みっちゃんと猫。「あれ?みっちゃん?」
自分の少し後ろを歩いていたはずの三井寿の姿が消えたことにふと気付いて、堀田徳男は辺りを見回す。
持っていた傘がどうしても視界を狭めるから、身体の向きを変えて大きく首を動かすも、その姿は見つけられない。
おかしいな、今までしゃべっていたはずなのに。
今日は一日中雨だった。
いや、今日も、と言った方が正しいかもしれない。それくらい何日も天気はぐずついていて、雨が降ったりやんだりを繰り返していた。
学校をサボってファミレスやコンビニ前にたむろしてみたり、仲間内で誰かの家に集まって酒や煙草をやるなんてことは日常茶飯事だから、ここ数日の雨でも三井や堀田がやることなんてそう変わらなかった。
今日も雨が降っていたが、学校にいても退屈なためコンビニまで足を延ばした二人は、もう昼休みも終わり授業が始まる時間だと分かっていながらも急ぐことなくだらだらと校門までの道を歩いていた。
その途中で、三井の姿が消えていることに堀田は気付いたのだ。
二人でいるときは、堀田が話すのを三井が聞いていることが多いから、相槌がしばらくないことに気付いた時にはもう近くにいなかった。
「みっちゃーん。」
野太い声で三井を呼ぶが、雨の音にかき消されて満足に響くことはなかった。
堀田は、少しだけ歩いてきた道のりを戻ってきょろきょろと三井を探す。
すると、三井が被っていた傘が公園の茂みの中にあるのを見つけて、そこへ駆け寄った。
「みっちゃん、どこ行ったのかと思ったよ。」
三井は児童公園の中にある茂みの中にしゃがんでいた。
雨が降っている今、公園には誰もいないからなにをしているのかと不思議に思ったが、三井のしゃがみ込んだ視線の先を見て、堀田はすぐに合点がいった。
そこには二匹の猫がいたのだ。
子猫ではない、どちらもかなり大きくて人間で言えばもう大人かもしれない。
二匹は雨を凌ぐように木の下で蹲り、互いに身体を寄せあっている。
「こいつ、怪我してる。」
三井の言葉に、二匹のうちの茶トラの猫を見ると後ろ脚に切り傷があることがわかった。そこまで大きな怪我ではないが歩けばそれなりに痛むだろう。なにより連日続く雨に、ずっと外にいたのだとしたらそれだけで体力が奪われてしまうはずだ。
もう一匹の黒猫は、ぐったりと目を閉じている茶トラの猫のそばにぴたりと身体を寄せながら、じっと見つめてくる三井や堀田を警戒している。その毛ももちろん濡れていて、なんだか寒そうだ。ようやく春の桜が散り終わり、少しずつ気温は上がってはきたが雨の日はまだ肌寒い。
「ほんとだ、喧嘩でもしたかな。」
二匹とも首輪はしていないから野良猫かもしれない。
このままだと怪我をした茶トラの猫は衰弱していくのが目に見えている。
可哀想になぁ、なんてどこか他人事のように堀田が二匹を眺めていれば、三井は傘を置くとおもむろに茶トラの猫に手を伸ばす。
「え、みっちゃん!?」
慌てて堀田が三井の傘を掴んで頭の上に差し出す。
三井の長い髪が邪魔で、その表情はよく見えなかったが三井は猫を腕の中に抱えた。
すると今まで三井を睨みつけていた黒猫が身体の毛を逆立てて飛びかかった。その爪が茶トラの猫を抱く三井の手の甲にかすって、僅かに傷ができた。
「こらっ!」
なおも茶トラを取り返すために再び飛びかかろうと激しく声を上げる黒猫を、堀田が静止しようと慌てて声を上げる。
三井は一度茶トラの猫を地面に下ろして、両手を上げた。
「悪かった、何も言わずに触っちまって。こいつを助けたいだけだから、そんなに怒らないでくれ。」
黒猫は降ろされた茶トラの猫の盾になるように三井との間に身体を入れて睨みつけていたが、掛けられたその言葉は黙って聞いているようだった。
そんなこと言っても猫にわかるわけないのに、と堀田は思いながら、また猫が飛びかかってくるのではないかとハラハラしながらその様子を見ていた。
