだって」
正直、なんとなく好きな人が居るんだろうなぁとは思っていたからダメージは想像していたよりは少なかった。だから務めて平然とした態度でへらりと笑ってみせる。未練があるかと言われればないとは言いきれないけれど、立ち直れないほどの想いがあった訳でも無かったのだと、その話を聞いた時に悟ったくらいだ。
それより、ずっと胸の奥に引っ掛かっている不快感がある。
「あはは、告白する前に失恋しちゃった」
「……そ〜かよ」
「そういえば受験はこれから?晃牙ちゃんの志望校どこだっけ」
不快感の正体を知りたくて、けれどそれが恐ろしくもある。コーヒーを啜った彼女の無表情の先にその答えがあるような気がして、意気地のない俺は話題をすり替えた。
受験生をいつまでも拘束するわけにいかないし夜も遅くなってきたからと揃って席を立つ。会計を済ませようと荷物を手にした時に、買ったピアスの存在を思い出した。
一瞬躊躇って、今日が何の日か思い出す。言い訳があるならそれに便乗してしまえばいいのだ。要らないと言われたら捨てちゃおう。
店外へ出て別れ際、まるで今思い至ったかのような声を出して彼女を引き止める。
「あ、そうだ。晃牙ちゃん」
「ンだよ?」
「メリークリスマス」
紙袋を手渡して中身を見るように促す。そうすれば不思議そうに眉をひそめて中を確認して、そして「えっ」と驚きの声をあげた。顔を上げた晃牙ちゃんの瞳が街灯に照らされてきらりと煌めく。やっぱり似てる。けれど、彼女の手の中で輝く石よりも俺を見上げるそれの方がよっぽど綺麗に見えた。そこからは「貰えない」と突き返してこようとする彼女と「貰って欲しい」と我を通そうとする俺との不毛な闘いが続いた。ついに捨てると言い出した俺に焦った顔をして、ようやく首を縦に振ってくれてほっと胸を撫で下ろす。よく考えたら俺ピアス穴開けてないし、手元にあっても困るだけだ。
「じゃあまた、連絡するから。風邪ひかないようにね」
今度こそ帰らなければとその場を離れるために挨拶をする。駅へと向かう道すがら、このマフラーを巻いてあげればまた会う口実が確実に得られたのにななんて考えてしまって、そんな自分に苦笑した。
そうして現在。一人になって冷静に振り返ってみればあれはだいぶ悪手だったのでは無いかと冷や汗をかいていた。執着している自覚はある。気持ちに応えられないとか言っておきながら、プレゼント渡したりしてさ。
「違う…弄ぶつもりじゃない…でも……ああ…」
電車を降りて、いつもの駅を出る。
見慣れた風景なのに、今日はどこか違って見えた。街灯がやけに明るく感じるのは、きっと彼女の瞳がまだ頭に残ってるせいだ。ポケットの中でスマホが振動して、何の通知かと思えばただの天気予報。明日は雪になるかもしれないらしい。
苦笑しながら駅前のコンビニでホットコーヒーを買い、家までの道を歩き出す。
(あんなの渡したら、余計なこと思い出させちゃうだろ)
自分でも分かってる。あの子はもう俺から離れて、前に進もうとしてるのに。
それなのに、今日また出会ったことで、振り返らせてしまったかもしれない。
あのピアスだって、本当は自分の気持ちを押しつけたようなものだ。恋愛的に好きと言いきれないのに、関わるのを辞めたくはない。
「はー……ほんと、最低野郎だな」
自分勝手な後悔と、それでも会えて嬉しかったという気持ちが入り混じって、どうしようもなかった。
クリスマスソングがどこからか流れてくる。歩くたび、紙袋の音が耳に残ってる気がして。
帰っても誰もいない部屋に鍵を差し込みながら、そっと呟いた。
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足早に歩くスピードに合わせてぶら下げたビニール袋がガサガサと音を立てる。ドキドキしながら一年ぶりに使うカードキーを強く握り締めた。自動ドアを抜けてカードキーを使い、またドアを潜る。以前と何も変わらない日常の動作。エレベーターに乗って目的階のボタンを押したあと大きく息を吐いた。落ち着け、動揺するな、この間会ったばかりだろ。深呼吸するあたしなんて置いてエレベーターは階数を告げて止まる。籠から降りて左の突き当たりまで真っ直ぐ進めば懐かしい扉が目に入った。
ピンポーン、とインターホンを鳴らして無意識に前髪を触る。勝手に入ってきていいとは言われたけれど、もう同居人じゃないし、一応。ああでも、寝てるかな。出てこなかったら鍵を使ってしまおうか。
「…いらっしゃい、わざわざごめんね」
長考する間もなくガチャリと扉が開く。マスクをしたその人は力なく笑って、ケホ、と咳をした。
