六月の水面 自動ドアが開閉し、鷹見は漸く息をした。肺の底まで満ちていた湿気は吐き出してしまうと背後へと去り、代わりに空調が齎す乾いた冷気が襟足の産毛を撫でた。いらっしゃいませ、と平板に響く店員の声を聞きながら、前髪のまとわりつく額をポケットから取り出したハンカチで拭う。肩紐を掴んでギターケースを背負い直し、背中に貼りついたシャツを剥がす。隣を歩く田口もきっちりと締められたネクタイごとカッターシャツの襟元に指先を突っ込んで空気を送り込んでいた。涼し〜、と気の抜けた声を上げ、水面から顔を出して息を継ぐように天井を仰ぐ。頭半分ほど背丈の違う鷹見と田口では吸い込む空気も違うだろうか。ベースケースとの隙間で、項で一つに括られた髪の穂先の下、生白い首筋を一滴の汗が、つう、と伝って襟の内側へと落ちていくのを、鷹見は何とはなしに眺めた。
夕方の書店にはちらほらと客の姿があったが、時折思い出したかのように小声のお喋りと会計のやりとりが聞こえてくる他は、空調の唸りと音量を抑えた有線のBGMが混じり合って書棚の間を占めていた。田口とは一旦入口で別れ、鷹見は音楽雑誌、次いで参考書の棚を経由してから漫画のコーナーへと向かった。田口は新刊の台に平積みにされた漫画を物色しているところだった。
「あった?」
「うん。最後の一冊」
既に目当ての一冊を手に取っていたらしく田口は満足げな笑みを浮かべながら、持っている本の表紙を両手で胸の前に掲げてみせた。よかったなぁ。初めて見るタイトルだったが田口のはしゃぎように自然とつられて鷹見は頷いた。これめっちゃ面白いんよ、よかったら鷹見も読む? 普段ならそんな風に続く筈だが、田口はふと思い出したように辺りを見回してから、幾らか声の調子を落として尋ねた。
「鷹見さ、来週誕生日やんな」
「あ〜、うん?」
そういえば来週か、と思い浮かべたカレンダーから父の日とも重なっているその日を探して鷹見は首を傾げたが、
「なんか欲しいものある?」
続く率直で妙に真剣な調子の問い掛けを聞いて腑に落ちた。同時に思わず拍子抜けし「それ俺に聞くん?」と混ぜっ返す。「聞いてもうた」と田口は苦笑いを浮かべながら後ろ頭に手をやった。
「う~ん……今は別にないかなぁ。田口の欲しいもんでええよ」
「俺の欲しいもんっていうと、漫画になるよ」
「まぁ、そこはまかせるわ~」
「ええ~……」
蒸し暑さからはとうに逃れた筈の田口の額に再び汗が浮かぶ。しかし田口は本を持っていない方の手の甲でそれを拭うと朗らかに「まあ参考にするわ」と言った。言葉通り田口に一任することにして鷹見は新刊の台へと視線を投げた。ずらりと並んだ漫画本の中に、見覚えのあるキャラクターが描かれた表紙を見つけて田口に声を掛ける。
「あ、新刊出てるで」
「えっ、出てたっけ」驚いて鷹見の指差す先を目で追った田口は「あ、ファンブックやんなぁ」と合点が行ったように頷いた。
「漫画とちゃうん?」
「名場面集とかキャラのプロフィールとか作者インタビューとか? 今月は他にも新刊出るから正直厳しくてさ、後回しかなぁって思ってるんやけど」
「ふ~ん」
田口はまるで試験勉強をしている時のように眉間に皺を寄せて腕組みをする。そのままにして鷹見はファンブックを手に取った。なるほどよく見れば隣の漫画本よりも一回り大きいサイズで、扱いが異なるのかビニールの封もされていない。ぱらぱらとページを捲ると説明された通り、カラーイラストや漫画のコマの抜粋、文字主体の記事等が続く。背景や舞台の紹介と思しきページに差し掛れば、空想上の建物ながら建築パースに似た緻密な設定資料が目に入ってきた。へぇ、と鷹見は感心して息をつく。
「こんな細かく決めてあるんやねぇ。あ、この旗、あのキャラの背中についてる紋章と同じやん。ここの出身やったりするん?」
「えっ、どこ? 誰々?」
途端に横から手元を覗き込んで矢継ぎ早に質問を繰り出す田口に、鷹見は西洋風の建物の尖塔に掲げられた旗を指差す。
