休日の前の夜ほど良いものはない。
なかなか読めずにいた本を手に、慕情は部屋のソファに身を沈めた。だが、三行も読まないうちに、テーブルに置いた携帯が震えた。
ちらりと画面を見る。表示された送信人を確認した慕情の視線は、何事もなかったかのように本へ戻った。
しかし、苛つくかのように携帯は何度も振動音を響かせる。歯ぎしりしたい気持ちで忌々しく視線をやる。
『今、家か?』
『どこにいる?』
風信──なんでアイツは慕情が邪魔されたくないときを見計らったように連絡を寄越すのだ。身じろぎせず、火がつきそうなほど画面を睨みつける。だが、次に現れた名前に思わず眉が動いた。
『扶揺が困ったことになってるらしいぞ』
扶揺が? しばし逡巡したのち、短く返す。
『扶揺がどうした』
『店で酔って潰れてるらしい』
それがなぜ風信から連絡がくるのだ。小出しにしないでさっさと情報を与えろと、疑問は風信への苛立ちに変わる。
『南風に連絡があったらしいんだが、南風も俺も今は泊まりのフライトでそっちにいない』
なるほど。
書かれていた店の住所は慕情の家から遠くない。わかったと返し、本をテーブルに置いた。
素朴ながらどこか小洒落た店構えは、前を通ったときに目をとめた覚えがあった。バーかと思っていたが、どうやらクラフトビールを出す店らしい。木のドアを押して入る。
扶揺の同僚たちのグループはすぐに見つかった。もう彼ら以外に客はほとんどいなかったからだ。通路側の席の一人が慕情の姿に気づいて目を丸くする。
「む……慕情機長……?」小さな声で呟く。テーブルを囲んでいる他の者たちも顔を上げて固まった。全員、頭から水をかけられたような顔をしている。南風に連絡したつもりが、機長の慕情が現れるとは思ってもみなかったのだろう。
「で、そいつはどうしたんだ?」
テーブルの奥の席の扶揺へ顎をしゃくる。
扶揺が酔いつぶれた、と聞いて戸惑ったのは事実だ。彼の何を知っているわけでもないが、その印象を聞かれれば、こう答えただろう──几帳面で、正確で、曲がったことが嫌いであまり人好きするとは言い難い──つまり、とても聞き慣れた形容。
果たして、目の前の「酔いつぶれた」彼はなかなかに予想外だった。
椅子の上にきっちりと胡坐をかき──体は柔らかい方らしい──目を瞑り背筋を伸ばしている。いささか不自然なほどに。たいしたものだ。その姿はまるで修行僧か何かのようだった。もっとも体が不穏にゆっくり揺れているあたりは、何かを召喚しようとしているようで少々不気味だが。
声に気づいたのか、扶揺がゆっくりと目を開けた。
「あ……むーちんきちょー……」
その間延びした声とわずかに濡れてとろんとした目元は紛れもなく酔っぱらっているそれで、慕情は小さく溜息をついた。
「で、誰もこいつの家は知らんのか」
周りの面々が首を振る。
「パイロットの人たちなら知ってたかもしれないですが、みんな帰っちゃって……」
まったく、要領のいい奴らだ。慕情のついた深い溜息に、何人かが急に部屋の温度が下がったかのように小さく身を震わせた。だが、慕情が「わかった。とりあえず私が連れて帰るから」と言うとわかりやすく安堵の表情が浮かぶ。
荷物を持たせて店を出るところまで、扶揺は自分の脚で歩いていたが、やはり街路を歩かせるには到底覚束ない。まったく自分がいなかったらどうするつもりだったのか。仕方なく片腕を自分の肩に回し腰を支えてやると、半開きの目を泳がせていた扶揺の口が締まりなく笑った。
「むーちんきちょうが…来て…くれるなんて……」
思わず何度目かの溜息をつき、ぐるりと目をまわす。
「まったく……。ほら、ちゃんと歩け」