「お前の相棒、このままじゃ死んじまうぞ。」
それを聞くと黒猫は茶トラの猫の方へと振り返り、腹の辺りに身体を入れて擦り付ける。それは冷えた身体を温めてやろうとしているようだった。
お前だって濡れてるんだから温かくはならないんだぞって教えてやりたかった。それくらい黒猫は必死に茶トラの猫を守ろうとしているように堀田には見えた。
「大丈夫、ちゃんと助けてやるからよ。」
そう言って三井はもう一度茶トラの猫の身体を抱えた。
黒猫はもうなにもしなかった。ただ、警戒心だけは解いていないようで、その様子をじっと見つめていた。
「徳男、お前んち行くぞ。」
えぇ…みっちゃん、その猫拾ってくの…
もちろんそう声をかけたかったが、そこそこでかい猫をしっかりと抱えた三井は、迷うことなく公園の外へと歩き出してしまう。
それを堀田は慌てて追いかけたが、その後ろをじっと睨みつけながら黒猫がついてきていた。
「…その猫、どうするの?」
早足で歩く三井の後ろから傘を差し出しながら問いかければ、三井はまっすぐ前を見たまま迷うことなく答えた。
「このままじゃ死んじまうかもしれねーだろ。」
ほんとこの人、不良になりきれねぇよなぁ…
いや、雨の日に捨て猫を拾うのはある意味不良の定石だから、正しい行動なのだろうか。
いつもつるんではいるが、三井寿が根っからの不良少年ではないことを堀田は知っているから、その行動自体はみっちゃんらしい、でなんとなくしっくりきてしまう。
しかし三井は堀田の家に猫を連れていくと言った。
確かに三井の家は高校からも距離があり、堀田の家はこの近所だから少し歩けば着く。それにしても勝手に決めてしまう友人に、堀田は苦笑するしかなかった。
堀田の足元には、やはりびしょびしょの黒猫が離れないようにぴったりとくっついてくる。
三井に抱かれている茶トラの猫は、腕の中で暴れることもなく大人しくしている。その姿を見ると、確かに放っては置けなくなる気持ちは堀田にも理解できた。
しばらくすると堀田の住むアパートが見えてきた。
家族はみんな昼間は外出しているから、今は誰もいないことが堀田にも三井にもわかっていてすぐに傘を閉じて部屋の中に入る。
「おい、タオル貸せ。」
着いた早々靴も脱がずに三井が言ったから、堀田は先に玄関をあがってバスタオルを取りに行く。
玄関の重い扉が閉まる前に、着いてきた黒猫は部屋の中に滑り込み、三井の腕の中の茶トラを見上げながらそこにじっとしていた。
「はい、タオル。」
数枚のバスタオルを抱えて戻ってくれば、三井は腕の中の茶トラの猫の身体をそれで包んで優しく拭き始めた。
傘を満足にさしていなかった三井の肩は濡れていて、長い髪からは雫が滴っていたが、そんなのはまったく気にならないようで猫の身体を丁寧に拭いていく。
堀田はそれをじぃっと見つめている黒猫にバスタオルを差し出すと、何を考えているかわからない金色の瞳でそのタオルに頭を擦り付けた。
拒絶していないことがわかり、堀田は黒猫の身体や足を綺麗に拭いていく。その様はどこか人間みたいにふてぶてしいからなんだか笑ってしまう。
「おら、終わったぞ。」
堀田が声をかければ黒猫はすぐに上がり込み、まわりを見回した。それでもやっぱり茶トラの猫からは離れることはなく、三井の足元から見上げている。
三井は猫をタオルに包んでやりながら、堀田の家に上がり込み、廊下を歩く。
数度訪れたことがある三井には堀田の自室がわかっているため迷いがない。それを追いかけながら、堀田は三井の肩にまだ使っていないバスタオルをかけた。
「猫って牛乳とか飲むのかな。持ってこようか。」
「おう、頼む。」
二人が部屋に入れば、やっぱり黒猫もついてきた。
