研磨に彼女が出来る話。 ○
本来なら、冷たいそよ風が火照った頬を撫で心地よいと言われるような、そんな昼下がり。黒尾はひたすら息を殺して、隠れていた。
「好き、なんです。研磨くんのこと」
壮大な青空を見上げて、心が空っぽになった気がした。
その場に居合わせてしまったのは、すべて偶然だった。水筒を家に忘れてしまったこと、飲み物を買いに行こうとして研磨のクラスメイトに声をかけられたこと、忘れ物を届けてやろうと研磨を探したこと。全部、本当に、たまたまだった。
「そう、なんだ」
困惑げに答えている聞きなれたその声に、どうしてか、息が詰まる。無意識に込めた力は、持っていた書類を握り、くしゃりと小さく音を立てた。
「だから、ね。あの、その……付き合って、くれませんか」
いつかはあるだろうと想像していた未来が、今目の前にある。研磨のことを好きな女の子が現れて、恋に落ちて、告白して、付き合って、幸せになる研磨の姿。それに何ら違和感もなかったし、むしろいいことだと思っていた。研磨に幸せになってほしいと心からそう願っていたのだから、黒尾も嬉しいと思う。それに、間違いはないはず、だった。
「……うん。俺で、よければ」
「ほんとですか」と緊張で裏返った声。それを聞いていた黒尾は、なんだか胸が熱くなるような、重たくなるような、冷たくなってしまうような、全てをかき混ぜられてこんがらがった気持ちのまま、冷えきった壁を頼りにずるずるしゃがみ込んだ。痛む頭を抱えながら、ぎゅと眉を下げ笑う。
おめでとう。よかったな、研磨。可愛い彼女が出来て。
それは、嘘偽りない祝福である。震える指先が、そう言った。
○
孤爪研磨。小さい頃から一緒にバレーをしている、ひとつ歳下の幼馴染み。音駒高校のバレー部セッター。頭脳派。ゲームが好きで、家でも学校でも、とにかくどこでも時間があればゲームをしている。引っ込み思案で、極度の人見知り。人と話す時はいつもたどたどしい。
昔は、そんな研磨が人と話さなければならない時や独りになりそうな時は、いつだって黒尾が彼のそばにいた。震えているその小さな肩を見て、可哀想で、可愛いと思ったから。
公園の入口で立ち止まった研磨の、不安げに揺れるちゅるんとした瞳と、胸の前でぎゅっと強く握られている小さな拳。柔らかな唇が、固く閉ざされ震えている。
『研磨、大丈夫。俺が、そばにいるから』
そう笑いかければ、困惑に濡れた瞳をこちらに向ける。黒尾は、そんな研磨の固く握られたその拳を、優しく、丁寧に解いて、そうして開かれた手のひらに、自分の手のひらをそっと重ねた。しょうがないなぁ、なんて笑いながら手を引いて、そうして黒尾のつくりあげた暖かな世界に招いてやるのだ。
俺は、研磨よりひとつお兄ちゃんなんだから。
研磨が安心して息をできるように、笑えるように。研磨のためならなんだってしてあげたい。そう思うようになったのは、いつからだったっけ。
○
緊張した体をほぐすために息を整えてから、静かに扉を開けた。
「けーんまっ」
厄介そうな気配を感じた研磨は、ゲームをする手は止めはしないが、しっかり顔を顰めて無視を決め込んだ。しかしそんなのお構い無しに、研磨の部屋の扉を後ろ手で閉めながら、ニヤニヤと笑みを浮かべた。ベッドに腰掛けると、ぎしぎし音を立てたベッドは、ガタイのいい黒尾の体をふわふわと上下に揺らす。
「研磨クンさぁ、俺に話すことあるんじゃないのー?」
研磨は隠そうともせず、肺の中の空気がすべてなくなったのではないかと思うほどの大きなため息をついた。カチカチとゲームを操作する音に変化はない。
「……」
「しらばっくれでも無駄だぞ。悪いことじゃないんだから、もっと胸張れって!」
「うるさ……」
もう一度ため息をついた研摩は、「なんなのそのテンション」と続けた。
「あの人見知り研磨に彼女だぞ? しかもすっごい可愛かったし、良かったな研磨」
あの小さかった研磨にも彼女か。大人になったよなぁ、と思い出に浸る黒尾に背中を向けたまま、返事をすることもなく、ただひたすら画面のキャラクターを動かしてボスの攻撃を避けている。
ム、と顔を顰めた。彼女が出来たら、普通は嬉しくてウキウキしちゃうものだろうに、どうして彼はこんなにも落ち着いているのだろう。あの研磨が告白を受け入れるほどだから、よっぽど彼女のことが好きだったのだろうという考えは間違っていたのだろうか。
しかし、研磨が彼女が出来たと舞い上がっている姿が想像できないのも確かだった。彼が分かりやすくテンションの上がることといえば、難易度が高く無理だと言われているゲームを、長い時間をかけてコツコツプレイしている時だろうか。何も語らず、ただキラッキラに瞳を輝かせるから、わかりやすいことその上ない。それすらないとは、まさかゲーム以下なのか?