届いているのかいないのか、体に寄りかかる重みが一層増す。だが、その重みと体温を感じながら、不思議とこの状況をそれほど不快に思っていない自分に気づく。少し愉快に感じるほどに。
自分はこの酔っ払い副操縦士にまんまと召喚されてしまったのかもしれない──夜闇の中、慕情は静かに自嘲の笑みを漏らした。
しかし、近くで良かった。慕情は背も高いしそれなりに鍛えているが、扶揺も背丈は申し分ない大人の男性だ。自宅にたどり着いた時には、きつめのトレーニングをした後のようだった。
扶揺の靴を脱がせると、彼は屈んで、やけに丁寧な手つきで靴を揃えた。こいつは、酔うと一層折目正しくなるタイプなのだろうか。
だがソファーに連れて行くと、扶揺は糸が切れたように沈み込んだ。グラスに水を注いで戻ってくると、慕情は扶揺の襟元できっちりと閉じられていた第一ボタンを外してやった。現れた白い首元から上に目をやると、ぼんやり目を開けた扶揺と目線が合う。嬉しそうに緩んでいる頬を軽く手の甲で叩いてやる。
「しっかりしろ、まったく。ほら水を飲め」
グラスを口元に持っていき、おとなしく開かれた唇に当てる。慎重にグラスを傾けると、扶揺の喉が上下した。だが、半分もいかないところで扶揺がむせ、慌ててグラスを離す。「大丈夫か」
扶揺はすぐに落ち着き頷いた。
「いったいどんだけ飲んだんだ」
独り言のような慕情の声に扶揺が律儀に答える。
「なんか、よくわかんないけど、いろんな色でおいしかったです。苦いのとか甘いのとか……」
「お前、ひょっとして酒をそんなに飲んだのは初めてか?」
扶揺が素直に頷く。
「飲んだこと……なかったから」
慕情は眉間を揉む。周りも周りだ。まあ、扶揺が飲みなれていないことは知らなかったのかもしれないが。だが、早々に姿を消したパイロット仲間に、酔いつぶれていく彼を面白がっていた者もいたのではないかなどと思ってしまうのは自分の経験からくる僻みだろうか。
「あの……」
脚をもぞもぞさせながら扶揺が目を泳がせる。「……トイレか?」扶揺は恥ずかしそうに頷いた。
トイレから戻ってくると、扶揺はいくぶんしっかりした様子だった。
「あのう、すみません。ほんとに」
申し訳なさそうに髪に手をやる扶揺に小さく首を振る。「気にするな」
とりあえず、アルコールによる重篤な状態に陥ることはなさそうだと安堵する。
「あ、そうだ」
ソファの端に腰をおろした扶揺は傍らのバッグを漁り、すっと何か取り出してテーブルに置いた。
「これ、飲みませんか」
ゴンという音とともにテーブルに置かれたのはどうやらビールの小瓶だ。
「お前な……」思わず絶句する。
「お店で飲んですごくおいしかったから、かっぱらってきました!」
朗らかに言い放つ扶揺を凝視する。
「かっぱらってって、お前まさかとは思うが──」
「さいごの一本だったんです。もう一人も買ってこうかなって言ってたので」
得意げに腕をまげて勝利のポーズをする扶揺を見つめる。さすがの負けず嫌いと褒めるべきだろうか──たぶん違う。
「もうこれ以上飲むのはやめ──」
「いえ、きちょうに飲んでほしかったんです」
扶揺が目を潤ませ──まあ先刻からかもしれないが──慕情をじっと見つめていた。
「そ、そうか……ではありがたく頂いておくよ」
酔っ払いとは言い争わないに限る。瓶をテーブルの端に置く。だがそれでは満足しなかったらしい。
「飲んでみないんですか……?」
ほとんど酒は飲まない。味もそれほど好みでないし、酒の力に頼ろうとする考えも嫌いだった。だが扶揺の訴えるような眼差しは慕情の心を揺らした。
「……わかった。では少しいただこうか」
やれやれと腰をあげる。栓抜きを探すのに手間取ったがグラスと一緒にもって戻ると、扶揺の期待に満ちた目が待っていた。