「ここ。なんていうたっけ……あの渋い眼鏡の奴」
「ほんまや、ジンメルのマントと同じ紋章! これは今後関わってくる伏線かもしれん……!」
きらきらと目を輝かせて拳に力を篭め、水を得た魚のように語り出す田口を見、思わず鷹見は頬を緩めた。すごいなぁ鷹見、とまるで自分の身に喜ばしい出来事があったかのように田口は言う。
一頻りああだこうだと予想を語った後、
「あのさ、違ったら悪いんやけど、」と前置きして田口は尋ねた。
「もしかして鷹見、背ゲマ結構好き……?」
「好き……っていうか、」その単語を舌に載せた瞬間のざらりとした感触を飲み下し、鷹見は手にしていた本を元の場所へと戻す。下に積まれた本とのずれを整えながら、できるだけ平静な調子に聞こえるよう慎重に言葉を選んだ。
「おもろいとは思ってるかなぁ」
「……そうなん」
鷹見は整然と積み直された本の角にじっと視線を固定したままでいた。田口が果たしてどんな表情でいるのか知るのを躊躇して隣の本の並びまで指先で整える。掛けられたビニールの端の尖りが弦を押さえるせいで硬くなっている指先に触れた。
「なんか、安心したかも。俺ばっか好きで、貸されるから仕方なく付き合ってくれてるんかなって思ってたから」
続く言葉を聞いて、はっとして顔を上げた。目が合うと田口はふっと、少し困ったようにも諦めたようにも見える気の抜けた笑みを浮かべた。鷹見のみならずプロトコルのメンバーやクラスメイトにまで隙あらば好きな漫画を貸そうと持ち掛け、その面白さを捲し立てるのを鑑みれば意外ともいえる表情に、鷹見は思わず目を瞬く。
「え……、いや、おもろない漫画こんな何冊も読んでへんよ」
「あ……そっか。そうなんや……」
田口はまるで初めて他人の存在に気づいたかのように鷹見の顔をまじまじと見つめ、鷹見が置いたファンブックに視線を落とし、また顔を上げると、
「なんかすごいうれし~」と満面の笑みを浮かべた。漫画の話をする時、或いはベースを弾く時、田口はよくそうした屈託のない表情をした。確かにつられてるかもしれんなぁ。思ったが不快さはなく、鷹見はふっと唇を緩める。
会計をする田口を待って入口付近をうろついていると、聞き覚えのあるギターのアルペジオが鷹見の足を止めさせた。七百七十円です。袋はお付けしますか? 店員の声の向こう側に漂う店内BGMはプロトコルが直近のライブで演奏した曲だった。ドラムとギターだけの演奏に囁くように重なる歌詞を辿る。暫くしてベースが合流する頃に田口が財布をしまいながらやってきた。「この曲、」と小さく天井を差して言う。「うん」帰り路は鼻歌でも歌ってそうやな、と田口の横顔を眺めながら鷹見は頷いて続きを促した。
「実はな、やり始めはなんか……弾くとこないなあって思ってたんやけど」と田口はばつが悪そうに後ろ頭に手をやった。
「そうなん?」
「うん……あってもあんま動きないし。でも、皆と合わせてるうちに段々おもろいとこ分かってきてさ」
思い返された視聴覚室での練習風景で、田口は演奏時に大抵そうするように片耳に髪を掛けて一つひとつの音を爪弾いている。その頬に不満を読み取ることはできない。
「鷹見が持ってきた曲で結構好きになった曲ってあるよなぁって、さっきの背ゲマの話聞いて思ったんよ」
自分が言わなかった言葉を気負わずに口にする田口を見、鷹見は目を眇めた。
「そういう曲聴くと鷹見のこと思い出すわ」
「……なんか、別れる曲の歌詞みたいで縁起悪くない?」
「えっ、いや、そういうつもりやなくて……」
BGMが別の曲に変わる。涼しくて店出たくないなぁ。言いながら田口は空調を浴びようとするかのように顔を上向ける。自動ドアの外も店内も似たような曖昧な明るさで、しかし灰色の曇天の下には蒸した空気が立ち込めている。田口の呟きに、うん、と鷹見は頷いた。