カチカチ、そんな音を聞き流しながら、いつの間にか棒のように固まっていた指をほぐし、軽く布団を握る。
昼間の『俺でよければ』と言った、聞いてるこちらが溶けてしまうような甘いはちみつのような声色が、今でも黒尾の鼓膜にこびりついている。そういえば、研磨のあんな声は、聞いたことなかったな。
「……なぁ研磨。彼女さんのこと、好き?」
ついぽろりと口から滑って出てしまった、低く小さなその声に、自分でも驚いて目を見開く。意図せず真剣な雰囲気をつくってしまい、自分で恥ずかしくなってきた。何言ってんだ、俺。
ちょうど区切りのいいところだったのだろう、研磨はホーム画面を開いてゲームを中断し、ゆっくりと振り返った。どこかぼんやりした目で見つめられ、どうにも居心地が悪くなる。気まずくて目を逸らした黒尾を見た研磨は、ゆるり頬を緩める。
「……うん」
はちみつ、甘い、優しくやわらかな返事。
それを聞いた黒尾は、突然心臓からどろどろとした何かがとめどなくあふれて、息苦しくなった。聞いたこともない、研磨の、ありのままの柔らかな感情に触れて、怖気付いた。『そりゃよかったな』なんて褒めようとして小さく開いた口は吐息のみが漏れ出す。
あれ。こういうときは、なんて言えばいいのだろう。いや、褒めればいいのに、喉が震えて、痛くて、声が出せなかった。
なんだ、この、甘いの。
「……そ、うか。研磨が嬉しそうでよかったよ。はは、なんか俺も嬉しいわ」
それにしては、心臓が、痛い気がするけど。
ぎゅ、と眉を寄せ笑った黒尾を見つめていた研磨の瞳、瞳孔が開く。
「なんで?」
「……え?」
違う方向を見ていた黒尾は顔を戻して、そして目を丸くした。
笑っていたはずの研磨は、思わず背筋が凍ってしまうような、なんの感情も感じ取れない無表情だった。困惑する黒尾を真っ直ぐ見つめて、「なんで、嬉しいの?」と聞き直す。
「なんで、って……そりゃあ、…………俺にとっちゃ弟みたいに大事な幼馴染みが、好きな子と結ばれたんだから、喜ぶもん、じゃねーの?」
「……クロ、それ、本気?」
こちらを真っ直ぐに貫くその瞳が、すっと細められる。見定められているような感覚。ぴりぴりした重たい空気が、次第に黒尾の焦燥感を煽る。
「……な、に。どしたの、研磨」
本当に、分からなかったから聞いただけだった。それだけで、誤魔化しただとか、そんなつもりは一切なかった。
黒尾のその問いかけに、小さく笑った。
「…………俺は、思ったことないよ」
「なにを」
「ねぇクロ。クロは、俺のこと弟みたいに思ってるんだろうけど」
いつの間にか立ち上がっていた研磨は、ベッドに座る黒尾を見下ろして、眉を寄せ苦しそうに、小さく笑った。
「俺は、クロのことを兄みたいに思ったことなんて、一度もないよ」
ひゅ、と喉から変な音がした。呼吸の仕方を間違えたみたいだ。理解することを許さないと言わんばかりに、研磨はまた言葉を畳み掛ける。
「クロはさ、俺のこと何も知らないよね」
「……そん、なこと……」
「あるよ。知らないから、何も見ようとしてないから、あんなこと言えるんだ」
一歩ずつ近づいてくる研磨に押され、抵抗する気力もない黒尾の体は、意図も容易くベッドに倒される。
「クロが見てるのは、いつだって幼馴染みっていう肩書きと、クロにとって都合のいい、理想の孤爪研磨」
ぎし、と音を立ててベッドに乗り上げてきた研磨を、息をすることも忘れ静かに見上げていた。ゆっくりと顔の横に右手を置いた研磨は、真上から黒尾を見下ろす。
「……ほら、今も見て見ぬふり、してるよ」
なにを。
ぐわりと霞む視界の中で、悲しそうに目を伏せ笑った研磨の顔が、黒尾の心臓に引っかき傷をつくる。そんなことない。そんな言葉が、喉の奥につかえていた。
「…………俺は、クロの理想の孤爪研磨には、なれない」