もしかしたら飼い猫だったのかもしれない、そのくらいこの猫は迷うことなく家の中を歩き、部屋で腰を下ろした三井のそばに慣れた様子で座った。
堀田は少しだけ温めた牛乳を平たい皿に持ってきて、三井の傍に置いた。それを三井は指に少しだけつけると、ぐったりと膝の上にいる茶トラの猫の口元に軽く塗りつける。
するとその舌が少しだけ動いて牛乳を舐めたから、それを何度か繰り返した。
「お前はいらねぇのか。」
動かない黒猫に堀田が話しかければ、しばらくそれを見ていた黒猫ものそりと動いて、ぴちゃぴちゃと牛乳を飲み始めた。
「…みっちゃん、こいつらどーすんの?」
確か三井の家はマンションだと聞いた気がする。猫を保護したり飼ったりしていいところなのか、堀田には疑問だった。
「怪我が治るまでここにおいてやる。」
ここ俺んちなんですけど……
心の中で突っ込んだ。
うちのアパートだって確かペットは禁止のはずだ、家族だっているからそんなのすぐバレてしまう。
「いや、みっちゃん、俺んちペットダメなんだよ。アパートで決まってて。」
「…何日かなんだからいいだろ。冷たい奴だな。」
まぁ確かにうちはアパートの角部屋だし、親にバレなければなんとかなるかもしれないが。猫は鳴くし、走り回ったり爪を立てられたりなんかしたら厄介だ。
「…じゃあ雨止むまででいい。そしたら俺がなんとかする。」
まだ毛並みをしっとりと濡らした黒猫は、二人の話を黙って聞いていた。その様はまるで無口な人間がそこに座っているような、なんとも言えない緊張感を堀田に感じさせていた。
三井の腕の中にいる茶トラの猫は、相変わらずタオルの中でぐったりしていて、意識があるのかないのか曖昧だった。
「はぁ…わかったよ。雨止むまでね。病院とか連れてかなくていいのかな。」
「わかんね。あんまりよくなんなければ、連れてく。」
みっちゃん、猫飼ったことあんのかな。
そんなことを考えながら、猫の頭を指先で優しく撫でている三井をぼんやりと見つめながら、堀田は家族にバレないよう猫を保護する方法を考えていた。
結局その日は三井も堀田も学校をそのままサボった。財布や鍵なんかの貴重品は持って出ていたし、学校を突然サボることはよくあることだったから、仲間も特に心配したりしないだろう。
その日は牛乳と、堀田の家の残飯に薄めた味噌汁をかけた飯を黒猫には与えた。最初は訝しげにそれを見ていた黒猫も、空腹には勝てなかったのかそれを口にしていた。そして、黒猫が茶トラの猫の顔や身体をぺろぺろと舐めながら額をぐりぐりと押し付ければ、ようやく意識を覚醒させたようでぐったりしていた半身を起こした。茶トラの猫も空腹だったようで、黒猫が食べていた飯を一緒になって食べたので二人はほっと安心したものだ。
その後は湯で濡らしたタオルで二匹の体を拭いてやる。猫なら絶対に嫌がるだろう行為だと思ったが、二匹は随分気持ちよさそうにじっとしていてくれた。傷口に菌でも入ったら大変だと念入りに拭いて、そのあとは清潔なタオルを敷いてその上に横にならせれば、二匹は見つけた時のように体を寄せ合っていた。
「随分大人しいな、お前ら。近くで飼われてた猫なのか
。」
明らかに人馴れしている様子の二匹を見て、堀田はそう思った。だがそのほうが預かりやすいので助かる。それに答えるように茶トラの方がにゃあと短く鳴いた。
「まぁいいや、大人しくしてろよ。でかい声で騒ぐと追い出されちまうからな。」
三井はそう言って二匹の頭を優しく撫でた。
その口元が僅かに綻び、いつもの硬い表情ではなく穏やかな笑みを浮かべていることに堀田は気付いた。
三井のこんな顔、堀田は見たことがなかったからつい見惚れてしまう。それほどに綺麗な微笑みだった。
その日の夜、三井が帰ってしまってからも猫たちは大人しく堀田の部屋にいた。
