楓凪 花屋の朝は早い。朝に強い方ではないので、携帯のアラームはいつも5分おきにセットしている。それでも何故かひとつもアラームが鳴らなくて盛大に寝坊することもあるけれど。同室の夜鷹さんは眠り姫の如くなかなか目を覚まさないタイプの人なので、オレのスマホのアラーム程度では起きないということはここ数ヶ月の同居生活で十分にわかっていた。
多分3回目くらいのアラームでようやく身体を起こす。昨日の夜は子タろにアレをされた後、そのまま気絶するように眠りについたはずなので、上体を起こすとまだ少し目眩がする。もう一度横になりたい気持ちをぐっと抑えて、ベッドから足を下ろした。秋口に差し掛かった最近の朝は寒い。裸足の足先を擦り合わせてみるが、両足ともに冷たいだけなので逆に寒さが増したような気がした。
安物のぺったんこのスリッパを履いて、クローゼットの前へと足を運ぶ。すっかり肌に馴染んだシャツとサロペットを身に着けた後、少し迷って厚手の上着を羽織った。これから花市場までバイクを走らせるから、きっと体感温度は今より寒くなるはず。夏生まれということもあってかどちらかと言うと寒いのが苦手だから、少し早いけれどそろそろ衣替えをしてもいいかも、なんて思ったりもしながら、寝起きでボサボサの髪の毛を手櫛で整える。髪が伸びてきて最近はハーフアップにすることがほとんどだけど、未だに自分の頭の後ろで髪を結ぶのには慣れない。自分はいつもちょっと横にズレて髪を結んでいるらしいと知ったのは、ここで共同生活を始めて子タろに指摘されて初めてだった。クローゼットの内側にある小さな鏡を見ながら首を左右に振って髪型を確かめる。うん、多分今日もちょっとズレてるけど、変じゃないから大丈夫。
ソニアが用意してくれた、『ソニア印・安全&救急リュック』の持ち物リストと照らし合わせながら物を詰めていく。財布、スマホ、ハンカチ、ティッシュ、絆創膏、モバイルバッテリー……ついでににゃおちゅーる。トラブル対処のためにいつも大荷物だ。これだけ準備していても、ハンカチが風で飛んで行ったり、モバイルバッテリーの充電が何故か無くなっていたりすることもあるので、気休め程度ではあるけれど。ソニアと一緒に作った持ち物リストはもはやお守りのようなものだ。
「……よし」
出かける準備はばっちり。ストームグラスも晴れを示しているし、現在時刻は予定の一時間前。少し目眩はするけど、これなら無事に時間までに花市場に辿り着けそうだ。
心の中で夜鷹さんにいってきますを言って、音を立てないようにそっと部屋の扉を閉める。廊下は自室より少し寒くて、首元がすーっとする。そろそろマフラーを用意しようかななんて考えながら、身体を縮こませて階段を降りて行くと、見知った姿が目に入った。
「あれ、主任?」
「あ、凪くんおはよう。今日も早いね」
「うん、おはよう。……今日は花の仕入れの日だから。主任はこんな時間にどうしたの?」
「さっきまで寝てたんだけど、寒くて目が覚めちゃって。もうちょっと寝ようと思ったらお腹空いて寝れなくなっちゃってさ……」
だから小腹を満たしに来たんだ、と主任は悪戯っぽく笑う。可不可には内緒にしててね! と慌てたように付け足す姿は、本当に悪戯を隠す子どもみたいでなんだか微笑ましい。オッケー、とその小さな秘密を守り抜く約束をして、名残惜しくもその場を離れようと足を踏み出した。はず、だったんだけど。
「凪くん」
「っわわ……主任、どうしたの」
主任に突然腕を掴まれて、思い切りバランスを崩した。危うく主任を巻き込んですっ転ぶところだったけど、なんとか両足で踏ん張って転ぶのだけは回避した。主任の方を見ると、なんだか少し困ったような顔をしていて、思わず首を傾げる。
「? もしかしてオレ、何かしちゃった感じ?」
「ううん。違くて、ちょっと顔色悪いなって思って……気のせいだったらいいんだけど」
「そう……かな? 寝起きだからかもしんない」
前に貧血を起こして倒れた時に、大層心配をかけてしまったから。ドナーとして血を飲まれたので絶賛貧血中ですなんて口が裂けても言えなくて、なんとなく顔を逸らしてしまう。が、顔を逸らしてすぐに主任の温かい手がオレの両頬を包んで、半ば強制的に目を合わせられる。
主任、手温かいね。眠い? なんて気軽に話しかけることも出来ずに、思い切り照れてしまって顔が熱くなる。主任と恋人になってもう半年……まだ半年か、それくらい経つけど、こういう恋人みたいな距離感にはいつまで経っても慣れなくて、心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。
「っ、あの…し、主任」
「……無理はしないでね、何かあったら電話して」
「……うん、ありがとう」
ちゅ、と、額にキスを落とされる。オレより主任の方がほんの少し背が高いけど、おでこにキスをする時はいつもちょっとだけ背伸びをしてるのを、オレは知ってる。触れるために少し払い除けられた前髪が、なんだか気恥ずかしくて手櫛で前髪を梳かした。
あんなに寒かったはずなのに、主任の唇が触れた額からじんわりと熱くなっていく様な気がして、大分キャパオーバー気味のオレの足りない脳みそは、両手で額を押さえてゔーん…と変な声を上げさせることしか出来なかったみたいだ。
いってらっしゃい! と元気な主任の声に背中を押されて、ようやく足を進める。玄関のドアを開けると、冬を思わせる乾いた風が肌を撫でた。主任のおかげで心はポクポクしているけれど、身体の表面はしっかりと寒くて思わず身震いする。寒さに肩を縮こまらせながら振り返る。
「……いって、きます」
「うん、いってらっしゃい! 気を付けてね」
ひら、と手を振った主任に、オレも片手を上げて返す。ドアが締まり切る直前に、愛おしいものを見守るような、花のような主任の笑顔が自分に向いていたのが見えた。溜まりすぎた幸せを吐き出すように大きくため息を吐くと、口から吐き出された幸せは白く濁って宙に消えていく。
「……今日も頑張ろ」
目が覚めた時よりもいくらか多くの花を仕入れる計画を頭の中で練り始める。今日はどんな花を渡そうかな、と浮き足立つ気持ちを抑えながら、ひんやりとしたバイクのシートに跨った。