映画のエンドロールが流れ始めたところで、扶揺はそそくさとノートパソコンの画面を閉じた。南風に勧められて見てみたが、やたらうるさい映画だった。だが途中で止めるのも癪で、結局最後まで見てしまった。
大きく欠伸をしながらヘッドホンを外すと、映画の世界から突然現実の世界に戻る。だが、目の前の壁は自分の部屋の壁ではない。
扶揺のアパートの部屋のエアコンが突然動かなくなったのが数週間前。この暑さにエアコンなしの部屋ではよく眠れず、寝不足顔を慕情に見つかり、半ば強制的に彼の家に来るよう言われた。ホテルの部屋に泊まれと言うでもなく、自分の家に上げてくれたことに驚きつつも、感謝の気持ちしかなかった。
いや、正直に言えば、あのエアコンに感謝したいくらいだった。
憧れの慕情機長の家に、一時的とはいえ暮らせるなんて。
慕情の高級マンションは広く、扶揺が使えるベッドルームの空きまであった。無機質なほどに整い完璧に掃除が行き届いた家は慕情そのもののようだったが、その広さはどこか持て余されているような感じがした。
ベッドに座ったまま耳を澄ます。家は静まり返っており、まだ慕情は帰っていないらしい。寝る前にシャワーを浴びようと、上のシャツを脱ぎ、バスルームへ向かう。
バスルームのドアの横のスイッチをつける。だがドアノブに手をかけたところで、突然ドアが中から開き――
「ぎゃああああっ……!!」
暗い室内からぬっと現れた白い顔に、扶揺は盛大な悲鳴をあげ尻もちをついた。
顔の下から現れた腕が壁のスイッチを押し、扶揺が消してしまった電気をつける。
「なんだ扶揺」
扶揺の脳がやっと情報を処理し、シートパックを貼った慕情の顔を認識する。
「家主に向かって悲鳴をあげるとはな」目と口だけを出した顔が扶揺を見下ろす。ドアを閉めかけたところでまたにゅっと顔が現れ「しかも機長」と言い足した。
「あ、あのいえ、その……帰って、おられたとは」
しどろもどろになりながら見上げた顔にはわずかに面白がっているような表情が見えたような気がした。大部分はパックに覆われているので自信はないが。
「失礼しました……」
立ち上がる扶揺をじっと見つめていた慕情が唐突に言った。
「風呂、入るんなら入れ」
「え……いや、終わってからで良――」
「まだだいぶかかる。お前も早く寝ないといけないだろう」
そう言いながら慕情がバスルームのドアを大きく開けた。あらわれたその全身を思わず扶揺は見つめた。
慕情は上も下も着ていなかった。いや、一応パンツは履いているし肩にはタオルがかかっている。だがそれだけだった。
更衣室で着替えているところは横目で見たことがあるが、こんなに真正面から目の前で見たのは初めてだ。
いつもはシャツの下に隠れているたくましい肩と胸、浅く割れた腹筋、細いが猫科の獣のように俊敏そうな脚。
だが、それらすべてを堪能したい気持ちと見つめてはいけないと思う気持ちがせめぎ合う暇も与えず、慕情はくるりと背を向けて中に戻った。扶揺はその背に導かれるようにバスルームの中に入った。
まだ残っている熱と湯気には爽やかな香りが混じっている。隅から伺う扶揺をよそに、顔のパックを剥がした慕情は、裸のまま洗面台の鏡に向かってスキンケアを始めた。
今になって気まずい気持ちになり、やっぱり後からにしようかと声をかける。
「あのぅ……」
鏡の中の慕情が扶揺をちらりと見ると、「ああ」と言ってくるっと壁のほうを向いた。
有無を言わさぬその背に、終わるまで待ちますと踵を返す気にもなれず、扶揺は意を決してズボンを脱いだ。さすがにパンツはバスタブに入ってシャワーカーテンを閉めてから脱ぐ。
「あ、もう大丈夫です」
カーテンの端から声をかけると慕情は無言でまた鏡に向き直った。
シャワーの湯をバスタブにためながら見ていると、慕情はボトルからたっぷりと中身を手に取り、優しく顔にのせはじめた。扶揺にはなかなか手が出せない高級ブランドの美容液だ。
それが終わると慕情はまた別の上質そうな瓶をひねり、中からヘラで取ったクリームを慣れた手つきでくるくると顔に塗り始めた。
「念入りなんですね、スキンケア」
「この年になると、いたわってやらないとすぐに機嫌が悪くなるからな」
肌の、と慕情は手を動かしながら言う。