天気予報では明日は曇り、その後は晴れてくるだろうと言っていたから堀田は少しほっとして、なんとしても雨が降り続いている今日のうちは家族に見つからないようにと猫たちに言って聞かせた。もちろん人間の言葉の意味なんてわからないだろうに、二匹はそのあと一声も上げることはなく、朝まで静かに身体を休めていた。
夜が明けて朝がくる。
堀田が目覚めた時には二匹は既に起きていて、黒猫が茶トラの猫の傷口の周りをぺろぺろと舐め、労わるように身体を寄せているのが見えた。
二匹の様子を見ていると、同じ場所で飼われていた猫なのかもしれない。模様や顔つきは違うから兄弟という感じはしないが、それでも互いに警戒心がない様子を見て共に過ごしてきた年月の長さを感じる。
外は曇っていたが、雨は止んでいた。
「よかったな、今日はようやく晴れるみたいだぞ。」
その後も家族が出かけるまで堀田は部屋にいて、自分一人になってからまた牛乳や飯を与えた。
黒猫も茶トラの猫も、拾った時より元気そうで安心した。
ピンポーンと呼び鈴が鳴らされてドアを開ければ、そこには三井が立っていた。
「徳男、あいつら大丈夫か。」
開口一番にそれだけ言った三井が、猫たちのことを心配していたことが伝わってきて、堀田はにっこりと笑って頷いた。
「うん、さっき飯あげたけど二匹とも食べてたよ。昨日より元気そう。」
その言葉にあからさまに安心した表情を浮かべて、三井は家へと入り、徳男の部屋へとやってきた。
「みっちゃん、こいつらこれからどうしようか…」
大人しい猫達だから、あと数日この部屋に置くことはできるかもしれない。それこそ茶トラの猫の脚の怪我が治るくらいまでなら。だが、ずっと飼い続けることはもちろん堀田には無理で、言いづらそうに三井に問いかける。
「いい場所知ってるから、そこに連れてく。」
「え、他に預かってくれる人のアテでもあるの?」
この猫たちはもしかしたら飼われていた猫なのかもしれない。元気になればそこへ勝手に戻るかもしれないが、それまでは数日でも安心して過ごせる場所があるといい。
「いや、それは知らねぇ。ただ、雨が降っても大丈夫で、誰かに見つかることもなくこいつら置いとける場所があんだよ。」
二匹の頭を撫でながら、三井は言った。
茶トラの猫を三井が抱え、二人分の荷物を堀田が抱えて家を出た。やっぱり黒猫は二人の後をついて歩いてきた。二匹ともそこまでの警戒心はなくなったようで、黒猫のほうも茶トラの猫のことを気にしながら黙って足元をついてきていた。
明らかに素行不良の自分達が猫を連れて歩く様は結構異様だったようで、すれ違う人には振り返られたり二度見されたりした。
そうして歩いた先には、我らが湘北高校が見えてくる。
「え、みっちゃん、ここって…」
生徒達が登校する表門からは中に入らず、教師達が利用している裏門に二人はやってきていた。
「おい、こっちだ。」
三井の脚は迷うこともなく人気のない校内を進み、校舎裏を通ってちょうど体育館の方へと向かっていく。木や雑草の多い細い道を抜ければ、随分隅に壊れた古い物置が目に入った。
今まで二年以上湘北にいた堀田も知らない場所だった。
「ここ、鍵ぶっ壊れててよ。お前らが入るにはちょうどいいぜ。」
プレハブの物置の引き戸には、確かに鍵は付いていたが錆び付いていた。三井が手をかけて軽く動かせば、そこは簡単に開いてしまう。
「おぉ、ここなら誰も来なそうだし、ゆっくり休めそうだね。」
堀田は中を覗いて感嘆の声を漏らす。
そこには体育で使っていただろう古びたマットやボール、壊れた用具なんかが入っていたが、そのどれもがずっと触られてこなかったような埃を被ったものだった。中は薄暗いが、少し扉を開いておけば光は確保出来るし、出入りも容易にできそうだ。
二人について歩いていた黒猫が、先にその物置へとするりと身体を入れる。たたみ二畳分より少しだけ広いようなそこは、猫たちには十分すぎる大きさだろう。
