彼女の顔貌 ごく小さな劇団だった。
出し物は退屈で、さして好みではなかった。
兄が帰り道に主演の娘がカワイイと何気なく言ったから。それだけで彼女は私にとって奪取したいものになった。
恋の熱量ではなかった。嫉妬の炎だった。
私は彼女個人に興味などなく、彼女個人を知ろうと思ったことはなかった。私はそういう人間だった。
「演劇の公演が来るそうです」
「うん」
「一緒に行ってみませんか。王付き権限でチケットが手に入りそうなんです」
「次代宰相候補殿は抜け目ないな」
「ヤアドがいる限り俺にお鉢は回ってきませんよ。そのうえ彼は明日にも消えるかも……などと言っていながら全く消える気配などないのですから」
「あの宰相はあと千年生きそうだ」
「俺もそう思います。で、件の劇団ですがエルフの一座だそうです。チラシを貰ってきました」
劇団の名を見て、女の顔が浮かんだ。
彼女が所属していた劇団だった。
最後に見たのは自分が作った下半身が蛇のキメラ化した姿だ。ラミア。男を誘い破滅を呼ぶモンスター。
私の命令に従い、私を愛し、見えない兄に当てつけて口づけをさせた女。
本当はただの一劇団の女優にしかすぎない。
思いはもうすっかり失せていた。欲のなくなったのもあるが、ミスルンにとって悔恨は己の中から湧くもので、彼女に対する思いは燃えさしのろうそくほどもなかった。
元々兄に対抗して得ようとしただけの女だったのだから熱を上げるのも冷めるのも一瞬のことだったのだ。
ミスルンは何もかもを見下しながら愚かだった。賢人は自らを賢人とは驕らない。
「行く」
「ああ良かった。実はとっておきのチケットをもう取ってあるんです」
「用意の早いことだ」
劇は急ごしらえの小屋のような場所で行われていた。そう人数の入るものではないが、メリニでは演劇は珍しいのもあって立ち見の客も多く盛況だった。
カブルーと連れ立ってVIP用の席に着くと、まもなく公演が始まった。
西方エルフの貴族同士がお忍びで出向いた労働階級の街で恋に落ちる物語だ。出会った際にはお互いを労働階級と思っていて報われぬ恋だと思い込んでいる。わかりやすい喜劇で、最後は大団円のよくある話だ。ミスルンは昔からこの手の話に興味がなかった。
ただ講評やおべっかだけはうまかったから、人には好かれた。それだけだ。
彼女は、今はもう看板女優ではなかった。
年若いエルフにその役を譲り、今は看板女優の母親役に扮していた。
若い頃の自分が兄から奪い取りたかった女性は四〇年以上の時を経て、自分と同じく年をとっていた。
演劇自体は可もなく不可もなく、演技も優れてはおらずやはりありきたりなエルフの作った自己陶酔の激しい物語の域を出なかった。
自分たちが一番優れている。自分たちが人々を管理している。自分たちは世界の上位種である。
ミスルンはそんな価値観に囲まれて育ってきた。物語にも『人間』はエルフしか存在しない。
トールマンには退屈だろうと思った。
「お前はあれを愉快に思ったか」
「娯楽としては及第点でしょう。トールマンにもわかりやすい恋愛話でしたし」
「看板女優の母親役の女がいたろう」
「ええ、いましたね。化粧をしていてもまだ180歳くらいに見えましたが」
「あの女優がそうだ」
「ああ……迷宮の」
カブルーは察しのいい男だ。一言で伝わる。
それにあぐらをかいている自覚はあるが、カブルーという男の胸に抱かれているとすべてが赦される気分になる。私の男は私に甘い。
「なにか、感じることはありましたか」
「不思議なことに、なにもなかった。迷宮の中で同じ顔の女と日々を共にしていたというのに。私には元から彼女への欲求などなかったかのようだった」
「恋というのは熱病のようなものです。ひとときをすぎれば病は治まり、熱の冷めた後はとても冷たい」
「恋などではなかった。お前もわかっているだろう」
「名がついていたほうが都合の良いこともあります。離別も懐古も、名のつかない感情を考えたり思い出すのは難しいものです」
「迷宮での生活はおもちゃ箱をひっくり返して、人形劇をしていたようなものだった。くるみ割り人形が踊りビスクドールが歌い藁人形が演じ、泥人形が指揮を執る。児戯だった」
「あなたはそういうけれど……。俺、本当は少し不安だったんですよ。あなたがチラシを見た時に顔色が変わったから。あなたにその気がなくとも、彼女の方が近づいてくるかもしれないでしょう。その時に、嫉妬を表に出すことがないようにしないと、と……」
「お前一筋だ」
「あはは! それは安心ですね」
「彼女は変わり果てた私には気づきもしないようだった。むしろお前に熱い視線をおくっているように見えたが?」
「新興国の後押しが欲しいだけでしょう。若くて籠絡しやすいと思われているだけです」
「若くて籠絡しやすいのではないか。こんな中年の男に落ちているのだから」
「あなたは例外です。むしろあなたが好みなら彼女には落ちないでしょう」
「私はいつお前が去るか時折考える。子を成したくなるかもしれない。年若い女に惹かれるかもそれない。恋とは、そういうものなのだろう」
ミスルンは下を向いて歩いた。途中小石を蹴飛ばした。こうして自身の男を困らせる行為を最近のミスルンはよくする。面倒に思われていつか捨てられてもしょうがないと思う。
だがその時は暴れ回ってひどくカブルーを傷つける予感がする。そういう矛盾した心が最近のミスルンには存在している。
「あなたは俺を試したい欲が生まれているみたいですね。実に喜ばしいことです」
横を見ずとも、カブルーはにこやかに笑ってるのだろうという声をしていた。
爽やかでいかにも好青年然とした声だ。
「あなたこそ、国に帰るなんて言い出したら俺が恋によって戦争だって起こしてしまうかもしれないのをわかっていないんじゃないですか? ねえ? どれだけ俺が嫉妬深くて執念深いか、本当のところをわかっていないのでは?」
「……子供扱いに怒っているのか」
「いいえ? そんなに子どもではありませんよ?」
「お前からの感情を疑っているわけではない。私はお前を愛しているし、時をともにしたいと思っている」
「……俺だってそうです」
「ままごとのような感情と一緒にする気はない」
「そうですか」
「迷宮の主であったことはこの先も私を苛むだろう。共にいた女のことも忘れることはないだろう」
「はい」
「だが喜びの間際に思い出すのはお前でありたいと思う。苦しみの最中、お前の顔を思い出して和らげたいと思う」
ミスルンは顔を上げてカブルーを見た。
見上げると視線があった。頭半分高さの違う男は少し困った顔をしていた。
「子どものようなことを言いましたね。ごめんなさい。あなたからの愛を疑うつもりはないんです」
「自分で言うのもなんだが、私はなかなか面倒な男だ。この先お前を困らせて喜ぶことを欲するかもしれない」
「それはとても楽しみだ。あなたの我儘は心地いい」
「面倒な男だ」
「そうですよ。知らなかったんですか?」
「知っている」
ミスルンを見つめる男の瞳は空と同じ色をしていた。ミスルンはこれからずっと空をみるたびにこの男を思いだす。