「退け!!!退け!」
怒号はしかし、戦場にあっては音の一つにしかならない。軍主を囲むように団子になっていては、尚のこと。
この軍に協力し始めたのはつい数ヶ月前。それでもわかる、この状況は良くない。血の気を失い、両目を固く閉じて意識がない軍主もまずい。士気は下がるうえに、そもそも未来(さき)が見えなくなる。
背後の気配たちはなんとか軍主だけでも前線から退避させようと必死だが、防戦一本になっているこちら側に、状況を好転させる手札が無いことは明白だった。
けれど、とシーナはかぶりを振る。「親衛隊」に組み込まれているからには、ここは死守しなければいけない最後の一線。「敵」に食い破られるわけにはいかない。魔力は尽きかけているが、体力は、まだ。
「兵力差は、イイワケには使えねぇよな」
眼前に迫る重装備の騎兵に内心で舌打ちをしたい気分のシーナは、大振りで横凪に迫ったロングソードの一撃目を弾き、痺れが抜け切る前に音が鳴るほどに奥歯を食いしばったまま、二撃目の頭上に打ち下ろされた刃をなんとか受け止める。
馬上から打ち下ろされた攻める一撃と、多少ぬかるむ地面を足場にした防御とでは、比較せずともあからさまにこちらが不利だった。
鍔迫り合いで散る火花と不快な金属音を、痺れ始めた両腕に力を込め続ける気力に換えて、こちらに駆け寄ろうとした背後の気配たちに声を張る。
「構うな!!!優先すべきは俺じゃない、退け!!」
「シーナも最優先だよ」
戦場で、ここまで凪いだ声を聞いた試しがない。高くもなく低くもなく、力のある声は、シーナのすぐ横から聞こえた。
よく知った声に安堵するよりも先に、魔力の黒い影があたりで乱戦になっている敵兵を舐める様にして撫でた後、次々にぐらりと体を傾いだかとおもえばそのまま地に臥していく。
状況を理解して拍子抜けしたシーナは、自分より頭一つぶん下にいた気配に驚き声を上げた。
「なんで居るんだよ!?ティル!」
「なんでって……ひどいな、助けに来たのに」
「お前、ここにいちゃ駄目だろどう考えても!!シュウにも念押しされてただろーが!」
真の紋章のちからは身内にあっては心強いが、敵にしたくはないと屍累々の周囲を見、改めて感じてしまう。これを狙う輩は何もハルモニアのみではないし、それは同盟軍であり、身内のトラン共和国でもある。少なくとも、戦場で見せるべきではないのだとティル本人も理解しているだろうに。
シーナは、ティルが戦況を読んで仕方なく出てきたのだろうということを察しつつも、声を荒げずには居れなかった。
「くたばりぞこないが、何か吠えてるね。自分の不甲斐なさを悔い改めて謝罪する謙虚さくらいは、持っておいたほうがいいんじゃないの?」
もう一つの声に振り向けば、心底面倒臭そうな表情を隠しもしない風使い。これには相手に倣ってシーナも顰めっ面を返してやる。
「うるせぇ!ご助力ついでにリオウの治療と撤退を主導していただけませんかね魔法兵団長殿!」
「ルック、僕が止血までは癒した。城まで一気に運んだほうがいい」
キリンジを鞘に収めながら、鼻息荒くルックに詰め寄ったシーナの背後から、ティルの声がおいかけてきた。
いつの間にか2人から離れて左手を掲げていたティルは、兵士たちが心配そうに覗き込む円陣の中央でリオウに治癒魔法をかけながら、その首に巻かれていたトレードマークになっている黄色いスカーフを解き、引き抜いた。泥と血に塗れて色味が変わってしまっているものの、それを気にするそぶりもなく手早く自分の首に巻き直し、頭のバンダナを解いてリオウの体を固定するように巻いていく。
ティルの行動で意図を察したシーナとルックは視線を交わし、ほぼ同時に溜息を吐き出した。
「いやいやいや、おまえがリオウの身代わりとか……!シュウにバレたら後で怒髪天モノだろ」
「それ以前に、失血しすぎて意識消失してる人間は転移魔法で運べないよ。魔力負荷で死ぬから」