三井は中のマットの上に茶トラの猫をそっと降ろした。
「あとで食い物やタオルなんか持ってきてやるからよ、怪我治るまではここにいろよ。なんなら住み着いちまってもいいぜ。」
目を細めながらしゃがみこみ、三井は茶トラの猫の顎を指先で撫でた。茶トラの猫はにゃあ、と短く鳴くから、まるで礼を言っているみたいに二人には見えた。黒猫は相変わらず一声も発することなく、そのやりとりをじぃっと見つめていた。
………───────────
そうして二匹をその物置に住まわせてから、三井と徳男は他の誰にも言わずに時々猫の世話をしにそこへ顔を出した。
古くなったタオルや、猫が食べるだろうキャットフードや時々残飯を差し入れてやれば、茶トラの猫の脚の傷はだんだんと消えてきて立ち上がれるようになってきた。ずっと二人から一定の距離を取り続けた黒猫も、ようやく警戒心を解いたようで三井と徳男ならどちらが来ても驚くことはなく、最初の時のように飛びかかってくることはなくなっていた。
茶トラの猫は元気になれば人懐こいらしく、触れるとゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄ってきた。表情も豊かで腹を見せて横になったり、物置の中に入っていた使わないテニスボールを持ってきて遊びに誘ってきたりと、猫というより犬のように見えてなんだかおかしかった。
その逆で黒猫はいつも丸くなって寝ていた。茶トラの猫に引っ付いて寝ている時もあれば、物置の外に出て日向ぼっこをしていることもよくあった。猫らしいマイペースな性格らしく、三井がきても堀田がきても特に表情を変えず好き勝手に過ごす姿がこの猫らしくて、しばらくすれば二人にとってそれが普通になっていた。
「トラ、黒。」
三井は二匹をとりあえずそう呼んでいた。だから堀田もその名前で呼ぶことにした。
茶トラの猫の傷はもうほとんど歩くのに支障がないほどに治ってきていた。これから二匹がずっとここにいるのか、それとも出ていくのかは二人にはわからない。だが、いなくなってしまうのはなんとなく寂しいと感じるくらいの時を三井も堀田も猫たちと過ごした。
堀田は、猫たちに会っている時の三井の顔がとても穏やかなものであることに気がついていた。
いつもなにかに苛立っていて不機嫌そうに固まってしまった眉間の皺も、猫たちに会うときはいつも緩められていて口元も自然と笑みを作るからそれにつられて堀田も眉尻が下がってしまう。
猫たちの頭を撫でるその目が細められ、慈しむような瞳を向けるのを、見惚れるように堀田は見つめてしまうのだ。
本当のみっちゃんは、この猫たちに見せるような顔で笑ったり優しくできたりする人間なんだろうな。
そう思えばなんだか今の三井が偽物みたいで、堀田は少し寂しくなった。猫たちに見せるのが本当の三井寿のような感覚に、自分には見せない素の部分をさらけ出しているようで。
「………。」
物置は体育館のそばにあるため、授業をサボってくるときや放課後に訪れる時は、そこから生徒たちの声がよく響いてきていた。
体育の授業でガヤガヤと話している声や、部活で身体を動かす音や掛け声なんかが物置には聞こえてくるのだ。
そんな時、三井はたまにその音に耳を澄ませるように目を閉じることがある。それはほんの数秒で、堀田はなんとなくその間三井が体育館の音を聞いているのだと思っている。
堀田は三井が不良になって自分達とつるみ始める前の栄光を、なんとなく噂で知っている。だからこそ、そこに思いを馳せるように体育館の音を聞いている三井に気が付いていた。
猫たちの頭を撫でながら、ボールが弾む音を聞いて三井がなにを思っているのか堀田は聞くことができなかった。
………──────────
なぁ、かえで。
…ん?