まるで独り言のようなそれは、しんと静まり返ったら部屋の中に溶けて消えていく。脳みそが、うまくまわらない。研磨の言葉を咀嚼しようとして、真っ白になって。わかるようでいて、でも、わからなくて。
静かに起き上がった研磨は、部屋を立ち去ろうとドアノブに手をかけた。
「幼馴染みも何もかも取り消して、最初からやり直したら、クロは俺のことちゃんと見てくれるのかな」
なんてね。そう呟いて、そのまま扉を開けた。
「……ッけ、んま、」
絞り出した声は、研磨に届くことなくぱたんと閉じた扉に遮られ、ぽたりと地面へ墜落した。黒尾の手のひらも、突然力を失い、静かに地面へ落ちていく。
掻きむしりたくなるような苦しさと、ぐぅっと重たくなる心臓。
何も、考えられなかった。
研磨の問いの答えが、見つからない。
○
寝ていたのか、起きていたのか。そんな簡単なことも分からないほどぼんやりとした意識を止めたのは、いつも通りのアラーム音。
あの日から、一ヶ月が経った。だというのに、未だに、黒尾は研磨の問いの答えを見つけられない。
顔を洗い、軽く髪の毛を整えて、朝ごはんとお弁当を同時進行で作り、食べ、荷物を整えた。そこまではいつも通りのルーティン。そこでまた、喉が締め付けられるような感覚に襲われるのだ。
「……起こしにいかねーと、だよな」
重たい足をズルズルと引きずりながら、我が家のように研磨の家へ入り階段を上る。いつもありがとう、なんて研磨の母の言葉にへらへらと笑い返しながら、考えていることといえば、朝から夜まで頭の中に居座る研磨の言葉だ。
『…………俺は、クロの理想の孤爪研磨には、なれない』
歪む視界の中で苦しそうに笑う研磨の笑顔。
俺にとっての、孤爪研磨とは、なんだったか。
友達、幼馴染み。弟のような存在。ずっと一緒にいて、バレーをしている。親よりも、長い時間を共にしていると言えてしまうほど、朝から夜まで、ずっと一緒にいる。家族のような、存在。
誰よりも多くの肩書きと、黒尾の時間を手にしているというのに、研磨は、一体これ以上の何を、黒尾に求めていたのだろう。
固く閉ざされた扉の前で立ちすくむ。ドアノブにのびた手がピタリと止まり、扉には指先一本も触れられなかった。これも、最近はずっとこうだ。扉一枚ですら、触れることを恐れてしまうようになっている。
「……けんま、起きてるか?」
しん、と静まり返る廊下。返事はない。いつも通りだ。
「…………開けるからな」
震える指でドアノブに触れ、覚悟を決め扉を引いた。今までの研磨の部屋であれば、朝起きるまでカーテンを閉じきっているから、真っ暗な景色であるはずだった。
「……けんま」
「おはよう、クロ」
顔をあげれば、制服を着終えてゲームをしている研磨の姿があった。
あの日から、研磨の寝顔のひとつだって見ることが出来ないでいる。今日も、それは叶うことがない。研磨の黒尾に対する態度は以前と変わらないようでいて、こうした日常の片隅で、線引きがされていると突きつけられる。
初めてこの光景を見た時、顔も合わせずに「自分で起きれるよ」なんて言った後ろ姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……おはよう研磨。学校、行こう。それが終わってからでいいから」
きゅ、と心臓が縮んでしまったかのような痛みに、唇をぎゅっと噛み締め目を逸らした。
自分で起きれたのか、研磨。偉いな、なんて言いながら、そのプリンのよう色の、丸い頭を撫でて褒めるのが、以前の黒尾だった。
でも、今はそんなこと、できるわけがない。研磨は嫌だったかもしれない、なんて考えと不安が、今も黒尾の背後に居座っている。
大きく変わってしまった生活の中では唯一部活中だけ、セッターとミドルブロッカーという二人の関係に大きな変化がない。部活の間だけはいつもの二人でいれるという安心感に、黒尾は肩の力を抜いて息ができる。
しかし部活が終われば、また。
「あ、研磨、今日も彼女と弁当食ってる。ほら」