少々ぎこちない手つきで栓をあけグラスに軽く注ぐ。美しい黄金色の上に純白の泡が盛り上がる。なるほど、悪くない。そっとグラスを口に運ぶ。
実を言うと、酒類の中でもビールは苦手だった。それほど飲んだことはないが、慕情の中でビールのイメージといえば、通りを千鳥足でぶつかってくる酔っ払いの匂いか、深夜の電車で床をべたべたと汚しながら転がっている空き缶の匂いでしかなかった。
だが、じっと見つめている扶揺の視線を痛いほどに感じながらそっと匂いを嗅ぐと、どこか爽やかさを感じる匂いが鼻を掠め、そのままグラスを傾ける。
思っていたよりも控え目な苦味。果実酒とは違うが、植物の面影を感じさせる芳香。だが、炭酸飲料ではない酒らしい重みはある。
「美味いな」
素直に口から出た感想に、扶揺が嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。こんなに無邪気に嬉しそうな顔をする扶揺を見たことがあっただろうか。そしてその嬉しそうな顔に劣らぬ幸福感に満たされている自分がいた。
少し口をつけて満足させるだけのつもりが、この複雑な味をもっと感じたくて、気が付けばすぐにグラスは空になっていた。
「もういっぱいどうぞ」
瓶を持って待ち構えていた扶揺に促されるままに、ぼんやりとグラスを差し出す。グラスを満たす泡のように、頭がふわりと軽い。
すぐに空になったグラスをテーブルに置き、ソファに背を預ける。
「はあ、酒を飲んだのなんて、いつ以来だろうな」
ゆっくりと瞬きをする。眠くはないが、どことなく瞼が億劫だ。目を横にやる。
「扶揺、お前の見立てはさすがだな」
扶揺はソファの上で体を少しずらし、慕情を正面から見据える。
「機長に喜んでいただけてうれしいです」
その目の輝きを見つめながら考え込む。
他人を気にかける煩わしさよりは、一人でいたい。だが扶揺といるとなぜか、猫が喉を撫でられたような心地よさを感じるのは何故だろう。
ソファの上に置いた腕を伸ばし、指の背でそっと扶揺の頬を撫でる。
「ほんとにお前は有能な副操縦士だが、それ以外のところでも有能だ」
無能な奴は嫌いだ。扶揺は優秀だ。だがそれだけか?
扶揺には不思議な親近感を感じていた。性格も、パイロットとしての能力も、二人はどこか似通っている。だがそれだけだろうか?
扶揺がもとから桃色に色づいていた頬をさらに赤らめ、恥ずかしそうに目を伏せる。長い睫毛が揺れる。
「しかもこんな美しい顔ときている」
いつもなら口にしないような言葉が口から転がり出る。扶揺が目を上げる。
「いえ、慕情機長にはかないません」きっぱりと言い切る。
「有能なパイロットで、キレのいいナイフみたいで、こんなに綺麗で、しかも体も鍛えてて──」
「……待て、体というのは?」
思わず言葉を挟む。
「シャツ越しでもわかりますよ。ほっそりしてるのに、よく鍛えておられるのは。まあ更衣室で着替──」そこまで言って扶揺は口をつぐんだ。慕情の口からクスクスと笑いが漏れる。
「まさかそんなに見られていたとはな」
扶揺がさらに耳を赤くしながらも、さっと顔を上げ、そして言った。
「だってほんとのことですから。僕、慕情機長が好きなのでいつも見ちゃうんです」
さらりと大胆なことを言ってのける扶揺に、さすがの慕情も目をしばたいた。
いや、深い意味などないはずだ。だが口を潤したい気分に襲われ、ほとんど無意識にグラスを満たし口に運ぶ。扶揺の視線から意識を逸らそうとするかのように、一瞬迷ったあとで言った。
「お前も少し飲むか?」扶揺が頷く。「一口だけだぞ」グラスに少し注いで手渡すと、扶揺はうやうやしくそれを受け取り、そっと口に含み、ゆっくり喉を上下させた。
「あの」
