地獄の沙汰まで余らせないミヒャエル・カイザーが死んだのは、彼が現役を引退した1年後のことであった。
世間には病死であるとだけ発表されたが、正確に言うならば癌だった。発見されたときにはもう全身くまなく転移しており、緩和ケア以外の治療の選択肢がほとんどなかったという。本人から聞かされた話だから、多分本当のことだ。
「この癌といや遺伝的形質を持つことで有名だが、あいにく俺の親戚は癌になるほど長生きしないクズばかりでな。お陰で気づくのも遅れてこのザマ」
昨年に行われたカイザーの引退試合はそれはもう華々しくて、いや本当これでサッカーを辞める選手とは思えないほど悪辣で元気いっぱいだった。相手チームの心をベキベキにへし折りながら当然のように勝利し、やつはピッチの上を去った。マスコミもコーチ陣もチームの運営もみんなして引退の理由と今後の予定を尋ねたが、カイザーは決してまともな返答をしなかった。やけに芝居がかった台詞で、きっぱりと未練がないことだけを語っていた。
俺に対しても、そう。多弁なくせに、重要な言葉に限っては堅牢に死蔵する男だった。
「……返事しづれえよ、馬鹿」
一度だけ、カイザーを見舞ったことがある。
呼び出されたのだ。やつが引退して半年後、ミュンヘン郊外の住所のリンクが送られてきた。添えられているのは見透かしたように俺のオフの日時と、「バスに乗る必要あるけど、世一クンはひとりで来られるかな?」という言葉だった。ハ? 俺が試合前にバス間違えて最終的にスタジアムまで5km走ったの、もう何年前の話だよ。よく憶えてたな後悔させてやる。
そうしてやつの思惑通り、俺はひとりでサナトリウムへ辿り着く。絵本の中のように美しく、寂しく、熱狂からはひどく遠い場所。それなのに、セキュリティはおそろしく厳しかった。だからきっと、ここはそういう場所なのだろう。自らの力で周囲を黙らせ、どうしても静かな余生を勝ち取りたかった者たちの終の住処。
カイザーは、花曇のサンルームで俺を待っていた。
「会いたかったぜ、世一ィ」
嘘つけ。気色悪っ。馬鹿も休み休み言えよ馬鹿。
何も、言えない。あんなに軽かった罵倒が、ひとつも口から出てこない。この男相手に黙ったら負けだと、俺は身をもって知っているのに。勝負をしたくないと、思わされてしまった。
最後に会ったときより、頬がこけた。金の髪は薄く、日差しよりも淡い。だからこそ、鮮やかに染められた青ばかりがいかにも作り物っぽく取り残されている。繁殖期の鳥みたいにけばけばしい化粧は影もなく、装飾を手放した彼は年齢よりも遥かに幼く見えた。あるいは、老齢に。皺の寄った皮膚の上で青薔薇は乾く。褪せた唇に載せられた笑みは意地の型取りだと、一瞥で理解させられた。枯れ木の腕は不随に揺らぐ。腰掛けているのだってよく見れば、ロッキングチェアに似せた作りの車椅子だ。足は分厚い毛布で見えない。それを剥ぎ取りたい要求にかられ、結果は分かっているからただ拳を握った。
知っていたはずだった。住所だけ送られてきたとしても、ちょっと調べればそれが末期がん患者の療養所であることなんてすぐ分かる。でも俺は、どこかで信じられていなかったのだ。だってカイザーだし。だからこうして、のこのこやってきた。充分な言葉も備えずに。
「お前、死ぬの」
「死ぬよ。お前に殺されるんじゃねえけど」
不用意な台詞は簡単に肯定され、俺はその場にあったベンチに座ることしかできない。からからと車椅子を回し、やつは俺の正面に陣取った。病理、病状、余命。カイザーは俺の知らないドイツ語混じりに己の現状をつらつらと語り、俺はそれらの幾つもをつるつると取り零した。相変わらず、よく喋るやつだ。相変わらず、変わらない? そんなわけないのに。
独演会は15分ほど続いただろうか。腑抜けの面は見飽きたと言わんばかりに、やつは唐突に手を叩いた。ぱしん。薄い掌は、あんまり静かなサンルームですら聞き取りにくい音しか立てられない。カイザーはつまらなそうに片方の眉を持ち上げ、そのままだらりと両腕を垂らした。
「蠅みたいにブンブン嗅ぎ回ってくれたみたいだけど、説明はもうこれくらいで良いだろ。俺だって、余生くらいは静かに過ごしたいんだ」
ニコリ! 誰であってもそんな擬音をあてるほど、見事な作り笑いだった。
「だからここには、二度と来るな」
けれど、瞳ばかりが燃えていた。酸素が多すぎる、死に急ぎの青。その苛烈な炎は、いちばん初めに己を焼べたものだけに宿る。身に覚えがあった。落ち窪んだ底に沈む眼球は限界まで見開かれ、俺の全てを捉えている。視線で人が殺せるのなら、俺はこの刹那に100回は殺されていただろう。誤謬を許さないひたすらな眼差しは、空よりも圧倒的に地球の上限を示した。煌々たる青い瞳。美しく、喪われる、青。