あいつらいいやつだなぁ。
…まだわかんねーだろ、おひとよし。
なんだよ、おまえだってもうわかってるくせに。
………。
なんかおれい、できたらいいんだけどな…。
………──────────
この日、堀田は一人で体育館そばの物置を訪れていた。
今日は朝から小雨が降っていて猫たちの様子が気になって朝早くに目が覚めてしまい、つい足が学校に向いてしまったのだ。
猫たちが濡れていたりしたら可哀想だと思ったのももちろんあるが、そんなことになったら三井が心配するのも目に見えていて、それも嫌だと思った。やはり三井がつらそうに顔を歪めて悲しむ顔は、どうにも堀田には見たくないものだった。
「おーい、無事かー?」
傘をさしながら物置の扉を開ければ、二匹はちゃんと中にいて雨から身を守っていた。堀田が来たことに気付いた茶トラの猫は小さな声で一言鳴けば、すぐに足元にやってきた。
「おら、飯だぞ。」
用意してきたキャットフードを出し、二匹の前に置いてやればそれをすぐに食べ始めた。出たゴミはビニールに纏めて、堀田は倉庫の中になぜか入れられていた錆び付いたパイプ椅子を中で広げると、そこに腰を下ろして二匹が食べるのを見ていた。
すっかり茶トラの猫は元気になり、もう脚に傷があったことすら忘れそうになるほど活発だが、ここを出ていくことはなかった。茶トラの猫と一緒にいる黒猫だって同じで、すっかりこの場所に落ち着いてしまって日夜いい昼寝場所を探してこの辺りを彷徨いている。飼い主がいたとしたら心配しているのではないかと思ったが、首輪もついていない二匹の家を探すのは堀田には難しかった。そして学校内で飼っていても、猫たちの存在はバレることはなく、数日経った今でも堀田と三井しか知るものはいなかった。
「…今日は一日雨だってよ。日向ぼっこも外遊びもできねーな。」
そう声をかければ二匹はきょとんとしながら堀田を見上げている。
そんな時、体育館から大きな掛け声が聞こえてきた。
耳を澄ませればすぐにボールをつく音や、バタバタと走る足音が聞こえてくる。
バスケ部の朝練の音だとわかり、堀田は目を細める。
「…みっちゃんってさ、中学の時はバスケの有名選手だったんだぜ。なんかすごい賞ももらってて、県でも優勝したチームのキャプテンだったんだってよ。」
独り言のように堀田は呟いた。
ここには自分と猫たちしかいないのに、ついそんなことを話してしまう。
「今はやってねぇみたいだけど…すげぇよな。きっとめちゃくちゃ上手いんだろうな。」
目の前の飯を食べていた猫たちは、そのまま堀田の話を聞いているようで、大人しく座ってじっと見上げていた。
「ボールの音、聞こえるだろ。バスケットボール。俺は全然わかんねぇけど、ちょっと見てみたかったよな。」
こんなこと、三井には絶対に言えない。
でも、友人にそんな有名人がいるなんて堀田の今までの人生で初めてだから、それは素直にすごいことだと思っている。どんなふうにバスケをしていたんだろう。きっと誰よりも上手くてかっこいいはずだ、バスケをやっている三井を堀田は一度でいいから見てみたかった。
でも、三井はもうバスケは辞めている。
三井の前でバスケの話は禁句だし、三井自身もその話を堀田の前でしたことはただの一度もなかった。
体育館から聞こえるバスケ部の練習の音を聞きながら、一人と二匹は静かにその場に座っていた。
それからだ。
二匹は時々体育館の扉から中の様子を覗き見るようになっていた。
特に放課後、バスケ部の練習の時は開け放たれた扉の前に座って、中を見ていた。
「お、猫だ。最近よくくるな。」
メガネをかけた優しそうな雰囲気の男によく声をかけられた。特に追い払うでもなくなにかするわけじゃないので、猫たちはその男に話しかけられても気にすることなく練習を見ていた。
