No promised land 建物を出ると途端にうだるような空気が肌を撫でた。容赦ない日差しの照り返しが瞬きを誘い、顔の前に手を翳すとアスファルトの先で陽炎が揺らめいているのが見えた。じっとしていてもシャツとジーンズの内側に汗が滲む。ビルの影を頼って歩道の端を歩き出すと排水溝の集水口から微かに生臭さを含んだ空気がむっと立ち上り、鷹見は僅かに顔を顰めた。風はほとんどなく、烈しい陽の光を受け街路樹は深く沈黙していた。一足先に同じ建物から出たと思しき同年代の少女達の日傘の背から漏れ聞こえるお喋りを、車道を通り過ぎる車の排気音がかき消していく。
目前で点滅し赤に変わった信号に心の中で悪態をついた時、見慣れた顔が交差点の右手からやってくるのに気がつき、鷹見は声を掛けた。
「あれ、田口やん」
ほとんど同時に田口も鷹見に対して小さく片手を上げた。同じく信号を前に立ち止まった田口に、鷹見は疎らな人の間をすり抜けて近づいた。田口はTシャツにパンツというラフな服装で自転車を押していた。かぶったキャップのつばが作り出した影の下、手の甲で額の汗を拭った拍子に、一括りにした髪の房が生白い項でちょこんと揺れる。二人は交差点と反対の端の街路樹の下に入り込んだ。
「珍しいなぁ、この辺で会うの」
「漫画の発売日やってんけど近場になくて……本屋巡りしとったんよ」
「買えたん?」
田口は自転車のかごに入れられた鞄を素早く開け、取り出した本を鷹見に向けて掲げてどことなく満足げに胸を張った。ビニールに包まれたままの派手な表紙には鷹見の初めて見るタイトルが書かれていた。
「めっちゃ面白いんよ。よかったら鷹見も読む?」
田口の三白眼の黒々とした眼が午後の色の濃い影の中でもきらきらと瞬いているのが分かる。
「そのうち機会があったら貸してもらうかもなぁ」
曖昧な返事を気にした様子もなく、田口は本を丁重にしまいなおす。鷹見はふっと頬を緩めて続けた。
「はるばる来た甲斐があってよかったな~。で、自転車がパンクしたと」
「うん……よく分かったなぁ」
ぺしゃんこになった自転車の前輪のタイヤに視線を落とす田口に、まあねえ、と鷹見は答えた。
「鷹見は?」
「俺は夏期講習」
「あ~……おつかれさまやね」
鷹見が肩に掛けた鞄に目を遣って田口は肩を竦めた。伏せられた目は破裂したタイヤを見ている時よりも憂いを含んでいるように見えた。うん、と鷹見は染みついた癖に任せ、何気なさを装った相槌を打った。
信号の色が変わり気の抜けた音が響き始める。立ち止まったまま既に何度目かの繰り返しだった。どちらからともなく促されるように顔を上げた。二人の足元を追ってアスファルトと白線の縞模様に落ちる影が交差点を対岸へと渡った。
「無理に付き合わんでもええよ。暑いし……」
「う~ん、まあ……この後特に用事もないから」
隣から気遣わしげな視線を感じたが鷹見はそれ以上答えなかった。傾いていく日差しから逃げる場所を探しながら、二人は自宅方面に向かって歩みを進めた。途中で田口が「飲み物買ってええ?」と言い出し、手近なコンビニエンスストアに入った。鷹見はペットボトルの水を買い、出入口のガラスの外側に目を眇めながら田口を待った。冷房の効いた店内はいかにも去り難く感じられた。ペットボトルを持つ両の手の平が瞬く間に水滴に濡れる。小さく息を吐いたその時不意に首筋に押し当てられた、それが冷たさであるとも咄嗟に分からない感触に、ひっ、と引き攣った悲鳴と共に弾かれるように鷹見は振り返った。目を白黒させながら背後に立つ田口を見る。今しがた鷹見の首筋を襲撃したアイスの袋を手にした田口は、却って自らも驚いたかのように笑みを凍りつかせ、見開いた目を瞬いていた。
「ご、ごめんな?」
「……」
外気の暑さによらない汗が田口の頬を一筋流れる。鷹見が穴の開く程にじっと目を見つめ返した後、殊更にっこりと笑顔を返すと「そんな驚くと思わなかってん……」と意気消沈した呟きが聞こえてきた。
