12月月寿新刊進捗 夜の談話室は、今年から合宿に参加している中学生の談笑で、例年ではあり得ないほどの賑やかさに包まれていた。そんな和やかな雰囲気から外れた片隅のソファで、月光はひとりラケットの手入れをする。
グリップテープの傷みやガットの弛みを確認しつつ磨く作業は、プレイの質の向上やラケットを長持ちさせるために必要不可欠なものであるが、そもそも月光はラケットの手入れをするという時間そのものを好んでいた。
その日の己の練習や試合を見つめ直し、己の心と向き合う、謂わば精神統一をする時間を設けるための大切な日課であった。
だが今の月光は、どれだけ手を動かして精神統一に没入しようとつとめようが、周囲の音から耳を閉ざそうが。頭の中に思い浮かぶ歳下の男の子ことでいっぱいになってしまう。
「ぁ、」
自身の口から咄嗟にもれた声で、月光ははっと我に返る。意識を戻した視線の先には、今しがた巻き直していたグリップテープが不格好に寄れていた。まるで、今の月光の心の乱れを体現しているかのように。普段の月光であれば、こんな初歩的な失敗は絶対にしないだろう。し、そもそもこんなにうわの空になることだってない。そんな月光の胸にこれほどまでのさざ波を立てるのは、最近交際を始めた寿三郎の存在だった。
気がついたら、惹かれていた。好きになっていた。
これまで恋愛に現を抜かしたことなど一切なかった月光の心を、瞬く間に攫っていったダブルスパートナー。ふたつ歳下の後輩。
自覚したのは、ダブルスを組んでから二週間ほど経った頃。ようやくダブルスが形になってき始めて、さらに力を高め合わなければというときだった。
例えば、独特な訛りで紡がれる声色やリズムが、聴いていて心地がよいだとか。一九〇センチ超ある彼の長身だと、他の者より視線が交わる距離が近いだとか。その距離で、きらきらと瞳を煌めかせて囁かれる、最近ようやく耳に馴染んだ『月光さん』という愛称が、なんだか擽ったいだとか。もっと彼の声を、表情を、近くで感じていたいと、無意識のうちに彼と会話をするときは背中を丸めて、自身の方から距離をつめていただとか。
本当に些細なことの積み重ねが、ちりちりと胸を焦がすような大きな感情に形を成していった。それはまるで、真夏の空に急速に発達していく積乱雲のような勢いで。そして恋慕は、積乱雲がいつまでも空に留まることができず地上に雨を降らせるように、月光の胸からも洪水のように溢れてしまった。
やってしまった。熱がこもる胸中とは裏腹に、頭から血の気が引いていく感覚に呆然としていた月光だったが。
『俺も、です……せやらか、めっちゃ嬉しいです』
いつもの快活な声をいじらしく潜めて、気持ちに応えてくれた瞬間、月光はすぐにでも強く掻き抱いてしまいたい衝動をぐっと堪えて、赤茶色の頭に手を乗せてそっと撫でた。
そうしてスタートした、彼との交際。
だが、その後の彼との関係が変化したのかと問われると、決してそうではない。
夜明け前に起き、朝食の時間ギリギリまで眠っている彼を起こして。日中は厳しいトレーニングに打ち込んで。夜は、日中の反省会や翌日の準備、仲間たちと過ごしているうちに消灯時間を迎えて。おやすみ、と挨拶をして各々のベッドで眠りについて。
朝から晩までほぼ彼と一緒に過ごしてはいるものの、交際前と何も変わらない日常の繰り返しであった。
自身らはここに、テニスをしにきている。
そんなことわかり切っているし、練習時間に私情を持ち込むほど、月光は愚かではない。ほんの一瞬の隙で足元を掬われる世界だということは、この二年間いやというほど見てきた。
だが、ひとたびコートを離れてただの男子高校生に戻ると、頭の中を埋め尽くすのは、寿三郎のことばかりであった。
想いが通じ合えば、幸せだと思っていた。いや、この地球に何十億の人間が生きていて、その中でたったふたりが相思相愛になるなんて、奇跡の確率なのだろう。
だが、月光は知らなかったのだ。
ひとつ想いが叶えば、もっと先を望んでしまいたくなることを。ずっしりとした体つきであるが、自身よりも小さい体を抱きしめてみたい。いつも朗らかな笑みを綻ばせる唇に、口づけをしてみたい。
ゆっくりと関係を進めたいという月光の恋愛観なんて、所詮は恋を知らなかった人間の空想で。甘酸っぱい欲がここ数日ずっと胸の中にわだかまっていた。
「ツッキー、ひとりで何しとるん?」
雑念を払い、失敗したグリップテープを剥がそうとしたタイミングで、不意に呼びかけられる。その声質や訛りで誰であるのかは想像に容易かったが、頭だけを動かして横を見上げると、案の定、種ヶ島が飄々とした表情で近寄ってきた。月光は咄嗟にラケットを隠そうとしたが、そんな隙さえも与えられず、手元を覗き込まれる。
「あちゃ〜、めっちゃヨレとるやん。ツッキーでもこないな失敗するんやなぁ〜」
癇に障るわざとらしい口調に苛立ちを覚えた月光だったが、ここで何か反応を示せばヤツの思うツボであることなど、この二年間で十二分に理解していた。無視を決め込み、ラケットをバッグの中へ仕舞って早々に立ち去ろうとした。だが、そんな月光の胸中などお構いなしというように、種ヶ島が隣の空いたスペースにどかりと腰を下ろした。
「ツッキー、当てたろうか」
「……何をだ」
「恋煩いやろ」
脚を組み、ニタニタといやらしい笑みを浮かべる種ヶ島のひと言に、月光は一瞬どきりとした。