「分かった。二度と、来ない」
「あら、お利口」
「うるせ」
サンルームの外に立つ看護師さんが、忙しなく何度も時計を伺うのが見えていた。やっぱ超越視界って便利だわ。そしてそんなものを使わずとも、目の前の男がひどく弱っているのは分かるのだ。首筋を落ちる冷や汗も、力を入れようとしては毛布を掻く指先も、やつは最早取り繕えない。どれだけの気力でもって、カイザーは今日ここに現れたのだろう。なんて、俺が考えるべきことじゃないけど。
文字通り命を削った、己の生存を擲った懇願であった。頷く以外にどうしろと言うのだろう。
ゆっくりとベンチから立ち上がる。カイザーを見下ろし、この期に及んでなお言葉は出てこなかった。違う。本当は自分が、言葉になるまで考えないようにしていると気づいていた。だからせめて、俺は笑った。
「じゃあ。くたばるまでは、どうか元気で」
「言われなくても」
そのまま俺は歩き出す。サンルームの扉を開けた拍子に、入り口に飾られたドライフラワーから花びらが肩に落ちた。それを払い除けようとして、動けなくなる。役目を終えた、まっさらの、花びら。落ちてきた。その瞬間に、ようやっと理解が現実に遡及する。ああ。カイザーお前、本当に死ぬんだ。本当に。花びらは勝手に地面へ落ちていった。本当に? 本当に! ほんとう、に。
本当は。
本当は、このまま引き返したかった。言いたい言葉のひとつもないまま、それでも彼の前に立ちはだかりたいと思った。
だからこそ、理解できた。カイザーは、きっとここまで見越していたのだ。二度と来るな。俺はもう、その言葉に頷いている。あーあ。俺さ、結構しっかり成長したつもりだったんだけど。でもこういうところは、お前に勝てねえわ。
負けを認めたら、足は軽くなった。爪先を向けた方向へ、一歩踏み出す。俺は、二度とここには来ないから。
「お前だけ、愛していたよ」
決別にうってつけの、いやに甘ったるい声だった。いいや、ただの敗者へのあてつけかも。
「……聞き飽きたよ、お前のI kill youは」
「ワオ、憶えてたの? 世一クンは俺のことが好きねぇ」
「クソブーメランだろ馬鹿皇帝」
振り向いた先で、カイザーは笑った。一幅の絵画のように。
「本当に、殺してやりたかったんだ。潔世一」
それが俺の見た、彼の最期。
#
やつの訃報をいちばん初めに知らせたのはニュースサイトで、次がクラブチーム、3番目がカイザーの雇った税理士と弁護士と法律家だった。俺はドイツの喪服について調べていたところで、仕事熱心な士業たちからの電話を取った。
「それで?」
「それで、あなたはミヒャエル・カイザー氏の全遺産を相続する権利がありますって……」
「その時点で放棄しろ!」
「それができたらここにはいないんですぅ!」
家業を継いで御影コーポレーションのトップになった御影玲王は、己の城たる社長室で俺を肥溜めを見る目のまま睨みつけた。それが旧友を見る目か。あいや、千切とか國神ならまだしも玲王はそもそも俺のこと友達とか思ってないかも。やべえ、普通に悲しくなってきた。それでも、俺が今頼れるのはもうこいつしかいないのだ。縋る眼差しを向け続ければ、玲王は大きな大きな溜息をついた。
「身の丈に合わない収入が呼ぶのは破滅だけ。そんくらい、お前だって分かってると思ってたけど」
「いや、それは知ってるよ。元チームメイトとか何人も賭博で捕まったりしてるし。でも、断るにしても理由くらい聞きたかったから」
「……ま、遺産だもんな。遺言状くらい受け取りたくなるのは分かる」
「そう、遺言状。ゆいご、あのボケカスぴろぴろ頭野郎がよお!」
「うわ急にキレるなキショ」
どうやらカイザーは、俺に遺産を相続させるにあたりかなりの人間を雇ったらしい。当然と言えば当然だ。俺たちに血縁はなく、国籍も違っていればパートナーでもない。チームメイトなんて法の上では他人以外の何でもない。かなり無理のある遺産分与であったのに、カイザーはとにかく俺に相続するの一点張りだったそうだ。
やつが金に糸目をつけずに雇った専門家集団は、たった1年で日本とドイツの法律へ抜け穴を貫通させた。あまりにも前例のない手口、もとい法解釈なので数年後に論文が発表されるらしい。歴史に名を残しちゃうな。サッカーで残させてくれ。
