努力が報われるとは限らない――そんなことは扶揺もよくわかっている。いや、他の人以上によく知っているかもしれない。
だがそれでも期待してしまうのは、報われることもあると知っているからだ。
そう、ちょうど今のように――口元に抑えられない笑みが浮かぶ。
操縦技術以外で国際線のパイロットがさけられないもの、それは英語だ。
パイロットとしての技術には自信がある扶揺も、実は英語だけは少しばかり苦手だった。もちろん定期的な試験で必要なレベルはしっかりクリアしている。だが、いくつかあるレベルの一つ上を取得するのに、ここ数年ずっと苦労していた。
フライトで通信に必要な単語や言い回しを覚えるのはまだいい。だが一応、会話力もいる。レッスンに通ってみたりもしたが、自分の気持ちや意見をすべて言葉で主張せよと求められる英語の世界がどうにも苦手だった。いちいち言わなくても理解してほしいものだ。
だが、それでもなんとか自分の体と心に鞭打って勉強を重ねて挑んだ今回の試験で、ついにそれを手に入れた。
もらったばかりのライセンスを廊下でじっと見つめる。書かれた数字が一つ大きいだけなのに、試合で勝利したかのように嬉しい。
だが、扶揺はゆっくり歩いていた足を止めた。
この気持ちを誰かと共有したい。いや、有り体に言うなら、褒めてもらいたい。だが、誰に?
南風? いや今は違う。それに悔しいことに、アイツはもうこれを持っている。
別の顔が思い浮かぶ。
すっと、あたりの空気を読むかのように顔を上げる。
もちろん今ここで見せられれば最高だが、しかし――。
だから、無意識にたどり着いた更衣室の中にその姿を見つけた扶揺は、信じられない気持ちで目を丸くした。
気配に気づいた慕情が振り返る。扶揺の姿に、無言で軽く眉を上げる。
「慕情機長」
扶揺の口元がぐぐっと上がる。「これ……見てください!」
「なんだ?」シャツのボタンを留めながらそう聞く慕情に、扶揺は思わず駆け寄った。勢いよく目の前に突きつけられたそれに、慕情は思わず首を引く。
「英語の試験、一つ上のレベルが取れました!……やっと」
ああ、と呟いた慕情は、目の前のそれを見てから扶揺に視線を移した。その満面の笑みと輝かせた目を見つめる。
「そうか、よく頑張ったな」
若干圧倒されたようにそう言う慕情に扶揺は大きく頷いた。「はい!」
手を止めたままの慕情と笑顔の扶揺の間に、しばし沈黙が漂う。
「あの……」
扶揺はおずおずと言った。
高揚感からだろうか、大胆な思いが心に浮かんでいた。――この嬉しさを受け止めて欲しい。そう、慕情のその腕で――。
機長がそんなことをするはずないとわかっているのに、扶揺の言葉を待っているその目に「やっぱりなんでもないです」と言いたくなかった。
扶揺は息を吸って、そして言った。
「英語で、”XO”のOの意味ってご存知ですか? メールとかに書くやつです」
「……は??」
あっけに取られた慕情という珍しいその顔を、扶揺は期待をこめた目で見つめ返した。
「何をいったい」動揺を消し去ろうとするように慕情がぎゅっと眉を寄せる。
「Oを……その、機長に……」
扶揺の二つの黒い目から何かを読み取ろうとするように鋭く見つめ、慕情は大きなため息をついた。
慕情の溜息――それは普通なら極北の地を吹き抜ける寒風のように目の前の者を一瞬で氷柱化させるが、今の扶揺には春風のようなものだった。
「まったく」ぐるりと目を上に向けながら、慕情が両手を広げた。
信じられない気持ちで、扶揺はその胸に飛び込んだ。腕を、その細いががっしりとした胴にそっと回す。
着替えたばかりのカジュアルなシャツの綿の匂いと、早朝の森のようなしっとりとウッディな香水のほのかな香り。そして一日の乗務を終えたあとの達成感を感じる微かな汗と、確かな体温。
なんて幸せなんだろう。だが、その幸福感に浸っていた扶揺は、上から声がするのに気づいた。
「おい……扶揺、いったいなにをしている?」
扶揺は夢から覚めたように、ガバっと体を離した。ぎょっとしたような顔で見下ろす慕情と目が合う。
扶揺は気づいた。ひょっとして慕情は—―単に、呆れて腕を広げただけだったのか。
一気に、頬から耳まで顔面に火が付いたように熱くなる。
「す、す、す……すみません…!!」
思わず一歩後ずさる。だが慕情がすっと腕をのばし扶揺の肩を軽くつかんだ。
「あのな」
やれやれと首を振るその顔には笑みが浮かんだように見えた。
そして慕情の力強い腕が、ぐっと扶揺を引き寄せた。
また二人の胸が重なる。さっきの扶揺ほどの大胆さはない。だが今度は背に慕情の手を感じる。そして耳元で静かな声が言うのが聞こえた。
「If you want it, come and say it」
扶揺はその肩に無言でうなずく。
「欲しいものがあるならちゃんと言え」
そう言うと、慕情はすっと扶揺を離した。
「はい」
上空を漂っているような頭で扶揺は思った――英語の世界もそんなに悪くないかもしれない。
それに――こんなに報われることもあるから、人生はそれほど捨てたものではないのだ。