鷹見はTシャツと下着だけを身に着けてキッチンへ行き冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してガラスのコップを二つ用意してそれぞれに氷を入れて注いだ。水を零さないよう水平を保ちながらコップを両手にリビングを横切って寝室へと戻った。換気のために細く開けた窓の網戸に濾された重くぬるんだ夜気が室内に入り込み冷房が低い唸りを立てて抗っていた。却って指先に触れるコップのひんやりとした硬さが意識された。鷹見同様未だ下着姿でベッドにうつ伏せに伸びていた大学の同じ軽音サークルの女子学生はいかにも気怠そうに頭を擡げたが、鷹見がローテーブルにグラスを置くと、有難う、と言って身体を起こした。彼女は伸ばした腕、そして上半身だけをまずベッドの外に出してそのまま滑り落ちるようにするんとテーブルの前に座った。何かそのような器用なけものを思わせる動きだった。鷹見くん、明日何限から? 三限。いいなぁ、私必修が一限でさ。他愛のないお喋りをしながら二人はそれぞれのコップから水を飲んだ。頤を上げた鷹見の喉の奥に冷たさがただ落ちていく。コップの外側に付いた水滴が指の間を濡らした。
鷹見が半分程に減ったコップをテーブルに置いた時、彼女は既にフローリングに両手をついてベッドサイドの本棚へと身を乗り出していた。主として使っている本棚とは別の、雑誌等をしまっている背の低い棚だ。彼女は先程から気にしていたらしく、端にある本の背表紙を見て傾げた。
「鷹見くんって背ゲマ好きなんだ?」
水でほんのり湿った唇から飛び出した聞き慣れない単語に、鷹見は思わず鸚鵡返しに尋ねた。
「え、何」
「ふふ、何って何。これって『背徳のゲマインシャフト』のファンブックだよね。漫画の。好きなんじゃないの」
「あ~、それかぁ」
かつて同じように問われた時よりも器用にはぐらかし、鷹見は胡坐をかいた足を組み替える。テーブルに向き直った彼女は両手に収めたコップを短く切った爪の先でつつきながら続けた。
「私は兄ちゃんの借りて読んでみたらハマっちゃってさ。ちょうど本誌は最終章入った辺りで、それから最終回まで毎週追ってたなぁ」
「え、終わったん?」
「あれ、知らなかった? 去年の秋頃」
「あ~……こっち来た頃から読んでなかったわ」
「そうなんだ。でもなんか、鷹見くんがファンブック持ってる程好きなのって意外かも。私、読んだことないんだよね。見ていい?」
彼女が再び本棚へと視線を向け、その本を取り出そうと手を伸ばす。あ、と鷹見は身を乗り出した。慌てて置かれたコップの底がテーブルの天板に衝突して鈍い音を立てる。
「触らんといて。悪いけど、それ借り物やから」
咄嗟の制止に、はっとして手を引っ込めた彼女は目を見開いて鷹見を見つめ、それから、ふーん、と小さく鼻を鳴らして意地の悪い笑みを浮かべた。
「何やの」
「別にぃ。……あーあ、そろそろ帰ろっかな。寝てる犬も起きそうだし。シャワー借りるね」
「……まあ、ええけど」
空になった自分のコップを手に部屋を出る小柄な背を鷹見は見送る。キッチンから水音が聞こえ、それが止んだ後暫くして今度は浴室から雨垂れに似たシャワーの音が聞こえ始めた。
彼女を見送り、一人になった寝室で鷹見は本棚から『背徳のゲマインシャフト オフィシャルファンブック』を取り出す。そうそう、こんな絵やった。かつて一度は目を通した筈の、しかしほとんど記憶にないページをぱらぱらと捲る。数年経過した紙は僅かに変色し、古びたにおいを帯びている。おそらくそれは田口の部屋と同じにおいだった。あの時、田口は小遣いの残りが厳しいと言っていたが、自分の分も買うことができたのだろうか。
スマートフォンを引き寄せて、少し指先をうろうろとさせてからメッセージを送る。
『背ゲマって完結したん?』
ベッドに頭を預け、まだ冷え切らない微温の空気の中を漂いながら鷹見は天井を眺める。光量を抑えた照明は雲間から漏れるぼんやりとした光に似ていた。暫くして、三駅向こうのアパートに住む友人からのメッセージが水底の空気を震わせる。
『しとるよ。あれ、何巻まで貸したっけ。今度全部持ってけばええ?』