「木暮、サボるなよ。」
恐ろしいほどでかい大男が近くに来た時はさすがに驚いてしまった。でも、この男もなにかしてくるわけじゃないから二匹は気にせず扉の前で座り込んだり丸くなったりとリラックスしながら練習を見ていた。
他の部員たちも時々バスケを見に来る猫たちを珍しがって構いに来た。たくさん撫でてもらったりたまには餌を貰ったりして、二匹は過ごしていた。満足すれば物置に戻り、堀田や三井と過ごすのが日常になっていった。
………───────────
「え、おばけ?」
予想もしていなかった話を後輩の口から聞いて、木暮は着替えていた手を止め目を丸くする。
隣にいた安田は、木暮を見ながらこくこくと何度も頷いた。
「そうなんですよ、体育館におばけが出るって最近噂になってます。」
「そんな馬鹿な…。おばけって…」
木暮はまるで小学生時代に聞いたありがちな七不思議みたいに非現実的な話を聞き、苦笑いを浮かべるしかない。
安田は着替えをしながら自分が聞いた噂を話した。
「それがですね、俺たちの練習の終わったあとの体育館で誰かが夜な夜なバスケをしてるっていうんですよ。」
「バスケをするおばけ?」
「そう。俺たちの鍵締めも終わって、電気も消えた誰もいないはずの体育館で…。ボールをつく音やボールがリングに当たる音、そして走る音も聞こえるらしいんですよ…」
「それは誰かが忍び込んで勝手にバスケしてるんだろ。」
おばけなんていう曖昧なものではなく、それはどう考えても人間だろうと木暮はすぐに思った。安田には悪いが誰かがおヒレをつけて怪談じみた話に仕立てただけで、本当は生身の人間の仕業に違いない。
「それがですね、先輩。…消えちゃうらしいんです。」
「…消える?」
安田がたっぷり溜めながらオカルトじみて話すので、木暮は少しだけ背筋が冷たくなるのを感じた。
「そうなんです!生徒や先生が扉を開けるとそこには誰もいなくて!ボールだけが体育館に転がってるらしいんですよ!!」
安田は自分で話しながら怯えているようで震えながら大声を張り上げるから、木暮はビクッと震える。
「馬鹿なこと言ってないで早く着替えんか。」
呆れたような声が扉の方から聞こえれば、そこには主将の赤木が立っていた。
それに気付いた安田は今までの勢いはすっかりなくなり、肩を丸めながらいそいそと着替えを再開する。
「でも、それは不気味だな。同じ奴が毎回忍び込んでるのかな…」
木暮なりに、安田の話を聞いて仮説を立ててみる。
一回ではなく何回かあったのならば、それは見間違いで片付けるのは少々難しい。なによりバスケをしていると聞けば他人事ではない、誰かが部の道具を勝手に使ったり部室に忍び込んだりしている可能性があるのだから、しっかり調べる必要があるかもしれない。
「ふん、どうせ誰かの悪戯だろ。」
「でも赤木、部室に入られたりボールを勝手に使われるのは困るだろ。誰かの嫌がらせだったら犯人を探さないと。」
木暮の話を聞いて、ようやく赤木も聞く耳を持ったようで、しばらくなにか考えていた。
………──────────
「よし、今日の練習はこれで終わりだ。片付けをして早めに帰れよ!」
赤木の号令で部員たちは汗を拭いながら部室へと引き上げていく。
このあとはモップがけをして用具を片付けたら鍵を閉めて帰るだけだ。
しかし、赤木と木暮はこの日、部室を出てからしばらく外で時間を潰していた。しかも部員たちから隠れるように、体育館外で建物の影に大きな体を入れて。
空にはもうすっかり月が輝いていて、夜も更けた。
部員たちがガヤガヤと帰宅する姿を遠くから見つめながら、二人は黙って全員がいなくなるのを待った。