遺言状が入れられていたのは、それはもう高級そうな封筒で、開け口は真っ青な蝋燭を溶かして留られていた。カッコつけ。税理士さん、弁護士さん、遺産裁判所の司法補助官さん、法律家の先生たちの前で、俺は遺書の封を切る。
1枚目は、いかにも法律に則った形式の遺言状だった。まず印字されているのは、相続証書の文字。次いで故ミヒャエル・カイザー氏の生年、生誕地、死亡年月日。そうして俺の名前と、生年月日、現住所、そうして遺産全てを相続する旨の記載。この書類を作った人の名前。それで終わり。
問題は2枚目だった。遺言状の別紙として作成されたその書類にはどかりと、いや文字としては小さいのだけど、地学の教科書くらいでしか見ないようなゼロの数がみっしり記載されていた。契約銀行から始まり、預金、有価証券、不動産の内訳などなど載っていたが、まあ目が滑る。ここまでなら良かった。良いこともないが、桁数以外は予め聞かされていた事柄だった。問題はその更に下。故人からの注釈の欄。
[いつまでも金勘定をパパとママに任せるのは良くないぜ。
社会勉強のチャンスをやるから使い切ってみせろよ、クソ道化♡]
俺は2枚目の遺言状を3回くらい頭からケツまで読み直して、5回くらい音読して、びりびりに引きちぎると決めた。弁護士さんにガチで止められた。俺があんまりにもバキバキの目をしていたからか、最後の方はちょっと泣いてた。
「でもさあ! こんなのこの世にあったらいけないだろ!?」
「スッゲエ、ゴリゴリの公式文書にハートマーク記載されてるの初めて見た! 面白すぎ! 急に馬鹿うぜえ相談持ちかけてきたの許してやるよ!」
「あ、うん。玲王はこういうの好きかもって思ってた」
なんか変な方向に変な楽しみを見出してる。まあ機嫌直ったし良いか。ひとしきり笑った後で、玲王は表情を真面目なものに戻した。大きくて丸い瞳は、赤と青の混色だというのにそれしかないと言うほどぴたりと定まった色をしている。ともすれば機械じみた、そのくせ激情を突沸させる紫。
「それで?」
「で?」
「どうすんだよ、この天文学的遺産」
「それなんだよなあ……」
「現実的に考えたら、財団でも作らなきゃ管理できないと思うぜ」
「財団」
顎でスマホを示された。はい、調べます。財団、とは。一定の目的のために集められた財産の集合体。あるいはそれに法人格が与えられたもの。法人、とは。法律により権利義務を認められた存在のこと。戻り。一般財団法人、とは。新公益法人、とは。一般社団法人、とは。非営利法人、とは。公益財団法人、とは。とは。とは。とは。検索。検索。検索。とは。とは。とは、とは、はと、は、は、ハア?
「……相続を放棄しないで、財団とか作んないで、お金を使い切ることできない?」
「お前資本主義ナメすぎ」
ひえっひえの玲王の声で少し頭が冷静になる。諦めるな潔世一、俺は適応力の天才、ヨシッ。
単語同士を紙に書き留め、なんとか意味を整理する。実際の手続きとか法律は一旦無視。財団は、財産の集合体。財産ならここにもう300万円以上ある、から、一般財団法人なら、作れる。財産の維持、運用には、また人を雇う必要はあるだろう。でもそこじゃなくて、俺が今、考えないといけないことは。
「財団として、お金を使う目的が、要る?」
「そうだよ。つかそこからかよ」
「ウン……。いやごめん、そうだよな。当然のことだった。確かにナメてた」
あまりにも数字が大きいから、その実態を把握することすら忘れていた。これじゃあ正しい対策の立てようもない。使い切れなんて言われたけど、金銭は体力や物質ではないのだ。価値の上下はあっても、税金として差し引かれることはあっても、何らかの対価として差し出す以外には使用できない。辿々しい俺の理解を聞いて、玲王はやっと頷いた。
「お前に商売は向いてない。投資はもっとやめておけ。この俺が保証する。だから本当にこんな莫大な、人間の人生をどんだけ狂わせてもまだお釣りのくるような金額を使い切りたいなら、際限なく需要が発生する社会貢献分野にブチ込むべきだ。俺からのアドバイスはこれで終わり。文句は?」
「ない。マジで助かった。ありがとう、玲王」
素直に礼を言われると思っていなかったのか、彼はほんの少し動きを止める。それから照れるように、誇るように、小さく唇を傾けた。
「いーよ。代わりと言ったらあれだけど、こんな悩みで次のシーズンのパフォーマンス落とすなよ」
「当たり前だろ。凪にも勝つ」
「あ?」
「は?」
そこから先は、昔懐かしの口喧嘩。ヒートアップした俺たちが渡欧中かつ普通に就寝中だった凪に電話して、ふたりで叱られるまで、醜い罵り合いは続いたのであった。