羽風先輩が風邪をひいたらしいと聞いたのは爺ちゃんの見舞いに行った時だった。あたしがあの人の家から逃げ出したのを知らない爺ちゃんは「薫くんは元気になったのか?」なんて突然のようにあたしに聞いてきた。風邪を引いてるなんてしらなかったあたしは、けれどバレる訳にもいかないと適当に話を合わせて、病室を出たあと急いでメッセージアプリを開いた。気持ちの急くまま言葉を打ち込んでハッとする。確かにこの間喋りはしたけどあれは偶然会ったからで、こんな風にメッセージを送るのは履歴からして恐らく一年ぶり。風邪を引いたっていっても先輩だって大学生だし、もう既に良くなってるかもしれないし、他の誰かに看病して貰ってるかもしれない。そう考えたらメッセージを送れなくなって、でも心配で、結局「爺ちゃんから風邪って聞いた。何か困ってたら言って」という素っ気ない言葉だけ送信した。スマホを胸元に抱き込んで深く溜息を零す。返信があったのはそれから2時間後だった。
「熱は?って、まだ下がってなさそうだな」
額に貼られたシートを見てそう問えば先輩は困ったように笑う。
「1日で下がると思ったんだけどダメみたい」
「ったく、だから気をつけろって言ったのに」
「ごめんね、晃牙ちゃん受験生なのに。買い出しだって全然他の奴に頼んだのに」
「入試も終わって暇だったし、別に」
本当は差し入れを言い訳に会いに来たかっただけだけど、そんな本音はお首にも出さずに「ほら」とビニール袋を手渡した。
「色々買ってきたから。冷蔵庫入れとくな」
「ありがと……ックシュ!」
「あーほら、さっさとベッド戻ってろ。腹減ってたらなんか作るけど」
「ううん、お腹は減ってないから大丈夫」
突っ立っている背中を押してベッドまで押し込む。肩まで布団を掛けて剥がれかけの冷えピタを貼り直しながら、ふと視線を感じて先輩の顔を見れば少し赤い頬と潤んだ瞳と視線が合った。
「?なに…」
「んー…?…なんか、家に晃牙ちゃんがいるの久しぶりだなぁって」
眠たいのかいつもよりゆったりとした口調でそう呟く。ギクリと心臓が跳ねて、思わず視線を逸らしてしまった。
「あ、あたし、キッチン居るから」
立ち上がって逃げるようにキッチンに駆け込んだ。冷蔵庫に買ってきた物をしまっていきながら、バクバクと煩い心臓を落ち着かせる。さっきのはきっと寝惚けていただけで深い意味は無いはずだ。そうは思うのに、久しぶりに入った先輩の部屋がやたらと居心地が悪い。チラリとベッドの方を盗み見れば静かに寝息を立てる様子に安堵して再び冷蔵庫に向き合う。とにかく、今は余計なことを考えないで看病してやらないと。さっきは食欲がなさそうにしていたけれど何かしら胃に入れて薬を飲んだ方がいいだろう。お粥か、雑炊か。卵がゆも作れるけど何が食べたいかな、なんて考えていれば、ふと背後に気配を感じて振り返る。
「うわっびっくりした」
いつの間に起きてきたのだろうか、すぐ後ろに先輩が立っていた。まだ熱があるのか顔は赤いし、マスクで口元が隠れているのもあってか少し幼く見える。
「……ごめん、あの…やっぱりお腹減っちゃって」
「なんだ、食欲はあるんだな。何食べる?お粥か雑炊なら作れっけど」
「えっと……じゃあ卵がゆ食べたいな」
「了解。部屋持ってくか?それともここで食う?」
「ここで食べてくよ。ちょっと座りたいし」
少しふらつきながらソファに腰掛ける先輩の額に新しい冷えピタを渡してやって、キッチンへ再び向かった。万が一ソファで眠ったりしたら風邪が悪化するかもしれないから足早にお粥を作る。鍋を火にかけて、その間に溶き卵と水を入れた小皿を用意してお盆に茶碗やら匙やら用意する。時折ケホケホと咳き込む声が聞こえるから眠ってはいないようだけど、体調が良くなっている様子もなくて気持ちが急く。お粥なんてそんなに時間はかからずに完成したそれに卵を溶いてそっとかき混ぜる。葱の入った茶碗蒸しもついでに作ってお盆に乗せてダイニングへ運んだ。
「全部食べなくてもいいから」
「うん、ありがと」
ソファ前のローテーブルにお盆を置いて隣に腰掛ける。「いただきます」と手を合わせてレンゲで掬ったお粥に何度か息を吹きかけてから口に運んだ。
「……どう?」
「…ふふ、うん。美味しいよ」
不味い訳が無いとは思いつつ、好みもあるから聞いてみたがどうやらお気に召したようで、先輩はにへらと笑ってみせた。腹が減ったというのは嘘ではないようでパクパクと食べ進める姿にほっと息をつく。顔色もさっきよりも良さそうだ。
「食欲あるみたいでよかったぜ」
「うん、…晃牙ちゃんが作ってくれたからかな。すごく美味しい」
「お世辞はいいからさっさと食って薬飲んで寝ろ」
「お世辞じゃないのに」
少し拗ねたように唇を尖らせながら先輩はまたお粥を掬って口に運んでいく。「おかわりあるよ」と茶碗蒸しを差し出せばそれもペロリと平らげて、薬を飲む頃には満腹になったのかうとうとと眠たそうにしていた。
「先輩」
「ん……ごめん、ちょっと寝そう……」
「眠いなら寝ろ。ほら、食器よこせ」
「はい…」