結婚しないか──そう言い出したのはどっちだっただろう。
天界を下り、人間界で暮らし始めて、なし崩し的に一緒に暮らすようになり──もはや腐れ縁も来るところまで来た、そんな半ばヤケっぱちめいたところもあったかもしれないが、勢いがついてしまえば、そんな結論にまで達してしまうところは二人とも似通っているかもしれない。
「別に結婚式やら仰々しいことをしたいわけじゃないから安心しろ」
そう言った風信に、慕情は冷たく鼻で笑う。
「お前にそんな願望があるかもしれないなんて、これっぽっちも思ってない」
ああそうかいと、風信も慣れた様子で聞き流す。
「だが──」慕情が言い淀むのを見て風信が片眉を上げる。
「まあしかし──」
「なんだ、さっさと言え」
「誓いの印として指輪くらいはつけてやってもいい」
そう言い終わるが早いが唇を引き結びそっぽを向いた慕情に、風信は内心でクスリと笑う。
こいつといると、ほとんどの時間は苛々させられることばかりだが、ほんの時たまこういう瞬間があるのだ──だからやめられない。
二人は連れ立って昼下がりの街に繰り出した。
指輪については、少しばかり見繕っているものがある──慕情からそこまで引き出せたのは、何駅も乗って街の中心部の駅を降りてからだった。
「お前なあ、そうならそうとさっさと言え」
詰る風信に慕情が目を怒らせる。よくない兆候だ、と風信は目を逸らす。なぜいつも結局自分のほうがこの気分屋の気分をとりなさないといけないのだ。
胸に疑問が浮かぶ。──俺はほんとにコイツと結婚するのか?
だが、あらためて自分の胸に問えば、答えはイエスなのだ。合わない反りをこすり合い、言葉をぶつけ合い、殴り合い、それでもやっぱり離れられない──離れたくないと思ってしまうのだから。
慕情について店のドアをくぐると、空調の効いた空気に迎えられる。数歩歩いただけで、風信には馴染みのない空間だとわかる。
ここは慕情の領分だ。苦手な分野では手出しはしないということくらいは心得ている──武神として。自分たちの毎日は戦なのか?──たぶんそうなのだろう。
「なにをぼやっとしている」
慕情の呼ぶ声に我に返る。白い手袋をした男性店員がビロード張りのトレーをカウンターに置きながら風信のほうを見た。その完璧な笑顔に引きつった笑みを返す。
「どれがいいと思う?」
まさか意見を聞かれるとは思ってもみなかった風信は固まった。トレーにはいくつかの指輪が載っている。
こんな試練が待っていたとは。正解はどれだ。
「わからん。お前がいいやつでいいんじゃないか」
そう言って顔を上げた風信は、慕情の顔を見て止まった。風信を見つめるその目はいつになく真面目だった。
「私はお前と選びたい」
「そ、そうか」気圧されたように風信は呟いて視線を下に戻す。
どの指輪も慕情のお眼鏡にかなっただけあって、上品でかつ控え目な意匠が凝らされている。風信の目が一つの指輪に止まる。
「なあ、お前は銀が好きだよな」
「ああ、私の肌に合うからな。だがお前は──」
「金のほうが、なんというか、しっくりくる」
「ああ」
たぶん今、慕情も同じものを見つめている──そんな確信があった。風信は店員に目で尋ね、それを手に取った。
銀の輪と金の輪が絡み合ったようなデザイン。
決して外れることのない二つの連なった輪。
「これがいい」気が付くと風信の口から呟きが漏れていた。そのことに風信自身が驚く。装身具にこれほど強く惹かれたのは、生まれて初めてだった。
隣で微笑む気配がした。
「私もそれがいいと思った」
心得た店員がすぐにその指輪を二つ用意した。
「つけてくれ」
そう言って手を差し出した慕情の声は少しばかり掠れて聞こえた。
ああ、と言った風信の声もいつになく小さかった。胸の中の鼓動のほうが大きかったかもしれない。ほっそりとした慕情の色白の薬指に、おそるおそる指輪を通す。
そして慕情が風信の左手を取る。少々遠慮がちながらも、しっかりと掴む慕情の指と、自分の指を通り過ぎていく冷たい指輪の感触。
二人で無言で見つめ合い、そして同時に手を持ち上げて証しの嵌った指を見つめた。
一瞬のはずなのに、その時間は永遠に感じた。
店を出て通りを歩く二人は無言だった。だがそれは決して気まずい沈黙ではなかった。二人とも、胸の中のふわりとした何かを、ただ静かに愛でていたかったのだ。
「こっちだ」
慕情が顎をしゃくる。次の目的地はもうすぐだ。
ただ歩いているだけなのに左手に微かに感じるものが足取りを軽くする。陳腐な言い方だが、その時だけは世界がバラ色に見えた。
だから、その建物の敷居を跨いだ時には、夢にも思わなかったのだ。
──それがほんの数十分であっけなく砕け散るなんて。
「くそっ!! なんでだ!!」
怒りに頬を染めて荒い足取りで外に出る風信の後ろを、慕情が静かに追う。
結婚というのは役所に届け出るものらしい。ちゃんとそれに則って進めたい、そう言った風信に慕情も頷いたのだった。
それなのに。
「なぜあんな目で見られなければいけない!」
自信に満ち溢れた顔の長身の男性と、無関心そうな顔を背けて隣に立つ長身の男性の二人の異様なまでの存在感に気圧されながらも、婚姻の手続きをしに来たという彼らに役所の職員は答えた。