窓の下をちらりと覗いた。木陰に二人で座り込んでいる様子を上から眺めては、なんだかお似合いの二人だな、なんて思ってみたりする。
「あ、おかず貰ってる。はは、めっちゃ青春してんなー、研磨」
二人の表情は見えない。けれど、研磨が彼女の方を向いていることは分かるし、時々こそこそ話をして肩をふるわせている姿も見えてしまう。
心臓が、どろり、どろりと脈打つ。重いのに、苦しいのに、痛いのに、嫌なのに、二人から目が離せない。彼女が軽く触れている場面も、手を重ねる姿も、寄り添うところも、顔を近づけて、そして――
「おい、黒尾どうした?」
意識がハッと引き戻された。首を傾げご飯を口に放る夜久に見つめられ、彼らを見すぎていたことにようやく気がついた。ぱちりと一回瞬きをすると、痛みを感じた。そこで、瞬きもせず二人を見ていたということにも気づいた。まずったなぁ、なんて苦笑いをする。
「なんでもねぇ。ただ、幸せそうだなって思ってさ」
それも嘘はない。
そうでなければいけないと思っている自分がいることにも、つい最近気づいた。
○
「初めまして。研磨くんの幼馴染みの、黒尾先輩、ですよね」
柔らかく笑う彼女。吹奏楽部である彼女も放課後はギリギリまで学校にいるようで、最近は研磨と一緒に下校していた。いつも校門の前で研磨を待っている彼女。
黒尾は気まずさからすれ違うのを避けていたが、今日は先に部室を出たはずの研磨が来ていなかったようだ。彼女に声をかけられた黒尾は、無視することなんてもちろんできるはずもなく、条件反射でにこりと笑いかける。
「あ、研磨の彼女さんか。こんばんは、研磨もうすぐ来ると思うから」
「はい。ありがとうございます」
彼女は、幼馴染みである黒尾に、研磨を褒めるような惚気話をたくさん話していた。
あの面倒臭がりで省エネ思考の研磨は、いつも彼女の家に近いところまで送っていること。口数は少ないけど、手を繋いでほしいと思っていたら繋いでくれて、してほしいことを汲み取ってくれること。真っ黒な長い髪をいつも褒めてくれること。頭が良く、勉強を教えてくれること。彼女の好きなアーティストの話を沢山聞いてくれること。
彼女の口から止まらない研磨の話を、黒尾はまるで知らない人の話を聞かされているかのような、そんな心地で聞いていた。
黒尾の知っている研磨は、だらしなくて、黒尾に世話をかかせ、面倒臭がりで、好きなことには一生懸命になれるけど、それ以外は興味ないと見向きもしない。
彼女に対する研磨と、黒尾に対する研磨。どちらも同じ研磨のはずなのに、まったく違う人のようだと感じた。研磨のことに関して、知らないことなどないと信じて疑わなかった。そんな研磨の、知らない一面。
「研磨くんは、多くは語らないんですけど、静かに見守ってくれて、そばにいてくれる。そんな静かな優しさが、すごく好きです」
あぁ。俺も、そういうところ好き。
俺も研磨の好きなところ、たくさん言える。この人の知らない、俺だけが知ってる、研磨のいいところ。
苦手なものを見て隠しもせず歪める顔。ゲームをしている時の、キラキラちゅるちゅるな瞳。寝ている研磨を起こすためにカーテンを開けた後、太陽の光が眩しくて顔を思い切り歪めて唸る寝起きの悪さと、盛大な寝癖。黒尾が髪を整えてやってる間、上下左右に揺れる頭。絹のように細く柔らかな髪。黒尾が作ったアップルパイを食べて緩まる頬。
……いつか、彼女もこれら全てを知り尽くす日が来るのだろう。その上で、黒尾の知らない研磨のことを、多く語る日が来るのだろう。ニコニコ、幸せそうに蕩けて笑いながら。
まるで心臓が引き裂かれたかのような激しい痛みに、くらくらして、視界がチカチカ光る。
「……そ、っか。研磨のこと、よろしくね。彼女ちゃん」
……お願い。お願いだから、
「はい! こちらこそ、お世話になります」
これ以上、研磨を好きにならないで。