死者は目覚めない「長くはもちませんよ」
静かな声だった。冷静な男だから、自分の状況をよく理解したうえで、ミスルンに冷酷に告げることが正しいと感じたのだろう。
「もたせる」
「もう、蘇生はできないんです。ましてダンジョン外でなど」
「わかっている……わかっている!」
ミスルンは自身の腿を拳で強く叩きつけた。
「落ち着いて。……今こうして会話ができるのもいつまでかわからない。その前に、あなたと別れをすませたい。折角得た時間なのですから」
ミスルンは、死した自分の男を、禁じられた術で蘇らせた。ほうぼう手を尽くしたが、術は不完全だった。現に少し腐りかけている。
だってカブルーはまだ37で、ちょっとした国の小競り合いに巻き込まれてしまっただけだったのだ。それでどうして死ななければならない。
なぜ。腕の立つ男なのに。投擲された石で潰されてしまうなんて、運が悪いにもほどがある。
「なぜ死んでしまったんだ」
「人の死は、その人物自身に操れるものではありません。俺もこんなことで死ぬとは思ってもみませんでしたが」
「こんなことで、あんな場所で、死ぬなんて、お前はばかだ」
「返す言葉もありません」
不完全な術だ。時間のないことはわかっていた。元々、長くもつとも思っていなかった。けれどもう一度会いたかった。
「最後に、せめて、食事を……。羊肉のシチューだ」
行きつけの居酒屋の店主に無理を言って鍋いっぱいに作らせた。カブルーの母の記憶とは違うだろうが、このトマトをたっぷりと使ったシチューはカブルーの好物だった。
思い出の詰まったものだった。
「ありがとうございます」
カブルーは無理に作った笑顔でシチューに口をつけたが、隠しきれない苦痛に顔が歪んでいた。ミスルンはそこで死者は食事をするのに苦痛が伴うのだと知った。
「痛むのか」
「食事は、難しいようです」
「蘇って、食事もとらずに、どうやって体を維持する」
「……もちません。ミスルンさんだってわかっているでしょう。この体だって、腐肉を漁る蛆がたかり、蝿がうるさく飛び回っている」
墓荒らしをして手に入れた死体だ。死からもうしばらくが経っていた。
「私は気にしない」
「俺は気にしますよ。うるさくってしょうがありません。自身の身体が発生源だからどうしようもありませんし」
「風呂にでも入ったらどうだ」
「どうでしょうね。今風呂に入ったら俺自身が湯に溶けてシチューのようになってしまうかもしれません」
おもしろくないジョークだった。
くすりとも笑えない。
シチューがたべられないことがわかると二人は食事を断念した。
冷えたシチューは表面に脂が固まったまま、台所に置かれ、そのまま傷むにまかされることとなった。
ミスルンは口をつけなかった。
最後の食事は叶わなかった。
カブルーはその体のまま、3日ほどすごした。
日に日に体は崩れていき、もう骨が露出して見えるほど肉は剥がれていた。
腐肉にたかる虫はいよいよ多くなり鼻も取れてしまった。色男の影はない。けれど間違いなくカブルーだった。頭に触れると艶のあった巻き毛がぱさぱさになっているのがわかり、撫でればごっそりと抜ける。
それでもミスルンは膿だか腐液だかで汚れるのも構わず抱擁を強請り、口づけを求めた。
カブルーはそれを嫌がったが、ミスルンはひどく強情だった。ミスルンはしたがったか、性行為などできようはずもなかった。なにせ血が通っていないのだ。
「愛しています」
「愛している……あいして、……」
カブルーは骨の見える腕でミスルンをぐっと抱きしめた。
カブルーはミスルンの深い愛情を感じていた。
禁忌を犯すことなどもう二度とないと思っていたから。けれどそれを破らせた。自分はそれほどの男だったのだと思った。ひそやかな悦びを得たが、それは悪いものだとわかっていた。
恋人を文字通り骨が軋むほど抱いた。
ミスルンもまた死者となった男の愛にあらためて愛おしさを感じていた。
死してなおカブルーの魂は輝いていた。内部組織の崩壊に伴い発音がうまくできなくなってもカブルーの言葉はミスルンに届いた。
「俺は、もう駄目です」
いよいよだった。
「行くな」
カブルーには己の第二の死期がまさにいまだとわかっていた。
「幸せに。俺のいない世界を、これからも少しは寂しがってくれたら、嬉しい……ははっ、駄目ですね、俺……さいごまで全然、未練たらしい。幸せに……と言えたならよかったのに……」
「さみしい。お前がいないとだめだ。だからゴーストにでもなんでもなってくれ、いかないでくれ」
「あなたは大丈夫です。人は元来、一人なのだから……けれどこんなに愛されて悪い気はしません。どうかこのことは墓場までもっていって。誰にも話さないで。それだけ約束してください」
「わかった、わかった、わかったから」
もうカブルーは語る口をもたなかった。文字通り、口が、発声するための器官が崩壊していたから。
「カブルー」
崩れる。
「カブルー、いかないでくれ」
崩れる。崩れる。崩れる。崩れる。
「カブルー…………、うっ、ぁ……ひ、ぐっぅ……」
ミスルンは絨毯を掻きむしって嗚咽を漏らした。そこに慰めはなにもなかった。
「ふっぅ、ぁあぁぁぁああ! いっぅっうゎぁあああぁぁああ!」
カブルーだったものは元の寿命をのばした反動か肉ではなく醜く汚らしい汚物へと変化していた。
肉片とも呼べないへどろのような汚泥は、ひどい悪臭がした。しかしミスルンはそれに抱きついてまだ温かさの残る汚物に頬ずりをした。
腐った肉が放つ何倍もの臭気があったが、悲しみは五感を喪失させた。
「あっぁっ、かぶ、かぶるー、ぐっうぅ、かぶるー!ふぅっうぐぅ、うっぐっ、ぐすっ、ぐ、ぅっぁっう、うぅ……!」
汚物は泣きわめく恋人に何も語らなかった。当然のことだった。
死者は蘇らない。世界の法則は無限の世界でもない限り不可逆。時を遡ることもできない。死者は目を覚まさない。歩かない。食事をしない。言葉を交わさない。何もかもが当然のことだった。
「ぁあっぁ、うっううつっ、かぶ、ぅっかぶぅっ……!」
ミスルンはそのまま汚泥にまみれて顔中を汚物に塗れさせて、泣き続けた。
人の本質など変わることはないのだ。
悪魔に願った自分と愛しい男を一時でも蘇らせた自分に一体なんの違いがあるというのか。
汚泥はただ異臭を放ち、ミスルンの泣き声と嘆きだけが屋敷へ響いた。
忘れられないに決まっている。
肉体を完全に失ったカブルーは、もう二度とミスルンと対話をすることはない。
死者は二度と目覚めない。
汚泥を抱いたまま、泣きつかれてミスルンは眠った。泥のように深い眠りだった。
長く眠れば、ミスルンは目を覚ますだろう。
彼は、生者だから。