感情の籠らない声で釘を刺してきたルックの言に、シーナの顔がやや引き攣る。
「お前、ルック……言い方」
「実体験を基にした事実だ。星主の命はここに集う星々の中心、天頂でもある。迂闊な行動はとれない」
青い顔をさらに青くしている兵士たちを無視してさらに言葉を続けたルックに、シーナは掴みかかる勢いで顔を近づけると、怒りを抑え込み声を押し殺しながら「もういい」とだけ呟いた。その様子に半眼になったルックは、口を噤む。
周囲を警戒しながら黙ってやりとりを聞いていたティルは、兵たちの顔を見た。一様に士気が落ち、敗走することを恥じ、恐れていることが見てとれた。
「戦はまだ終わっていない、気を抜くな。リオウを無事城まで帰還させる。——それには、皆の力が必要だ」
ティルの言葉にはっと顔を上げた面々は、各々の表情を確認するように見回して、息を飲んだ。
「まだ何も決してはいない。生きて還れば、未来(さき)がある。生きるために、さきを得るために戦い抜く意志はあるか」
強い意志に引き摺られるようにして、兵士たち各々の瞳に生還するという目標を得た炎が灯っていく。ひとりひとりと視線を合わせて確認するように見渡したティルは、鼓舞するように笑った。
「しんがりは任せてほしい。大丈夫、ここは通さない。——シーナ、指揮を頼む」
「正気かよ……」
急に水を向けられたシーナはしかし、拒否権がないことを理解してしまい、反論することはできなかった。
「シーナも確実に城へ。君は、この先もトランに必要だよ」
「お前もだ、馬鹿野郎」
「……そうだね」
間髪を入れずに返してきたシーナの台詞に一瞬言葉を詰まらせたティルは、見開いた眼を細めて微笑で返し、眠ったままのリオウの額に自らの額を重ねた。
「無事を祈る。城で会おう」
※※※
「だからって、なんで僕が下馬して奴らに譲らなきゃいけないわけ……?!しかも君のお守りまで。一人で抱え込めないことに、よくも僕を巻き込んでくれたね……!」
「もう少し付き合ってよ」
「そういう問題じゃない!そもそも僕はこの戦を見届ける役目がある。だけど、こういう干渉の仕方はレックナート様の名代である僕がすべきことではないと思うんだけど!?」
語気も荒く、背中合わせの背後へ怒りをぶつけるルックは、ロッドから放った空気の刃が敵兵を確実に切り裂いた事を確認すると、ひとまず警戒を解いた。
ルックの苦言に、普段はバンダナに覆われている今は剥き出しの黒髪を後ろ手に気にしながら、慣れない黄色いスカーフの位置を直したティルは苦笑をこぼした。
この黄色いスカーフは中々優秀で、同盟軍の、おそらくは軍主だろうと勘違いした敵軍がわらわらと群がってくれた。おかげで、シーナ達は今のところ無事に逃げおおせている。
「付き合ってくれてありがとう、ルック」
ぐっ、と言葉に詰まり押し黙ったルックは、もはや何を言ったところで無駄だと諦める。毎度このペースに嵌められてしまえば、結局ティルの意思に従って動く道しか残されていないのだから。
ティルの指示で、馬をシーナたちに譲ったのは少し前のことだ。
兵士の1人に抱えられて馬に乗せられたリオウを中央に、陣形を整えて戦場を一気に駆け抜ける事を選んだシーナと、その指揮下の一団と別行動になったが、そちらは無事である事を願うしかない。
むしろ、シーナたちの退路を確保するために時間稼ぎをするしかない自分たちの命の方が危うい気さえするルックは、ティルを置いて1人テレポートで離脱できればいいものを、それができない諸々に苛立ち、同時に苦々しい想いを抱かずには居れなかった。
「大概にして欲しいね、君の無茶も」
「なにか礼を考えておく。期待していて」
「なにをもらったところで、対価になり得ないよ……こんな重労働」
「ルックだから背中を預けられる。感謝してるよ、いつも」
「あのねぇ……!」
