あの日の妖魔 ここはどこだろう。
ぼんやりとしていた視界が次第にはっきりとしてくる。慕情は目を瞬いた。
少し薄暗い室内に、窓から差し込む光。その窓の外には大きな楓が風に葉を揺らしている。
何百年もの時を隔てても忘れることのない部屋。殿下につき従っていたころの控えの間。
「懐かしいな」
不意に後ろから声が聞こえて慕情はさっと振り返る。この部屋の思い出とともにあったといっても差支えないであろう人物――。
「風信、いったい――」
だがそこで慕情の言葉が途切れた。その視線が自らに落ちる。
その身を包んでいるのは、いつもの自分の衣ではなかった。
烏が如き真っ黒な布地。腕の袖口を縛るのは濃い緑色の布。同じ色の帯が腰を囲み、その下には鎖のような装飾が弧を描く。
あの日の記憶が押し寄せる。
上元の日の祭天遊。あの日、慕情が纏っていた妖魔の衣装に他ならなかった。
「懐かしいな」
いったいこれはなんだ、とさっと顔を上げると、いつの間にか前に立っていた風信と目が合う。
その目は、温かく、嬉しそうで、だがほんの少し寂しそうだった。
仙楽を思い出すとき、二人の胸に寂寥の影がささないことはない。
「もう一度見たかったんだ」風信が言う。
「なんでも、今日は地上では人々が仮装をして愉しむ日らしい。西方が由来の習慣らしいが」
「それとなんの関係が――」
「妖や魑魅魍魎に扮するものらしい。となれば、やっぱり」お前の妖魔姿だろう? と風信が得意げに言う。
何がやっぱり、だ。と慕情はぐるりと目を回して溜息をつく。
「そんなことに術を使ったのか」「別にいいだろう」
呆れながらも慕情は、無意識に指で衣装を弄ぶ。首のまわりには、髑髏のような禍々しい装飾が垂れている。
「こんなのあったか?」
「ああ。覚えてないのか? お前は衣装のことはよく知っていると思っていたが」
風信は驚いたように眉を上げた。
確かに、仙楽時代の衣装のことなら、今でも細部まで覚えている。洗う感触、繕う指の動きと共にすべて思い出せる。
だが、この衣装は違った。
この妖魔の衣装を渡された時の感情が蘇る。
悪役とはいえ、祭りの見せ場の大役だ。誇らしい気持ちは、これでまた殿下に目をかけられていると他の子弟から虐められるのだろうという気持ちに塗り替えられていく。いや、結局のところ悪役だ。皆、自分が殿下の足元に倒されるのを見て愉しみたいだけなのだ。そうに違いない。卑下に満ちた笑みで笑い飛ばす。それならせめて、存分に刀を振るってやろう。誰がどう思おうが知るものか。
悔しさに潤む目を仮面の下に押し隠し、袖を通した衣装。それは無意識に自分の記憶から剥ぎ落とされていたのかもしれない。
「俺はよく覚えている」
風信が慕情の肩に手を伸ばす。そこには、ご丁寧に、牙のような尖った飾りが黒光りしている。そうだ、こんなに装飾に富んだ衣装を着るのも初めてで、どこか気恥ずかしく感じたことをぼんやりと思い出す。
「妖魔の姿なのに、なぜかお前がすごく立派に見えたから」
風信の声に、慕情はふと思いついた。
「なあ、お前も着ないか? ――謝憐の神武大帝の衣装を」
風信が意表をつかれたように目を丸くする。
「な……俺はその役じゃなかったぞ。それにそんな……不敬にもほどがある!」
慕情はふふんと笑う。
「仮装なんだろう? どんなものを着たっていいではないか」
慕情がさっと手を動かす。
「な……!?」
風信が飛びのくと、衣がふわり優美となびいた。真っ白な衣の隙間から深紅が覗く。
言葉を失った風信が首をくるくると動かしながら自らの全身を探っている。見まごう事なき、あの日の謝憐の衣装。頭にやった手が、豪華絢爛な髪飾りに触れる。髪留めの下で、濃い茶色の髪が揺れる。
そうだ、あの頃は、風信も今より髪が長かった。
久しぶりにそんなことを思い出し、慕情はそっと微笑む。
「さあ、行こうか」
白金の仮面を手渡す。
そして黒い角の生えた仮面をすっと顔に下ろした。
人々の騒めき。歓喜と驚喜に満ちたどよめき。
慕情の振るう斬馬刀と、風信の振るう刀が凛とした音を響かせ、陽の光を反射する。
いつまでも――いつまでもこの時間が続いてほしい。
妖魔の黒い仮面の下で笑みが漏れる。
目の前の顔も、仮面の奥の目が挑むように愉しむように光っている。露わな口には勝気な笑みが浮かんでいる。だが、そう簡単にいくものか――。
慕情の振るった一撃が、風信の刀を跳ね飛ばす。人々がどよめく。だが、それは水が砂に染むように消えていった。
人々は消え、二人の荒い息遣いしか聞こえない。
二人は倒れ込むように腰を下ろし、仮面を外す。
「妖魔が勝ったら……国の安寧は……どうなるんだろうな?」
息をつきながら風信が笑う。慕情も手で額を拭いながら天を仰ぐ。
「少なくとも私は国師に処刑されるだろう」
「間違いないな」風信が声をたてて笑いながら、慕情の黒い衣装に包まれた腹を叩く。
慕情はそれを見ながら、腰から垂れる魔鳥の尾羽のような装飾をそっと指で撫でた。
今はじめて、この衣装が少しだけ愛おしく思えた。