「お前もあと十年すればわかるだろう」
予言めいた声音に、扶揺は小さく首をすくめる。
「僕もそろそろ、ちょっといいのを使いたいとは思うんですけど、どれがいいのかわからなくて」
そう言うと慕情の目がちらりと扶揺を見た。
「使ってみたかったら、ここにあるのはどれ使ってもいいぞ」
「えっ……ほんとですか?!」
思わずバスタブから身を乗り出しそうになり、いそいそとカーテンの影に戻る。
「スキンケアとかコスメとか、話せるような相手がいないんですよね」
溜まってきた湯の表面を見ながらぽつりと言う。もともとプライベートな雑談をするような同僚は多くないし、美容の話題を持ち出せるような相手なんて皆無だ。
「南風なんかもってのほかだし」そう言うと慕情がふんと笑うのが聞こえた。
「だろうな」
「この間なんてアイツ、枕カバーなんか数か月に一回しか洗わないとか言ったんですよ!」
慕情の方を伺うと、まるで泥水を舐めろと言われたように顔をしかめていた。
「信じられん。まったく南陽航空の奴ときたら」
顔のスキンケアは終えたらしく、髪をとかしながら慕情が言う。扶揺は横に置かれたボディソープを手に取ると泡立てて肌にのせた。合成香料の安っぽい香りとは違う、控え目ながら森の中のようなすがすがしい香りが鼻をくすぐる。
こうやって慕情機長とスキンケアやら他愛無い話をしながらずっと暮らせたら――そんなことを考えてしまう。たとえ家賃を払うにしても、一緒に住みたいなんて到底口に出せる気がしない。こうしてコックピットとは違うハコの中で、同じ空間を、時間を、共有するのが楽しい――それくらいなら、このどこか非日常的な湯気越しになら、言えるだろうか――
だが扶揺が口を開いたところで、ガーッというドライヤーの音が室内を満たした。
ドライヤーの風が慕情の豊かな黒い髪を弄ぶ。
鏡を見つめる慕情の真剣な表情に、扶揺も我に返り、シャンプーを手に取って泡立てた。
しばらくすると唐突にドライヤーの音がやみ、ほんのりとまた違った香りが漂ってきた。
ヘアオイルだろうか。指の長い慕情の手が、コックピットのスイッチを指一本でパチパチと切り替えていく時のように、素早く正確に髪の間を行き来する。軽く頭を振り、前髪をかきあげる様子は大物俳優のようで、思わずカーテンの隅から見入ってしまう。
だがそれもすぐ終わり、慕情は棚から大きめのボトルを出すと、今度は体に手を滑らせ始めた。その手が通った後の肌が、しっとりと照明の光を反射する。
腕、肩、そして背中から腰へ動く手を見つめていると、その下が視界に入ってしまう。
ぴったりと腰を覆う、短めの紺のボクサーブリーフ。横からだと露わな前の膨らみを無意識に見てしまい、扶揺は急いでカーテンの影に顔を戻した。湯をすくい、ばしゃばしゃと顔にかける。
いったい何を自分は――。湯の温度が急に上がったような気がした。何度かゆっくり呼吸を整え、頭を切り替えるように口を開いた。
「それにしても、バスタブつきなんてすごいですね。さすがキャプテン」
扶揺や南風のアパートにはシャワーしかない。
「私は疲れたときは、ゆったり湯に浸かりたいんだ。で、バスタブつきの部屋を探したら、こんな大きな家になってしまった」
なるほどと内心で頷く。
「家にいないことも多いのに勿体ないんだがな。それに――少しばかり寂しく感じることがたまにないわけでもない」
若干回りくどいながらも、そんな言葉を聞くのは意外だった。だが慕情はそれ以上は言うつもりはないらしく、光沢のあるパジャマのシャツを無言で羽織った。
シャワーを頭に持っていき、髪を流す。だがそのとき慕情が何か言ったような気がして、シャワーを止めた。
「え? 何かおっしゃいました?」
「いや、なんでもない。……おやすみ」そう言いながら慕情はタオルを洗濯カゴに放りこんだ。
「機長となんて気まずいだろうし」独り言のように呟きながら、その姿はドアの向こうに消えた。
ドアが閉まったとたん、浴室内は急に静かで空虚な空間になったような気がした。
ぼんやりとしながら、バスタブの栓を抜く。
映画館でふと意識が逸れて大事なセリフを聞き流したときのような気分で、扶揺は排水溝に泡混じりの湯が消えていくのを見つめた。