さいしょのおはなし「おいしいですか」
「よくわからない」
ミスルンと食事をとるのは8回目だ。
カブルーが政治の世界へ進むことになり、ミスルンがメリニに滞在することを決めてから8回目。
律儀に回数を数えている自分は少し女々しいかもしれない、とカブルーは思う。
食事に誘えば承諾してくれるし、嫌な顔はされない。嫌だと拒絶する欲がないからかもしれないし、なんとも思っていないからかもしれない。
「どうですか。仕事の方は。外交官は早々に切り上げたと聞きましたが」
「パッタドルに任せた。私はダンジョンやモンスターについて調査を行っている。いつまた悪魔があらわれるかわからない。その時はいちはやく見つけ滅ぼす方法を探す」
彼は自分の仕事について、聞かれれば素直に答え、ときおり悪魔を思い返すような表情をした。
カブルーは彼の心が未だ悪魔にあるのが気に食わなく思いながらも、その拗ねた態度を表に出せず話を聞いていた。
なぜ自分が嫉妬のような感情を悪魔に抱かなくてはならないのか。カブルーはもう知っている。ミスルンの心を奪うものが妬ましいからだ。
エルフと恋愛はしたくなかった。
恋に落ちたくなかった。
彼らとはわかり合えないと知っているし、彼には相手にもされないだろうとも思った。けれど、彼が自分に感情を向けてくれるかもしれないと思う気持ちもあった。ジレンマを抱えながらカブルーはミスルンを食事に誘う。
食事の回数が多くなるにつれ、ミスルンへの興味は深まっていった。正確に言えば、ミスルンが自分へ向けてくれる感情に対して。
ミスルンが自分へ向けた小さな感情の切れ端を不格好な縫い目でパッチワークにしたような、そんな出来損ないの積み重ねがカブルーの心に天幕を作っている。とても脆くて、形の揃っていない期待の感情が広がっていく。
今日も何も言えず終わるのだろうか。
くちにしかけては言葉にならず、いつも出てくる饒舌な言葉はちりぢりになって拾っても拾ってもうまくまとまらない。
この人に、伝えたいことがあるのに、伝えれば端切れはバラバラにほどけてしまうのではないか。そんな不安があった。
食事を終え、解散するという時間。
カブルーはいつも彼を引き止めてどうか自分を受け入れてくれと願いたくなる。
では、と声が聞こえてとっさに腕をつかんだ。
ミスルンはさして驚いた風でもなくカブルーを見つめている。カブルーの方が、自身の行動に驚いたほどだ。
「お願いします……どうか、この手を払いのけないで……あなたに嫌われたくありません」
「嫌いなどしない」
「そうですか……。なら、これ以上のことも、許してくださいますか」
「手を捕まえる以上の?」
カブルーは捕まえた手をそっと引っ張り片方の腕で抱き締めた。ちょうどミスルンの頭が鼻先に当たって、かぐわしくも控えめな秋の花のような香りがした。
「ええ、慈悲をください。ほんのすこし、こうして……あなたの慈悲を乞いたい」
「かまわない。こうされるのは、嫌いではない」
「気を持たせるような言い方をすると、期待してしまいますよ……」
「うん。そのつもりだ」
頭がかっと赤くなった。脳に血液はいっているはずなのに、言葉も思考もうまくまとまらなかった。
「それは、その」
「お前のことを憎からず思っている。たぶん、他の人間よりも、強い好意を抱いているのだと思う」
「それは、恋愛として? 友人として?」
「まだよくわからない。けれど、たぶん、私はお前にこうされることを望んでいるような気がする……不確かなものだが、そう思う」
天にものぼる気持ち、というのはこういうことを言うのだろう。カブルーは浮かれて、熱い肌を冷ますため川に飛び込んでしまいたいほどだった。しかし自分の恋の熱で川を蒸発させてしまうだろうと思うくらい浮かれていた。
恋に落ちると人間はバカになるものなのだ。
それはどの時代でも変わりはしない。不変のものだ。
「お前の体温は」
「はい……」
「あたたかいな」
