峠前の茶屋所【離💊さんと🌸の会話】「…よし!これで完成!!」
ジメジメとした梅雨が明け、陽が照りつく季節となってきた。旅人や飛脚の往来が多い峠前の茶屋所では、夏の日差しを避ける為の大きな日除傘を床几台(しょうぎだい)と共に広げ、夏が来た事を知らせる風鈴を🌸が店の軒下に取り付けていた。時折り吹く風を受けてチリ、チリン…と可愛らしく、心地の良い音を奏でる風鈴に
「ふふっ、今年もよろしくね。」
と🌸は金魚の絵が描かれた風鈴を優しく撫でてから踏み台にしていた椅子から降り、店内に入る。
店では店主である父と母が開店前の準備に追われていた。夏の時期のみに提供をしている食事などの下拵えだ。父は鰻を慣れた手つきで捌き、身を串に刺し、自ら仕込んだたれを刷毛で塗りながら焼いていき、母は天草から作ったところてんを突き器にいれ麺状にしては水を張った桶に溜めていく。
「ありがとう、🌸。風鈴の音を聞くと、夏って感じだねぇ。」
「そうね、おっかぁ。何か、他に手伝う事ある?」
風鈴の取り付けを終えた🌸に礼を告げた母は耳に届く風鈴の音に、やっぱりあれがなきゃねぇと笑っていた。🌸が他に手伝える事はないか?と問いかけると
「あぁ、そうしたら裏の川に降りて西瓜を引き揚げて来てくるかい?丁度よく冷えてるだろう。」
と告げられ、🌸は二つ返事で答えると、川へと向かった。茶屋所の裏手には丁度川がある。峠と共に沿うように山から流れる川の水はとても心地良く、幼い頃から🌸の遊び場の1つでもあった。父が舗装した石造りの階段を降りて川辺に降りると、網に入れて冷やしている西瓜を2玉見つけた。
「うん、よく冷えてる。」
引き揚げる前に西瓜に触れれば、ひんやりと冷たくなっている様子に🌸は満足そうに笑った。しかし問題はこれを運ぶ時だ。折角冷えた西瓜を無理して運んで落としたりしたら、元もこうもない。少々面倒だが往復して運ぶしかないか…と🌸は1つ目の西瓜を持ち上げようとした。すると
ガサ…ガササ…
川辺の脇にある茂みから何かの音がした。途端、🌸は身を硬くした。峠にあるこの場所は、上流に比べて開けているのもあり、時折り野生動物が水を飲みにくる姿も見なくはない。それは鹿や猿、猪…そして熊。まさか…と🌸は自然と早くなる鼓動を感じながら音がした茂みを見つめる。鹿や猿などはまだいい、しかしこれがもし熊だったら…と考える最中
ガササ…ガサッ!
こっちに来る!と🌸は焦る。一心不乱に手元にあった西瓜を、なりふり構わず投げつけた。
「きゃあぁっ!!」
何かに当たる音は……しなかった。
「おや、おや…こいつはぁ、中々にお転婆な娘さん、ですね。」
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「あっはっはっ!!いきなり声がしたと思ったら…娘が悪かったねぇ、薬売りさん。」
「いえ、いえ…お気になさらず。」
茂みの音は、野生動物ではなかった。
🌸が投げつけた西瓜も割れる事はなく、そこから姿を現した男が抱き止めた。川辺から聞こえた娘の叫び声に、初めは驚き準備を放り出して駆け付けた父母だったが、事の顛末を知ればなんと人を熊と間違えたという笑い話だ。しかも一心不乱だったとはいえ、西瓜を投げつけるなどと母は笑いが堪えきれず豪快に笑い飛ばす始末だ。
「わっ、笑わないでよおっかぁ!私、熊かと思って…!」
まさかあんな場所に人がいるだなんて思ってもいなかった🌸は、自分の勘違いに腹を抱えて笑う母に顔を真っ赤にして言い返すも、母は、「はいはい」と軽くあしらい準備に戻って行った。
聞けば、あの場所にいたこの薬売りという男は、あの川辺に自生する薬草を採取していたというではないか。自分の勘違いに🌸は両手で顔を覆い、穴があったら入りたい気分だ…とため息をついた。
「驚かしてしまい、申し訳ありません」
店先に並べてある床机台(しょうぎだい)に腰をかけている薬売りと名乗った男が詫びてくれば、詫びるのはこちらの方だと🌸は首を横に振った。しかし"薬売り"となると、以前自分に手荒れの軟膏薬を手渡してくれた人を思い出す。
