彼は大変健全なので 赤い弓兵がレイシフト先で呪いを受けた。
対魔力に不安のある男が、一体どれほど悪質な呪いをもらったかと思えば "涙が止まらない" とかで、幸い致命的な霊基損壊に至るものではないらしい。キャスタークラスの招集もなく、つまりは様子見と相成ったというから、いささか拍子抜け感があったことは否めない。
だが、ランサーが人伝にそんな話を聞いた日の夜、解呪のための魔力が欲しいと当の本人が部屋を訪ねてきた。
「何日かすりゃ抜けると聞いたが?」
大判のタオルに涙を吸わせつつベッドに上がるアーチャーを横目に、ランサーはサイドチェストを探ってローションのボトルを取り出す。パチン、と胸の留具を外すのを契機に上衣を魔力に還した。
「ああ、だがこれでは何も手につかん」
ぐす、と鼻をすする音に改めてアーチャーの顔を見遣れば、なるほど後から後から涙が頬を流れ落ち途切れることがない。涙管で繋がる鼻からも水分が漏れ出しているようで、時折盛大に鼻をかんでいる。ああ、クソっ、と忌々しげに悪態をつきながら、タオルと一緒に持参したティッシュの箱に手を延ばす様子は、いつかの極東で目にした花粉症なる病の罹患者を彷彿とさせた。
確かにこの状態では、厨房の取り回しはおろか、他のどんな仕事も満足にはこなせまい。戦闘に至っては論外。眼を潰された弓兵を足手まといと判断するのは理にかなっている。
呪いを含む魔力が抜けさえすれば、霊基の異常は解消すると聞いていた。つまり何日かかけて、涙(と鼻水)として徐々に排出されるのを待てば良いわけだが、残念ながらそれを甘んじて受け入れられるアーチャーではないのだった。他に手立ては無いのかと食い下がる男に、管制室の連中はいかにも雑な助言を授けたらしい。即ち、高濃度の魔力を大量に、かつ一気に摂取して押し出せ、と。
深読みするまでもなく、クー・フーリンの存在を意識した発言である。言い渡された瞬間のアーチャーの心情を思えば、無闇に刺々しい気配にも合点がいく。
「あー…、一応聞くがよ」
ランサーの背後で、アーチャーが惜しげもなく追加のタオルを投影してはベッドに敷いている。間もなく潤沢な魔力を得られると信じてのことだろうが、正直なところ、あまり当てにされても困ってしまう。
現状は、「涙が止まらない」とだけ聞いてランサーが想像していた事態よりも深刻だ。
「なんだ」
「杖のところには」
「もう行った」
視線を寄越しもせずに返され、だよなぁ、とため息をつく。
呪いといえば魔術師である。解呪のために魔力が必要ならば、真っ先に魔術師の工房を訪うのは自然な成り行きだろう。貯蔵媒体に心当たりがあるなら尚更。
「先の大規模な作戦の影響で、君のところの石も底をついているそうでな」
「おう、そんで?」
「……今は、私に回すほど余裕もないと」
「そうきたかー」
備蓄のルーンストーンがないならないで、別の──いつもの方法でも、と提案したところ、それも難しいと断られたという。
(逃げやがったな)
後々拗れるのは明らかだが、断りかたにも頓着していられないほど気が進まなかったのだろうか。いや、わからなくもないのだが。
ランサーだって、今からでもどうにか宥めすかして、別の──いつもの、ではない、心理的ダメージの小さい方法に誘導できないかと思案を巡らせはじめている。だというのに。
「君の方なら何とかなると言うから」
「おう……」
なんと、断りかたどころか申し送りのしかたまで雑だった。明日の自分に期待、ならぬ、もう一人の自分に期待、である。
アーチャーの様子からして、内心の動揺やショックなど微塵も気取らせなかったのであろう自身の顔を思い浮かべげんなりする。我がことながら、面の皮が厚い。
ここでランサーが断れば、間違いなくいっそう面倒な方向に拗れるというありがたくない確信があった。最早大人しく応じるしかない、とひっそり覚悟を決める。据え膳には違いないのだから、なんだかんだどうにかなるはず。たぶん、きっと。未来の自分に期待、するしかない。