カブルーはいっとう強く抱き締めた。骨の感触が伝わってくるほど。
カブルーは、自身がミスルンに対して抱いている感情に名のついていることはわかっていた。
この人の欲の生まれるところが見たい。
できるならその欲を自分が満たしたい。
その人の欲望がどんなふうに成長していくのか、そのさまを近くで見いたい。
カブルーは自身を、ある一側面において悪魔に似た性質の存在なのではないかと思う。人への興味の尽きなさ。貪欲さ。
小さい頃はあんなにもモンスターの子どもではないかと悩んだというのに今はこうだ。
この人の近くにいて、芽生えていく新芽のような欲にそっと触れさせてほしい。
大切にするから。決して、傷つけたりなどしないから。だから見つめさせてほしい。赦しがほしい。
「あなたは冷たいですね。ワインも飲んでいたのに」
「お前がマッサージをしてくれた時は、あたたまった。よく眠れた」
「またしますよ。手も足も、体も……」
「いきなり体とは。体目当てか?」
「まさか! エルフの尺度での長く、は待てないかもしれませんがそれなりに待てはします。俺はまだ、あなたのことを少ししか知らない。欲の生まれるあなたを見ていたい。もっとあなたのことが知りたい。どんなものが好きなのか、どんなことが嫌いなのかも」
「私も、お前を知ろう。思えば、私はお前のことをさして知らない」
「ええ、お互いを知っていきましょう。心の奥深くにあるものは隠してもいい。もし話したくなったら話せばいい」
「いつか」
ミスルンはカブルーの胸の中で頭を上げた。
上目遣いの目は少し潤んでいて、星が黒の瞳に反射してまたたくたび輝いていた。
「お前の傷も、私にくれ」
「……はい」
誰かに傷を託すことなど、考えたこともなかった。それほど深い関係になった人物はいなかった。養母にも言えなかった。
地獄はいつも自分の中にあって、それを口にするときは、喉が炎に焼かれるように感じたから。
でも今は、託してもいいと思う。
浅い傷を人に話すことは話法の一種だ。
共感性をうみ相手の緊張を緩める。
だが真に深く傷ついた心の奥を他人に見せるのは恐ろしい。さらに深く傷つくかもしれないから。その醜さに信頼が揺らぐかもしれないから。残酷さに目を背けられるかもしれないから。
けれど少しずつ、砕いたビスケットのかけらを差し出すように話していきたいと思う。
ミスルンの心を見守り、自身の心の深い部分を晒す。それは困難でありながら興奮することのように思えた。
ミスルンの黒い瞳を見つめた。
彼も、自分を思っていてくれているように思った。それは恋する男の盲目さかもしれないし、思い込みかもしれない。けれどそれでもよかった。
「口づけを、しても?」
「かまわない」
食事の後だからかいくぶんか潤っているが、まだかさついたミスルンのくちびるにそっとカブルーは唇を重ねた。
触れるだけで、心が高揚して心臓の鼓動がはやくなる。まるで初恋が実ったうぶで無垢な田舎の少年のようだ。
「こうされるのも、嫌ではない」
ミスルンはぽつりとつぶやいた。
いつの間にかミスルンの冷たい手はカブルーの熱が移ってあたたかくなっていた。
「あなたにもっと、近づきたい……」
「かまわない。身を任せてもいい」
ミスルンの機能する方の目が、雄弁にこの身を捧げてもいいと言う気持ちをあらわしている。カブルーにはそう見えた。献身とは程遠い人のようだが、その実胸には熱がこもっているのかもしれなかった。
「あなたが、好きです」
「うん」
「あなたが……幸福にすごせるように、不自由なく生活できるように、怪我なく生きていけるように……何もかもを願います。できるなら近くで、これから生まれる願いを守らせてほしい。見つめさせてほしい。できるだけ、長い時間」
「うん」
ミスルンは空いた方の手でカブルーの背を自ら抱き締めた。ぐっと、二人の距離が近まるほどの強さだった。
今まさに誕生した恋人は、結ばれたこの時から長い時を歩むことになる。
この一片が、物語のはじまりである。