店を出ると田口はいそいそとアイスの袋を開けた。出てきたチューブ型の容器二つを捻って千切り、片方を鷹見に差し出す。
「もしよかったらやけど、これ半分もらって」
徒歩での道程に付き合わせることを、或いは驚かせたことを気にしているのだろうか。浮かんだ疑問を口にしないまま、鷹見は礼を言って受け取った。封を切って口に咥えるとひんやりと甘いチョコレートとコーヒーの味が舌の上で溶け出す。
「鷹見のあんな顔久しぶりに見たわ」
「あのなぁ……」
斜めに見上げた田口の顔にふっと微かな笑みが浮かんでいるのを見、鷹見は口を噤んだ。アイスの封を開ける指先の向こう、日差しの川を流れる塵のきらめきを見つめるように細められた目は無邪気だった。鷹見は言おうとしていた言葉を忘れ、代わりに「早よせんとアイス落っことすんちゃう」とだけ言った。
川沿いの道に差し掛かった頃には陽はすっかり西の端へと移ろっていた。なだらかなスロープを川縁の遊歩道へと下りる。薄青から朱へと染まった空を流れる雲の底が金色に輝き、川面もまた鏡合せになったかのようだった。幾らか温度の下がった風が水面をさざ波立て、鷹見の髪を撫で、斜面の草むらを揺らしていった。それでも一日の最期の陽の光は苛烈に網膜と頬を灼く。
鷹見はシャツの襟元を二、三度引っ張って空気を入れた。犬の散歩中の夫婦が向かいからやってきて二人の横を通り過ぎていった。その話し声が遠ざかってから、あのさぁ、と鷹見は切り出した。
「進路希望調査ってあったやん。田口は何て書いた?」
田口は暫く黙り込んだ。カラカラと乾いた音を立てて自転車の車輪が回る。鷹見は笑わんと思うから言うけど、と前置きをして田口は続けた。
「第一希望は音楽系の専門。……で、第二希望が――大の社会学部。どっちも東京の方やね」
「ええんちゃう」
東京、と鷹見は口の中だけでその単語を繰り返した。声には出せず、かといって飲み込むことは難しかった。
「進路希望調査も夏期講習も、まだ一学期終わったとこなのに気が早いよな」はぁ、と嘆息する田口に、
「ほんまやね~」努めて軽い調子で返す。鷹見は? と聞き返してこないことが好ましかった。
橋脚の作り出す暗がりに差し掛かる。散乱する瞼の裏に残ったままの赤い光に鷹見は目を瞬いた。どこか遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえ、踏切の警報音がそれを塗り潰していく。冷えた影の中で疲労が足に重くのしかかるのを感じて立ち止まる。電車が行き過ぎて警報音が止む。
「ほんとは、鷹見と一緒にベース弾いてたいなぁ、くらいしか考えてないのになぁ」田口がぽつりと呟くのが聞こえた。
田口は鷹見の少し後ろで足を止めて川面を眺めていた。残照が横顔を朱に染め、頬に落ちかかる帽子のつばの影はいよいよ濃い。その姿は陽のきらめきと一つに溶け込んでいるかのように見える。
鷹見は目を眇めて唇を噛んだ。そして無造作に手を伸ばし、田口の手首を掴んで引き寄せた。倒れそうになった自転車を不格好に押し留めながら唇を合わせる。瞬きの気配がした。唇を舐めると温んだチョコレートとコーヒーの甘さがじわりと舌先に触れた。
短いくちづけを終えて身体を離す。コンクリートの蒼褪めた暗がりにあって田口は黙って鷹見を見つめていた。
「田口からはキスしてくれないんやね」
「彩目にしてもらったらええよ」
奪わなければ与えられることのないものを鷹見はじっと見つめる。長い前髪の落とす翳りの下で眼差しは鋭さを帯びる。やがてその視線の先に水のように静かな微笑みが湛えられ、
「代わりに隣でベース弾いたるから」田口が言った。
「……さっき、まるで叶わんみたいに言ってたやん」
絞り出した声はまるで子供が駄々をこねるような調子だった。田口は困ったように眉を寄せて笑った。
「帰ろ」
そうして二人は暗がりの中を歩いていった。空に雨の徴はなくまだ冷える様子のない夕暮れが橋脚の向こう側に広がる全てを染め上げ照らしていた。