「ランサー、」
鼻声に呼ばれ、顔をあげる。ベッドを整え終わった器用な手が、ランサーの頬からうなじまでをとらえた。膝立ちでいざり寄ったアーチャーが、天井の照明を遮って覆いかぶさってくる。
涙に濡れ、冷えた唇が押し付けられる。やんわりと食まれ、同じように食み返す。どちらともなく舌を差し出し、互いの内側の粘膜を探りあう。
「は、ふ、ぅ…、らん、さ」
鼻水のせいで息苦しいのか、早々にアーチャーの口がぱかりとあいた。は、は、と喉奥で不器用に呼吸を繋いでいる。
腰を抱いてやれば全身が喜ぶように震え、きゅうと閉じたまぶたから新たな雫が降ってランサーの頬で弾ける。若い果実じみた瑞々しい香りが鼻腔をくすぐる。
「んぅ、っ」
ちゅう、と甘い塩気まじりの舌を吸う。ランサーのうなじに置かれた指が引き攣り、皮膚に小さな痛みが走った。
アーチャーがもどかしげに背をくねらせる。すでに窮屈そうな下肢をランサーの股座に寄せようとするのを、それとなく躱して体制を入れ替える。
背中からシーツに沈んだアーチャーが、期待に満ちて湿った息をついた。見上げてくる瞳には滾々と涙が湧き、無垢な鏡面を揺らしている。感情が伴うものではないと知っているが、それだけに頼りない印象が際立つような気がしてならない。
「ラン、ん、ん」
何に勘づいたのか、アーチャーが訝しげに呼ぼうとするのを遮って口付ける。今は顔を見たくない。見られるのも避けたかった。
アーチャーの手がうなじにかかる。短く刈られた髪をもてあそぶのを好きにさせ、唇と舌を擦り合わせるだけのキスに終始する。感じやすい口蓋や舌下を舐めてやりたいが、鼻呼吸のできない今は苦しかろう。
霊衣の脇腹をつつくと、そこからさらさらと素肌がのぞいた。半ばほどまで育ったアーチャーの陰茎も解放されるが、すぐには触れない。しっとりと吸い付くような肌を確かめ、下腹を撫でる。手のひらの下で、鍛えられた腹筋がきゅうと凹んだ。へそに指を掛けくにゅくにゅと擽れば、波打つように収縮を繰り返す。
アーチャーが膝を浮かせ、腰をよじる。快感を逃がしたいのか、あるいはもっと直接的な刺激をねだっているのか。
閨の相手を悦ばせるのは、クー・フーリンにとって愉しみであり、矜持でもある。深く考えずとも、どこをどう触ればどんな反応が返るかを観察しては記憶に刻んでいるし、それらを再現する手管が淀むこともない。目の前の体が素直に乱れるならば尚更、積み上げた夜の数と時間を思って高揚するばかりだ。
つまりこのとき、ランサーはほんの数分前まで確かに気を配っていたはずの自身の状態を、すっかり忘れ去ってしまっていた。
「ランサー、君も……」
「あ」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、アーチャーがランサーの肩に置いていた手を離す。彼の意図に気づいて止めようとするが、一歩遅い。
苦しいだろう、可哀想に。掴んだ手首が器用にもくるりと返り、未だ霊衣に押し込められたままのランサーのペニスを指の背であやそうとし、
「……え?」
「んんー、だめかー」
「は?…………は?」
アーチャーの潤む瞳が大きく見開かれ、ランサーの股間と、顔と、自身の指先とを行き来する。振り落としても振り落としてもすぐにまた溜まる涙が、羽毛のようなまつげをびっしょりと濡らしているのがいとけない。
アーチャーが肘をついて体を起こし、改めてランサーの股座を凝視した。
「なん……、なんで……」
そこは、悲しいほどに静かだった。
日頃の猛々しさは見る影もなく、まるで悟りを開いた僧侶のように、しんと凪いだ気配を漂わせている。
なんで。疑問疑念はごもっとも。ランサー自慢の立派な槍は、いつもだったらこの時点で準備万端だ。大事な情人からのお誘いとなればなおのこと、コトの最初から臨戦態勢である。そう、いつもだったら。