背負子を背負う姿は似てはいたが、よくよく見れば着ている着物や、男の顔を彩る隈取りの様な化粧も違うような…と思と「何か?」と薬売りに声をかけられた。
「あ、あぁ…いえ、私のはやとちりですので…。えっと…そうだ!ちょっと待ってて下さい。」
自分の勘違いで迷惑をかけてしまったのだから…とせめての詫びとして🌸は、先程の西瓜を切り分け始めた。良い大きさと張りのある西瓜を包丁で切ると、中は水々しい赤い果肉と、それに映える黒い種が姿を見せた。丁寧に2つ切り分けて皿に移して薬売りに差し出した。
「さっきのお詫びです。よかったら…ですが。」
「おや…こいつはぁ、有難い。頂きますよ」
そう薬売りが答えると、程よく冷えた西瓜を口に運ぶ。シャク…と彼の口元から見えた歯が西瓜を喰む音と、時折り吹いてくる風に揺られながら軒下の風鈴が、チリ、チリリン…と鳴る。
「ところで…🌸さん、でしたか。中々、よい香りですね…香でも、焚いているので?」
「香だなんて、そんなの私は……あ、もしかしてこれでしょうか?以前、ここに立ち寄った薬売りの方から頂いて…」
西瓜を半分程食べた薬売りから、不意に香でも嗜むのか?と問いかけられた。
しかし🌸には香などそんな名家の人間がやる様な趣味などない…と思う最中、もしかしたらあの軟膏薬だろうか、と懐に大事にしまっている2枚貝に入った軟膏薬を薬売りに見せた。
すると、薬売りは少しだけ目を見開いたかと思えば、「ほぉ…」と何か面白いものを見た、といったような表情を見せた。
「いや、ね…仕事柄、鼻が利くもので…。それは大変、良い物ですよ。」
と薬売りは答えると、再び西瓜を口にし始めた。
確かに、あの1件で頂いたこの軟膏はとても良く、手荒れで痛みを感じていた箇所が、数日も使えばあっという間に治ってしまう。しかも目の前の薬売りから見ても、大変良い物だと言われてしまえば、改めて凄い高価な物を貰ったのでは…と考えてしまう。
「…きっと、その薬売りは🌸さんが、気に入ったのでしょうね。気に病む事は、ありませんぜ。」
そう、考えていた矢先に薬売りから告げられては、まるであの時の薬売りの様に、自分の心を読まれたような感覚を抱き、手元の貝殻から薬売りへ視線を向けた。丁度、薬売りは西瓜を食べ終わったのか、西瓜で濡れた指や手、口元を、自前の手拭き紙で拭いてから「まぁ…わからなくは、ないか」と小さく呟いた。しかし、その呟きは🌸の耳には聞こえなかたのか、🌸が首を傾げると
「大切にしてやるといい…もしかしたら、またふらりと、来るかもしれませんね。」
そう薬売りは🌸に答えてやると、背負子を担ぎ床几台から腰を上げた。
「馳走になりました、では…。」
「あっ、はい!お気をつけて!!」
店を後にする薬売りの後ろ姿に、遅れて🌸はお気をつけてとお見送りの言葉を送った。
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「いやはや…まさか、あのような物を手渡すなど…。」
店を後にし、麓にある町へ1人歩きながら薬売りは呟いた。初めは、愛嬌があり噂で聞く看板娘の🌸と思っていたが、彼女がお詫びと西瓜を差し出してきた際に香ったあの匂い…自分が知る者が作る軟膏薬であり、しかも買ったのでなく頂いたと。
薬草を煎じたり、擦り潰して作る薬に比べ時間や手間がかかり、尚且つあの貝殻に入れてある物など売り物にすれば良い値段だろう。すると、背負子に括り付けられてある箱がカタカタ…と鳴る。
「責めなどしませんよ…余程、🌸さんが気に入ったのだろう。近々、また…顔を見せるでしょう。嗚呼…だが、鉢合わせるのもまた、一興かもしれません、ね。」
まるで何かに答えるかのように薬売りが口にすれば、まるで箱は「呆れた」と言うかのようにピタリ、と鳴るのを止めた。そんな様子に薬売りはふっ…と僅かに口角をあげ、麓の町へと向かっていくのだった。