男女でなければ結婚は認められないと。
「何故だめなんだ! 俺たちはなんの偽りもなく、愛しあっている者同士なのに!」
風信の矛先は、静かに腕を組んで見ていた慕情に向かう。
「お前……知ってたんだろう、俺たちは結婚できないと。お前のことだ、知っていて俺が断わられるのを待っ──」
「知らなかった。私だって──」遮った慕情の目にもわずかに怒りが灯る。
「思ってなかったんだ! こんなに近代的な地で、俺とお前が男というだけで婚姻が認められないなんて」
役所前の広場におかれたベンチに、慕情が乱暴に腰をおろし腕と足を組む。風信もその隣に座ると肘をついて頭を抱えた。
「俺は……俺は」両手の間から声が漏れる。「本当にお前と結婚したかった……したいんだ」
実のところ、結婚やらその届出にそれほどこだわりはなかったのに、今はただ悔しくて仕方なかった。
しばらくの沈黙のあと「……私もだ」と慕情が呟いた。
「受け入れたくない者もいるのだろうな。だが、そういう者たちを消してまわるか?」
「……いや」風信は低い声で絞り出す。
「そう。私たちが人間の決めることに手出しはできない」
「わかっている! だが……こんなにお前と一緒になりたいのに!!」
吠えるように言う風信に慕情が小さく口の端を持ち上げる。
「そんな馬鹿でかい声でお前に愛を叫ばれると照れる」
確かに、こんなに真っ直ぐに愛を言葉にしたのは初めてだったかもしれない。
すると慕情はすっと左手を持ち上げ、そして言った。
「なあ風信。この指輪には、ある力が込められている。これを交わした日に囁かれた愛の言葉を記憶して、その後いつでも思い出せるという」
慕情が親指ですっと意味ありげに薬指の指輪をなでる。「まあ、囁くというより大声で叫ばれたがな」
風信は思わずあっけに取られたように慕情を見つめた。
「人間たちが私たちの愛を認めなくても、お前とこうして愛の言葉と誓いは交わせた」
現実的な慕情の言葉にモヤモヤした気持ちは晴れないものの、風信は言った。
「おい、じゃあ俺もお前から愛の言葉を言ってもらわないと不公平だろう」
「ん……? 好きだぞ、風信」
風信は思わずその涼し気な顔を睨む。
「馬鹿にしているのか?! ああそうか、そうだよな、どうせうつつを抜かしているのは俺だけで、俺がお前を愛しているほどには、お前は俺のことなんか──」
突然、慕情がむんずと風信の二の腕を掴んで立ち上がった。
その顔は頬を赤く染め、その目は怒りに大きく見開かれていた。慕情は何も言わずに風信の腕を掴んだまま、ずんずんと歩き始めた。
「おい! 慕情、どこに──」
広場を出て、大通りに出る。
夏至近い日差しもようやく夕刻の色をおびてきたその光の中を、人々が、車が、左へ右へと絶え間なく行きかう。家路を急ぐ人々は風信と慕情には目もくれない。
交差点で慕情が立ち止まり、くるりと風信のほうを向いた。
「いいか、二度と言うな。私がお前ほどにお前のことを愛していないなんて」
次の瞬間、言葉を返そうとした風信の口は塞がれていた。
柔らかく熱い慕情の唇が強く押し付けられる。
慕情の手が風信の首の後ろを強く引き寄せる。
風信は驚きに目を丸くした。慕情との口付けは、どこか乗り気でない様子に気まずく終わるのが常だった。それが、こんなに強く、激しく求められるなんて──。
風信も慕情のうなじに左手を伸ばし、目を閉じる。
空気を求めるように動いた唇は、またすぐに角度を変えて重なり合う。風信もそれに答え、さらに口づけが深くなる。
燃えるように熱く、くらくらするほど甘い。
唇の間に押し入ってきた慕情の舌を受け入れる。
周りにいる無数の人間の視線を感じる。
だが、湿った熱が混じり合うのと同時に、流れ込むように慕情の感情が伝わってくる気がした。
──見るがいい。私たちはここにいる。狂おしいほどに愛し合う者同士として。愛し合う二人の男として。
神として二人ができること──それは自らの身をもって見せることだ。
誰に見られようとも、二人が失うものはない。
風信は堪らず右手で慕情の細い腰を引き寄せる。重なり合う胸で二人の鼓動が絡み合う。
そして、どちらからともなく、蜜を吸い終えた蝶が花弁を離れるように、相手の唇からそっと離れる。
金色の夕日が影を落とす互いの目元を見つめ合う。慕情がすっと顔を斜め下に向ける。
「私だって離れられないんだ。こんなにも、強情で、優柔不断で、図体と声が無駄にデカくて、なんでもずけずけ言って、視野が狭いお前から」
風信が口を挟む隙を与えず慕情は続けた。
「こんなにも一途で、切り捨てる事が出来なくて、胸もその中の心も広くて、言葉を偽らなくて、私のことだけを見ているお前を──愛している」
そう言い終えた慕情の口の先には、風信の左手の指輪が煌めいていた。
「……随分と長いな」風信は指をひらりと動かして見せる。
「不足はあるまい?」慕情が不敵な笑みを浮かべ、自分の左手を風信の手に近づける。
剣先を合わせるように二人の指輪がカチリとぶつかり合う。決して外れることのない金銀の輪が、夕陽を鋭く弾いて輝いた。