「いててて、いてぇ、いてぇって」
勢いよくランサーをベッドにひっくり返したアーチャーが、止める間もなく青の霊衣に諸手を突っ込む。ぎゅうぎゅう、ぐいぐい、と乱暴に引っぱり出された可愛い息子は、それはもう哀れなほどに、無反応だった。
「なんで……」
ボロボロとひっきりなしにこぼれ落ちる涙の雫を拭うこともせず、呆然とアーチャーが同じことをつぶやく。
途方に暮れたようなその顔を見れば、ますますランサーは冷静になるばかりなのだが、アーチャー本人は理由になど一切思い至らないらしい。
「なんでっておまえ、」
そんなに泣かれてはその気になれない、と。
ここに至ってはっきりと告げれば、アーチャーは濡れた瞳を見開き、いっそう絶望したように顔を歪ませた。俯き、きゅうと唇を噛み、そうして、
「あっ、おいっ」
ぱくり、と。柔らかいままのペニスをまるごと口に含まれ、息を詰める。
元来、繊細な部位である。熱い粘膜に包まれれば快感を得はするものの、くすぐったさが先行して集中することができない。反応の鈍いランサーに、アーチャーが必死に手と口とを使って奉仕する。
「ふ、んぁ……疲れて、いるのかね…私が、手伝ってやろう」
呼吸が覚束ないのだろう、咥えられている時間は長くはない。精一杯にのばした舌で裏筋や傘の周囲を舐め、唇で柔く食んでは、ちゅ、ちゅ、と口付ける。
アーチャーの口淫は充分に楽しめるものだ。元来器用な男だし、小憎らしい皮肉とは裏腹に、教えられたことを素直に受け入れる気質でもある。何より同じ性に生まれた者同士、感じるところは大体把握している。
「んぅ、ん、ほら、ぁ、もう少し、頑張りたまえ」
だが、際限なく湧き出す涙に頬を濡らし、はふはふと不器用に息を繋ぐ様を眺めていると、気分が殺がれるのも事実なのである。
「アーチャー、アーチャーさん」
濡れそぼつ頬を両手でくるむ。意地になって抵抗するのを、何度も呼んでは宥め、顔をあげさせた。
「うぅぅ〜〜〜、クソっ、なぜだっ! いつも私が泣こうが喚こうが、お構いなしに、さっ、盛るくせに……っ!」
「人を鬼畜生みたいに言うなよなぁ〜」
器の生理に引き摺られるのか、アーチャーが悲しげにしゃくり上げはじめる。一方のランサーの息子はといえば、いよいよ萎れて奮い起つ気配もない。
頭のてっぺんまでを快楽に浸し、あまやかし、さんざん鳴かせた末に混じる涙と、深刻な顔でさめざめと落とす涙ではわけが違う。クー・フーリンに戦いの喜びをもたらす男を、それ以外のすべてをも明け渡すまで蕩かすことに興奮するのだ。なんの手も出さぬうちから、ただ無抵抗に差し出される供物をいたぶる趣味はない。
「君に、そんな繊細さは期待していない」
「へぇへぇ、そうかよ」
往生際悪く、憎たらしいセリフを捏ね回す男に腕を回す。溢れる涙を吸ってやりながら横になるよう促すと、存外大人しく懐におさまった。他のアテを探しに行く、などと言い出さないだけの分別があるらしいのはなによりだ。
ぴたりと素肌を添わせると、そこから互いの体温が混じりあった。魔力が弓兵に向かって流れるよう意識して調整する。呪いを一掃するほどの供給速度は望めないが、いくらかの足しにはなるだろう。
「今日はもう寝ちまえ。こうしてればほっとくよりは早い」
「何もしないよりマシ、か」
「そういうこった」
諦めたようなため息の後、まもなく穏やかな寝息が聞こえ始めた。切り替えたらしいアーチャーが意識を落としたのだと知れる。
閉じたまぶたからは相変わらず涙が流れ落ち、絶えることがない。手近なタオルを適当にたたみ、赤く腫れた目元にそっとあてがった。少しずつ布地の位置を変え、全体が冷たく湿ったところで別のタオルを手に取る。合間に唇を寄せてぬるい雫を吸い、舌を刺す塩気の不思議な甘さを味わい、またタオルを替え。そんなことを繰り返して、ランサーは夜が明けるまでの時間を眠らずに過ごした。