「……あ、田中右先輩!」
春が来て、76期の先輩が卒業した。学年が上がり、過去にはいろいろと怖い思いもしたけれど、田中右先輩と仲良くなった。こんな言い方をしては紙屋くんに怒られそうだから表立って仲良しですとは言わない。でも、割と気軽に声をかけられるようにはなった、と、勝手に思っている。
「立花」
先輩は去年と変わらない様子──ユニヴェール公演のときのものではなく──で私の名前を呼ぶ。今でもパートナーに欲しいと言ってくるし、先輩後輩の立場は不変なので態度が同じなのも当然だ。ただ私が先輩を先輩として見るようになっただけ。
「何をしている」
休日にわざわざ校舎裏の人気のない場所を選んでいて、通りかかっただけでこの場所にも私にも用がなかったであろう先輩を呼び止めたのだから至極真っ当な質問だった。
「自主練をしていました。2年生になったので、訪問公演のほうを」
訪問公演。アンバーはどうしてか不参加なので、クォーツ・オニキス・ロードナイトの2年生が外部で公演を行うもの。最優先はユニヴェールでの公演だから集まって稽古をする時間はほとんどとれないが、それでも手を抜きたくはなかった。
「今回、お前はジャックか」
「ジャンヌ──アルジャンヌです」
訊かれて答えて、前にもあったなと思う。だから、次に言われる言葉も予想がつく。
「今のお前は、ジャンヌには見えない」
当時は本気で悩んだけれど、乗り越えたはずだ。でも、今でも性別を偽って生活していて、どちらでもありどちらでもない私はまさにジャックジャンヌ。完全なジャンヌではない。先輩はそこを突いてきた。わかってはいるけれど、一体どうしようか。1人の稽古でこれでは同期に迷惑をかけてしまう。改善策を考えていると、思わぬ言葉が降ってきた。
「お前の稽古に付き合ってやる」
拝啓、去年の私。具体的には冬公演前とユニヴェール公演前の私。2年生になった私は、どうしたことかあの田中右先輩と稽古をしています。
過去の自分に宛てたメッセージを書くとしたら、今の私は絶対に現在進行形で行われているこの出来事についてを書くだろう。それくらいに珍しいことだと思う。先輩の申し出で、訪問公演のための自主練を手伝ってもらっている。私はアルジャンヌ、先輩にはジャックエースの役をやってもらって。
「一番魅せたい場面はどこだ」
一番の見せ場に力が入るように他の場面も作り込むから。今回は丁度2人のところだから、付き合ってもらおう。
「少しかがんでください」
台詞はこうで、私が先輩に……。キスシーンはもちろんフリなので、しているように見える角度を練習させてください。台本を見せながら説明すると、わかった、とすぐに了承してくれた。ここはジャックエースにはこれといった台詞がないので、ほとんど私が動くだけ。もっと言えば、1人では練習できないキスシーンがどんなものなのか、それらしく見えるにはどうすればいいのかを試してみたかった。あの田中右宙為が普通の人間を演じるなんて滅多にないだろうし、見てみたいシーンはたくさんある。けれど、台本が1つしかない。まだ覚えきれていないので、今回は諦めることにする。通りかかっただけのひとを長々と引き止めるのも悪いから。先輩をちらりと見ると、いつでも始めてくれていいといった様子だった。
「始めますね。……『私、──』」
駆け寄って、頬に手を添えて。かがんでもらっても身長差はほんの少ししか縮まらなくて、背伸びをして顔を近付ける。数秒して顔を離して、台詞を続けて──。私の長台詞の後、一言二言のやりとりをしておしまい、の、はずだった。
「っ……!」
唇に何か柔らかいものが触れている。目の前には整った顔、琥珀色の眼があって、ようやくこれが唇だと知る。今の私は上を向いていて、先輩の頬に添えている手は元からほとんど力を入れていなかった。私を逃がすまいとする後頭部と顎の手は大きく、少しでも逃げようとするならば強く掴まれそうだ。
やわやわと下唇を食まれ、舌がゆっくりなぞっていく。くすぐったい。背中がぞくぞくして、ほんのわずか口を開いてしまった。
「んうッ、」
その隙間から蛇のように侵入してきた舌にどうすることもできないまま、じわじわと口内を掻き回される。あついものがうごめいて、されるがまま、時々声を漏らすことしかできない。しらない、こんなの。求められている行為が、何をすべきなのかがわからない。目で訴えても、口は塞がっているのだから教えてはくれない。探すように動く舌に、自分の奥に引っ込めていたそれをそっと差し出す。
「ふ、あッ」
身体がびくりと跳ね、思わず声が出る。初めて自分が舌の裏が敏感だということを知る。ちろちろと舐められる度に震えて、口の端から収まりきらない唾液が零れていく。たぶん、正解。真似をしようとしても、自分の身体の一部なのに思ったように動かせなくて、一方的に舌を絡められる。それでも快感を得ている自分がいる。もっと、と求めそうになっている自分がいる。それでも唇は離れて、最後に一度強く吸われて、私は膝をついた。
「はあ、はぁ……っ」
「その顔だ」
乱れた呼吸しかできない私を見下ろして、変わらぬ様子で先輩は言った。身体にも言葉にも力が入らない。
「ふえっ……?」
「女の顔だ。その顔ができれば、いい」
フリは本来の相手と試せばいい。それだけ言って、立ち去ってしまった。あんなに涼しい顔で。私の顔はきっと真っ赤。この熱がおさまるまでは他の人には会えないくらいに。どうしてくれよう、私のファーストキスを!
その後、同期との合同練習であのシーンをやる度に思い出してしまってしこたま迷惑をかけた。特にジャックエースのスズくんに。表情は作れるようになったけれど、創ちゃんには「女の子の顔してる」とイエローカードを出された。キスのフリはたくさん練習したからうまくいったし、訪問公演そのものも大成功に終わった。
これをめでたしめでたし、で終わらせるには、まだ私の心の整理がつかない。