#
日本で玲王に泣きついてから数日。俺はクラブを通じて記者会見の準備を整えていた。
何故なら、俺がカイザーの遺産を相続したという情報が徐々に広まりつつあったからだ。それに伴い、俺の近辺に怪しい記者とかゴロツキとかが増えてきた。でもこのタイミングで注目が集まるのは、俺としては都合が良かった。どうせなら、派手に世界へ知らせてやりたかったから。その方が早く使い切れそうだし。
俺は会見の資料の最終チェックを行う。経済的に恵まれない子供が、サッカー選手を志すことを支援する目的で設立される財団。名前はそのまま、ミヒャエル・カイザー財団とした。
これでミヒャエル・カイザーの名前は天才的ストライカーを指すと同時に、恵まれない子供へチャンスを与える試練の天秤として広く知らしめられるだろう。彼の天文学的遺産を俺が使い切るまでは。
もちろん、そう上手くいくとは考えていない。俺、サッカーのことしか分かんないし。いやサッカーのことも時々分かんなくなるけど。この短い期間だけでも、巨額の富というものがいかに人間の思考をおかしくするのか身に染みたつもりだ。これが俺の人生をかけて付き合っていく問題だと思うと、シンプルに嫌気がする。
ノアから、カイザーの親戚に関するあらましを聞いた。とても端的だったけど、やつがどうしても遺産を与えたくないような人間たちの話だった。けれどノアは、俺がその重荷をカイザーに代わって負う必要性は皆無だと言った。カイザーの事情はカイザーに属するものであり、そもそも直接的に何も言われなかった俺には一切関係ないと。俺だって分かる。お前が俺を相続人に指定したの、どうせ嫌がらせ目的だったんだろ。
それで良いよ。
「どうだ、不愉快だろ」
だからこそ俺も、勝手にやる。勝手に、お前の名前を世界に残してやる。
スライドショーの最後には、カイザーの引退試合の写真を載せた。彼がちょうどハットトリックを決めた瞬間。揺れるゴールネットを視認して、クソ性格悪そうに、けれどガキみたいにまっすぐ、笑った顔だ。人生かけても忘れられない男の顔を見て、俺はいつかのように強いて微笑んだ。
「まるで、世界一の善人みたいだぜ。ミヒャエル・カイザー」
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ところで俺は、生涯あらゆるインタビューでカイザーの遺産は全て基金に使用したと回答したが、あれは真っ赤な嘘である。本当は2ユーロだけ、今も手元に残している。俺が死んだら棺に入れてもらうために。
三途の川の渡賃にするのだ。1ユーロは俺の分、もう1ユーロは、まあ、仕方ないからカイザーに返してやるつもり。
だってほら、三途の川の河原ってサッカーしにくいだろうし、さ。
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【付録】
凪誠士郎
今回の影のMVP。遺産を相続したばかりで半狂乱の潔の話を聞いてすぐ、ハチャメチャに忙しい御影玲王のスケジュールをこじ開けさせた。
玲王と一緒にワールドカップを優勝したので、現在は潔世一をボコボコにするという夢に邁進している。具体的に言うと、潔が所属するチームのライバルチームを渡り歩いている。人生が楽しい。
御影玲王
今回のMVP。この後も度々潔世一に泣きつかれ、バチギレながらもなんやかんやお話とお金を回転させる。interestingを愛し、資本主義に愛された男。潔世一はギリ友達。
才能がないと思っていたサッカーで世界一を取ったので、才能が有り余る会社経営で宇宙一を目指している。
ミヒャエル・カイザーの遺したバランスシートや資産運用の履歴を読み解くのが半ば趣味になっている。生きているうちにサッカー以外の話をしてみたかった。
ミヒャエル・カイザー
病状について自ら伝えたのはクラブの運営陣に加わったノアだけ。ネスは勝手に調べ上げてサナトリウムを突き止めたので、まあ良いかと思い最期までこき使った。
あの日、晴れていたら潔世一を殺すつもりだった。太陽が眩しくて、腹が立つから。でも曇りだったから時間を持て余して独演会とかした。世一が帰った後に昏倒、それから半年間ほぼ意識が戻らず逝去した。
最後に見た青は、空に似た男の瞳。
潔世一
カイザーは地獄で自分を待っていると確信しているエゴイスト。
お望み通り使い切ってやったから、地獄の沙汰は一緒に受けようぜ。あ、宗教違う? まあ良いか、お前どうせ神様とか信じてねえだろ。それなら、付き合えよ。