何か言い返してやろう、と振り返ったところで、遥か遠くから轟音が響き、戦場の空気が一変した。両軍が展開する戦場の端で、「それ」は唐突に聳え立った。
「それ」はもうもうも土煙をあげ、黒々とした雲と大地を結ぶ、まるで巨大な柱のようにも見える。
「あれは……旋風の紋章?」
「ちがう——竜巻!」
陣形を薙ぎ払い、逃げ惑う両軍の混乱をものともせず天に突き上げる風の柱は、術者が意図的に発生させたものではないらしい。現に、見境なく両軍の兵士たちを飲み込んでは何処かへ吹き飛ばしている。
「火炎の魔術を無駄に連発している馬鹿がいたのは感じていたけれど」
視線の先、草原が焼けて炎の海になっている一帯がある。草と、他のものが焼ける臭いが漂っている事に今更気づき、竜巻の発生源に合点がいったルックは、術者の浅慮を認識して目をそばめた。
「あの竜巻には魔力の干渉が無い。自然発生したんだ」
全てを巻き込み、轟音と共に敵味方の境無くあらゆるものを飲み込んでいく竜巻の出現に、気付いた者から悲鳴をあげ、銘々に逃げ惑い始めた。
戦場から「敵」と「味方」が消え、ただ目前にある自然の脅威から逃れようとする生き物達が、散り散りになっていく。
「魔法と力場の相関を、考え無かったのか」
語尾に「馬鹿め」とでも付けてきそうなルックの物言いを聞きつつ、ティルは険しい表情でシーナ達が居るであろう方角を睨み、呟いた。
「あれはこちらに向かってきているように見える。この進路と速さ、シーナ達が追いつかれてしまう」
「ちょっと、妙な事を考えているね!やめてよ、死ぬ気?なんでも「それ」でどうにかできると思わない事だ、魂喰いで竜巻に対抗できるわけがないだろう、真正の馬鹿なの?!」
常にはない早口で捲し立てたルックに、珍しいものでも見たというような表情のティルは、「意外だな」と小さく呟いた。
「全力を出してみて、それで駄目ならきっとルックがどうにかしてくれるって信じているのだけど……心配?」
「——っ!もう、いい」
小首を傾げたティルを振り返らず、ロッドを体の正面に構えたルックは、両脚の位置を確かめ、眼前に聳え立つ風の柱を睨み据える。
普段自分が操る「風」という媒介は、その実複雑な気象状況の応用があってこその魔術だという自負はあっても、実際に「それ」を「相手」にしたことはない。いや、なかった。
けれど、目の前に迫る「それ」を止めなければならない状況が、こんな予期せぬ形でいきなりやってきてしまったのだから、どうしようもない。
腹を決めたルックは、自分たちを守る盾になる魔術を、呪文を頼りに編み上げる。
「古い言葉」で紡がれる呪文の内容を、ティルは理解できなかった。けれど、前置きなしに臨戦体制になったルックの意図を、防御の魔術が全身を覆い始めたことで汲み取ることはできた。
再びルックの背中に自分のそれをぴたりと合わせると、2人分の体重を支えるようにやや腰を落とし、瞳を閉じて棍の片側を地面に突き刺す。その姿勢のまま右手の紋章に意識を移して、ルックの魔術を邪魔しないように注意深く自分の魔力を「場」に流し込んだ。
この「ちから」をどう使うかは、ルック任せにするしかない。純粋な「やみ」から魔力だけを引き出せるのは、真の紋章の強みかも知れないな、と内心で独りごちて、限界まで引き出せる「底」を目指した。
「どうなっても知らないからね」
「信じるよ、大丈夫」
「ああ、そう」
言葉とは裏腹に、ティルからは見えない表情で不敵に笑ったルックは、自分の知識と経験から導き出せる最適解を探りつつ、魔術を編み上げた。
馬鹿正直に、竜巻を真正面から迎え撃つ馬鹿なんて存在するの!?(残念ながら、僕の後ろに1人いる——)
残念な解答そのものになっている当事者の温度を背中に感じ、それが必ずしも不快ではないと気付いてしまった自分を思考の彼方へ追いやったルックは、全神経を右手の紋章だけに集中して瞳を閉じた。
「我が真なる風の紋章よ——!!」