夜、家に帰った風信は、コートを脱ぐのも早々に鞄のチャックに手を伸ばした。
いつもは、その日のレシートやら買った菓子やらすべて入れっぱなしのまま鞄を開けずに床に置いてそのままだが今日は違った。
鞄から箱を取り出し、ソファに腰かけて見つめる。口元が緩む。
ロンドンに彗星のごとく現れた若いショコラティエ。ベルギー仕込みの確かな技術とユニークで斬新なアイデアの融合——。ネットの記事の特集で読んでからずっと気になっていたそのチョコレートが今、自分の手の中にある。だが、そのショコラティエには悪いが、風信の心を今躍らせているのはその中身だけではない。
南風が自分に買ってきてくれたチョコレート。蓋を開けると甘い香りが誘うが、食べるのが勿体なくて蓋を戻す。しばらくその表面をぼんやりと指で撫でたあと、風信はチェストの上にそっと飾るようにその箱を置いた。
数日後、フライトの飛行機に向かうために空港を歩いていた風信は、向こうから見知った顔が歩いてくるのに気づいた。むこうは戻りだろうか。一瞬目が合うが、どちらも他のクルーと一緒なのでそのまま無視してすれ違う。だがしばらく歩いたところで後ろから声がした。
「おい、風信」
フライトバッグを引きながら歩みを止めずに風信はちらりと後ろに視線をやる。
「慕情、俺はこれからフライトなんだが」
「わかってる」そう言いながらも慕情は風信の横に並ぶ。
「すぐ終わる。大事な話だからちょっと耳貸せ」
その断固とした声に、先を歩くクルーたちが振り返り、風信に目くばせしてそのまま歩いていく。風信も、先に行っていてくれと目で伝え、少し歩みを緩める。
「なんなんだいったい」不機嫌丸出しな声で言ってやるが慕情は涼しい顔だ。
「チョコレートは届いたらしいな」
「は? 何の話だ」
「南風から貰わなかったのか?」慕情のねっとりとした声が耳を撫で、風信は思わず立ち止まった。
「あ、あれ……お前が仕組んだのか?!」
「おい、言い方ってものがあるだろう」
ズボンのポケットに軽く手を突っ込んで立つ慕情が片眉を上げる。
「私は、お前があのチョコレートを喉から手が出るほど欲しがっているが残念ながら今月はロンドンに飛べないといたく残念がっている、と扶揺にそれとなく吹き込んだだけだ。なんの指図もしていない」
そういえば慕情に、今月ロンドンに飛ぶ予定はないかと聞いたことを思い出す。当然、理由を言った途端に、にべもなく断られたわけだが。ふんと鼻を鳴らし風信は腕時計を見て歩き出す。まだ余裕はあるとはいえ、クルーたちを待たせるわけにはいかない。
「まだ終わってないぞ」
なおも後ろから足音がついてくる。
「お返しのほうだが——」
「お返し?」振り向かずに言う風信の横に長い脚が並ぶ。
「ああ、私へのお返しに決まっているだろう?」
「はあ?」思わず横を見る。
「南風からバレンタインにプレゼントを貰えたんだろう? 根回しした私に礼があってしかるべきだと思うが」
同意しかねると思いながらも、あの嬉しさを思い出してしまい目を逸らす。
「今度、パリに飛ぶだろ」
ああ、と言いかけて横を見る。「なんでお前が俺のスケジュールを知っている」
慕情が薄笑いを浮かべながら肩を竦める。キャプテンのスーツとキャップを身に着けていると慕情のそんな小馬鹿にした仕草すら絵になって腹が立つ。慕情は風信の質問を無視して続けた。
「パリに新しく出来たマカロンの店がある。そこに行って私に一箱買ってこい」
「嫌だね」
「自分だけ幸せを享受しておいて礼を失する奴には罰があたるぞ」
風信の眉根に皺が寄る。ゲン担ぎをするつもりはないが、パイロットとして悪運に見舞われることは避けたいことは向こうもよく知っている。
「……わかったよ、買ってくればいいんだろ」
「ああ。安心しろ、店は街中だし、最近は開店前に一時間くらい並ぶだけで確実に手に入——」
「……いちじかん?!」思わず大きな声が出てしまい、風信は口に手を当て、ちらりと周りを見る。玄真航空と南陽航空の機長の制服を着た二人が並んで歩く姿に、すでにちらちらと周りの視線を集め始めていたことに気づき、顔が熱くなる。
「開店当初は数時間並んでも手に入らなかったんだぞ。ありがたく思え」
いったいどんなすごい菓子なんだ、と風信の頭に少しだけ好奇心が湧く。
「ああ、あと、凄く繊細なマカロンだから、そっと運べよ」慕情が指をたてて厳かに言う。
「ふん、乱気流に巻き込まれないことを祈ってろ」
「お前ならちょっとやそっとの乱気流くらいへっちゃらだろ」
「お世辞なんかいっても増えないぞ」と笑う。
「お世辞じゃない」
そう言う慕情の顔はいたって真面目だった。こいつはたまに、しれっとそんな事を言うからたちが悪い。
「だが、ハードランディングしてヒビを入れたりするんじゃないぞ。最近南陽航空の着陸が荒いとか口コミに書かれてたしな」
お前はなんでひとの航空会社の口コミなんかチェックしているんだ、と呆れる。
「は! 馬鹿にするな」ニヤリと笑いながら二人の間で火花が散る。
慕情は立ち止まり、見送るように手を上げた。
「じゃ、あとで店の情報を送っとく。——安全なフライトを」
背中からかけられた言葉に風信は軽く手をあげ、早足でゲートへ向かった。