二人ともグラスを置いたところで、突然扶揺がソファの上に膝を折ってかしこまって座り、その横にそっと腕をついた。土下座でもしそうな姿勢に目を丸くする。だが、その口から出たのは思いがけない言葉だった。
「南陽航空のあのふたりは、もう……したらしいです」
「……なにを」
扶揺の目線が少し下がる。だがそれはほんの少しで、決して瞼が動くほど「下」ではない。つられるように慕情も視線を落とす。その先にあるのは――わずかに開いた扶揺の濡れた赤い唇。
「そうか……」
何を言わんとしているかがなんとなくわかった。風信と、あいつが目をかけている副操縦士が何をしたかも。どうせあいつらのことだ。野犬が鼻をぶつけ合うようなザマだったのだろうが。
「したいなら、したらいい。かまわない」
そう言うと扶揺の目がわずかに丸くなり、慕情の目をしっかりと見返した。
「……いいんですか?」少し掠れた声が言う。「でも僕初めてで」
「私だって同じだ」慕情が言うと扶揺の目がさらに見開かれる。真っ黒な瞳が慕情を見つめていた。
他人と口を触れ合わせて快感を感じるなど微塵も理解できなかった。こと潔癖なきらいがある自分にとっては。
だが、今初めて、試してみても損はないかもしれないと心が傾いたのだ。酒の悪戯だろうか?
いいや違う。それならたとえ意識が朦朧としていようが撥ねつける。
扶揺だからだ。そう知っている心は穏やかだった。
扶揺が手をついてゆっくり前に身を乗り出す。
鼻がくっつきそうなほど近づいたその顔を見つめる。色白の滑らかな肌。すっと細い鼻筋、切れ長の目。その顔は自分と少し似ている。似ていることに悦びを感じるほどに美しい顔。
だがそんなことを考えているうちに、そっと上唇に柔らかいものが触れた。一瞬でそれはまた離れたが、慕情が拒まないのを見て、もう一度触れる。今度はもっと長く。
驚くほどに、嫌な感じはしない。そういえば、上唇は皮膚の一部だったか。それなら肌が触れるのと同じ──。
そんなことを考えている自分に苦笑が漏れる。だがその息音が誤解を招いたのか、扶揺の口がわずかに微笑む。そして軽く開いた慕情の上下の唇と重なりあった。
さっきよりはっきりと感じる、暖かく柔らかで湿った感触。そういえば下唇のほうは粘膜の一部だったような──。
だが真面目に考えようとする理性は浮遊感に塗り替えられていく。
微かにさっきのビールの香味を感じるのは自分か扶揺か。だがそれとは別のアルコール感を鼻腔と口に感じる。樽のような芳香も。──今夜扶揺が飲んだのはビールだけでないことは確かだ。そして今自分はそのことを直に感じている。
静かに呼吸する二人の息が混じり合う。扶揺が小さく動いたはずみに、一瞬、二人の舌先が掠める。扶揺がさっと舌を引っ込める。
二人とも身じろぎもせず、それ以上を求めようとはしなかった。その小さな接点だけで、互いの熱と味を感じ合うには十分だった。
たぶん世間一般の者たちがする「それ」には程遠いのだろう。だが慕情と扶揺にとっては、そんなことは考えるに値しないのだ。
静かな時間が流れる。いや、二人の間でだけ時間は静止していたかもしれない。そこは慕情と扶揺だけの世界だった。
そっと二人の唇が離れたとき、見つめ合った二人の瞳には少し驚いたような、楽しむような複雑な光が宿っていた。
腕を伸ばし、扶揺の髪を梳くようにそっと撫でてやると、力が抜けたように膝をくずした扶揺の体が慕情の肩にそっともたれかかった。その体から感じる体温は、さっき店から連れ帰っていたときと同じはずなのに、どこか違って感じた。見下ろすと、満足そうな笑みを湛えたその顔は目を閉じて静かな寝息をたてていた。
「私もお前のことが好きだしいつも見ていることは知らなかったか?」
明るく艶のある髪にそう囁くと、慕情も瞼が重力に引かれていくのに任せた。