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特徴的な足音を耳にして、ルックは俯いていた顔を上げた。視線の先に、しゃなりしゃなりと歩く愛しい人の姿が見えた。彼の導線には背後にある石板がある。ルックの元へ歩みを進めているのは明白だった。
「それはどうしたの」
ただ、名を呼ぶ前にルックがそう問うてしまったのは、彼の腕の中にあるものがあまりにも意外なものだったからだ。
フィリアーデ・マクドール。かの戦争で英雄と呼ばれるようになった人。一線から退いているというのに戦争真っ只中の都市同盟の本拠地に滞在しているのは、ここの軍主にその腕を買われたかららしい。
曰く、利害が一致したから参加しているとのこと。
フィリアーデにとっての利。それが何なのか知りながら、ルックは導き出される答えに蓋をしている。
「こんにちは、ルック」
嬉しそうに微笑むフィリアーデが抱えた籠の中には、沢山の果実が入っていた。
「君と食べようと思って持ってきたんだ」
そう言うと、フィリアーデは色づいた果実を一つ摘まみ、舌を出してそれを口に含んで見せた。果物を食すとは思えないその動作と視線に、ルックは急激に熱が篭もるのを感じた。
旧赤月帝国の将軍の嫡男であり生まれ落ちたときから貴族であったフィリアーデは、優雅な所作とは裏腹に自由奔放な生活を送っていた。
誘われれば誰とでも肌を重ね、誘われずとも相手を落としてその身を喰らう。思うがままに行動する彼を猫のようだと言ったのは果たして誰だっただろう。
フィリアーデが歩んできた壮絶な人生と背負ってきた重責を思うと、ルックは軽蔑も同情もできなかった。それどころか、彼に魅せられてしまっている。
──ルックのことが好きだと、フィリアーデは言った。
──君の想いには応えられないと、ルックは言った。
真の紋章を宿したフィリアーデを、不老ではない身はいつか必ず置いていくことになる。そんな己が求めることなど、できるはずがない。
こうして満足できない彼は今も、何処かの誰かと褥を共にしている。
そんな彼がルックの元へ、そういった「お誘い」ではなく果物を持ってやって来たのは、極めて珍しいことだった。
性的な事柄が絡まないフィリアーデは至って好青年だった。街中を歩いているときに大荷物に右往左往する老人を助けた上に、荷台を後ろから押し、老人の家まで送ったという。
食べきれないほどの桜桃は、そのお礼に貰ったものらしかった。
「折角いただいたものを無碍にするのも心が痛むし、これを見たときに君と食べたいと思ったんだ」
立ちっぱなしの往来で手を付けるわけにもいかず、ルックはフィリアーデを連れ自室へと招き入れた。果物に紅茶は合わないだろうと思ったが、手持ち無沙汰になってしまったルックはいつものようにそれを淹れ、差し出した。フィリアーデは嬉しそうに口をつけている。
「これ、君と僕でも食べきれない量だろうに」
「私が、君と食べたかったって言ってるだろう?」
フィリアーデは籠に手を伸ばすと桜桃を一房掴み、口許へと差し出してきた。それに抗うことなく、ルックは口を開ける。
「美味しいよ」
ルックが咀嚼したをの見て、頬杖をついたフィリアーデが微笑んだ。
桜桃は爽やかな酸味とあっさりとした甘みを含んでいた。しかしそれを、美味しさだと認識する機能がルックには無い。
「どう?」
「君がそう言うのなら、この果物は美味しいんだろうね」
「ふふ、ルックはそう言うと思った」
食物に対して拘りも味覚も鈍いルックにとっては、果物はあくまでも水分補給の一種のようなものだった。口の中に広がる感覚と感想をありのままに表現したつもりが、何故かフィリアーデは満足げに笑みを深めている。
「ルックが食に興味が無いことは、私でも知っているよ」
「じゃあ、なんで持ってきたの」
「これなら、楽しめるだろう?」
言うと、フィリアーデはルックの手に残っていた枝を取ると、躊躇いなく口に放り込んだ。口内を蠢かせる彼の表情は常に一定で、ルックを舐めるように見詰めては目を細めた。
「……ほら、こうして遊ぶこともできるんだ」
間もなくフィリアーデの口許から吐き出された桜桃の枝は、先程までの形ではなく緩く結ばれた状態になっていた。舌に乗る枝が唾液に塗れてぬらりと光っている。それだけで頬に熱が篭もりそうになる己に、ルックは太腿に爪を立てた。
「こんな行儀の悪い遊び、貴族がしたら駄目だろう」
「赤月帝国が滅んだ時点で、私はもう貴族ではないよ……それにね──」
枝を取り出し、テーブル越しに身を乗り出してきたフィリアーデの動きに目を奪われる。
彼があまりにも、楽しそうに笑っているから。
「桜桃の枝をこうして結べる人は……キスが上手いんだ」
試してみないか、と耳に吹き込まれるフィリアーデの声色は、既に艶が乗っていた。ルックの背筋に雷が走る。彼を守るために必死に線引きしている境界線を、易々と乗り越えてしまいそうな本能が内部で蠢き始めたのを感じて、ルックは反射的にフィリアーデの肩を掴んで腕を突っ張っていた。
「フィー……駄目だ、やめてくれ」
「何故?私はこんなにもルックが好きなのに」
揺らめくことなく見詰めるフィリアーデの視線は、ルックを貫くようだった。
「それでも、駄目」
僕には君を幸せにすることができないから。
言いたい衝動を喉奥に堪え、ルックはその視線から逃げるように、腕の力を弱めることなく項垂れることしかできなかった。
──フィリアーデにとっての幸せはルックと共にいるだけで齎されるなど、一抹も考えることもなく。