「ほんとに出るのかなぁ…」
木暮は小さく呟く。
今日は赤木と、噂のように本当にバスケをする誰かが体育館へと現れるのかを調べるためにこっそり残ることにしたのだ。
「ふん、どうせただの噂話だ。」
赤木は壁に寄りかかりながら腕を組んで、大きくため息をついた。
「まぁまぁ。これで誰もいなかったらバスケ部としては安心なんだからいいだろ。」
すぐに帰れるように制服に着替え、鞄を片手に持ちながら木暮は暗い体育館のほうへ目をやる。
そこはもう、他の部活の部員ももう帰宅してしまったため、誰の気配もなくなっていた。
このまま待って、なにもなければそのまま帰るだけだ。
なんとも無駄な時間の使い方だが、外で待つにはちょうどいい気温の季節になってきているのが救いだった。
「…くだらん。」
赤木の言葉に、木暮は困ったように笑った。
確かに学校で授業をやり、さらにバスケの練習後で体は疲れている。これでなにもなかったら確かにくだらないと木暮は認めざるをえないと思った。
月が綺麗だなぁ。明日も晴れかな。
そんなことを木暮が考えながら空を見上げていれば、日々聞き慣れた音が耳に届いて木暮はすぐにそちらに体を向けた。
「赤木、…」
それは確かにボールをつく音だった。
しかもこれは、バスケットボールだ。
ダムダムと力強いそれは、ゆっくりだったり少し力が加えられたりして明らかに人がついているのがわかる。
「行くぞ。」
赤木はそれだけ言うとまだ返していなかった体育館の扉の鍵を握りしめ、早足で歩き出した。
その間にも、ボールの音はずっと聞こえている。さらに、ゴールのリングにボールが当たる音まで聞こえてきた。
明らかに誰かいる。
しかも、これは。
木暮はあることに気付いた。
ボールをつく音は、ダブって二つ聞こえるのだ。
一つはゆっくりと、あまり動いていない。しかしもう一つの音は激しく、ドリブルをしながら体育館の中を走っているようだった。
中には二人いる。それが木暮にはわかった。
「…………」
赤木はすぐに扉を開けず、耳を澄ませながら中の様子をうかがった。
体育館の中の電気は消えている。非常口のライトと月明かり、それくらいしか光はないため、体育館の下にある小窓からは中の様子がよくわからなかった。
木暮も扉に耳をつけるようにして中の様子を知ろうとした。
そこからは僅かに、誰かが話す声が聞こえた。内容まではまったく聞き取れないが、一人が誰かになにか話しかけている。それは男の声だった。
「行くぞ。」
赤木はがちゃりと鍵を差し込み、扉の鍵を開ける。
そこから重い扉を二人で左右に開く。月明かりが差し込んだそこには、間違いなく誰かいる。
そう思ったのに。
ダム、ダム、ダム……
赤木と木暮の目に飛び込んできたのは、弾んで転がる二つのボールだけだった。
まさしく、今の今までそれを持っていた人物が慌てて取り落とした後のように。
「そんな……」
さすがの木暮も、これには目を見開いて固まってしまった。
お化けとか幽霊とか、そんなものではなかった。明らかに誰かがバスケをしていたのは間違いない。
忽然と消えてしまった。
「…どうなってるんだ……」
さすがの赤木も、固まったままそれだけ言うのが精一杯だった。
………─────────────
やべー…びびったぁ。
どあほう、おめぇがはしるおとがうるせぇ。
はぁ?おまえだってあの、だんくとかゆーのすぐやりたがるだろうが!!
………。
はぁ…でも、これじゃもうばすけできねぇかなぁ。
けっこうおもしろかったのにな。
……やだ。まだやる。
おれもまだやりてぇけどよ…さすがにみつかったらたいへんだぞ。
…やるほうほう、かんがえる。
そうだな。…まだおれい、できてねーし。
………─────────────