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    FuzzyTheory1625

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    FuzzyTheory1625

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    誤字脱字確認してません。一瞬グダってます。読み飛ばしてもらえれば、、、ギャグ/モブ死

    勘違い通路の照明は相変わらず無機質な光を放ち、白い壁に沿って等間隔に配置されたドアが静かに並んでいる。最新の研究施設というのはどこもかしこも似たり寄ったりだ。清潔で、無駄がなく、冷たい。

    「ふぁ〜……」

    モブ職員——いや、彼には名前があるし、役職も貰っている。彼は大きくあくびをしながら、手に持ったタブレットを適当にスクロールしていた。仕事の合間のちょっとした息抜き……というより、完全にサボりだった。

    この時間帯はほとんどの研究員が食堂に行っているか、仮眠室で束の間の休息を取っている。つまり、廊下を歩いている人間はほとんどいない。誰にも見られなければ、多少だらけても問題はない——そう思いながら、彼は気怠そうに足を引きずるように歩き続ける。

    「くそ、また上司に書類の修正頼まれたし……ほんと、事務職ってのも楽じゃねぇな。」

    ため息をつきながら、彼はタブレットに映し出されたデータをぼんやりと眺めた。長ったらしい数字と専門用語が羅列された表——彼には正直、何が書いてあるのかさっぱりわからない。自分の仕事はあくまでそれらのデータを整理し、必要なら研究員に渡すこと。内容を理解する必要はない。

    だからこそ、ただのモブ職員なのだ。

    「ったく……俺だって、もうちょい花形の仕事がしたかったぜ……」

    とはいえ、こんな愚痴をこぼしても仕方ない。結局のところ、彼のような人がいなければ研究施設は回らないのだ。そう思い直して、彼は少しだけ気を引き締める。

    そんな時だった。

    ——バンッ!!!

    突然、静寂を破るように響いた大きな音。何かが倒れたような、あるいは壁を叩いたような衝撃音。

    「……ん?」

    彼は思わず足を止めた。音がしたのは、この先にある研究室の方角だ。普段は滅多に人が寄り付かないエリアだが、確かここには、あの問題児がいたはずだ。

    「まさか……また爆発とかしてねぇだろうな?」

    彼は以前、この研究室で発生した“小規模な事故”のことを思い出した。そう、“小規模”とは言っても、彼らの基準での話であって、彼のような普通の職員からすれば十分に大惨事だった。

    「うわぁ……めんどくせぇ……」

    できれば関わりたくない。そう思いながらも、彼はゆっくりと研究室の方へ向かう。もしかしたら誰かが怪我をしているかもしれないし、最悪の場合、施設の設備に被害が出ていたら報告しなければならない。

    近づくにつれて、研究室の扉の向こうから何やら声が聞こえてきた。

    彼は研究室の前で完全に硬直していた。

    目の前の扉の向こうから漏れ聞こえてくるのは、どう聞いても”健全”とは言い難い会話の数々。そして、それをさらに混乱へと追い込むかのように、ときおり響く妙に色っぽい「あ///」という声。

    いやいやいやいや、待て待て待て。

    これは何かの間違いだ。何かの作業をしているだけのはずだ。だが、彼の脳内はすでにパニックを起こしていた。

    「アドラー!そこは違う!こっちに挿入れろ!」
    「うるせぇよ!俺は機械工学の人間じゃねぇ!」
    「待てアドラー!そこはダメだ!!」
    「あ?ここの方が良かったか?」

    そして、合間に時折聞こえる「あ///」。

    彼は血の気が引いていくのを感じた。

    ——いや、この声……確かに聞き覚えがある。

    彼は必死に思考を巡らせる。普段、他部門の研究室にはあまり関わることがないが、それでも内部の人間関係にはある程度詳しい。

    この声……確か、ラプラス最高責任者代理及び、平衡傘部門のツートップのうちの片方だ。

    つまり、アドラー・ホフマン。暗号解読の天才であり、情報解析のエキスパート。彼はあくまでデジタル領域の専門家で、機械の修理や物理的なメンテナンスにはそれほど詳しくない……はずなのだが?

    それなのに、何故か今、扉の向こうで——

    いや、待て。

    もう一人の声も聞いたことがある。

    「アドラー!そこは違う!」

    そう叫んでいたのは、間違いなく解読班班長。いや、正確にはもう片方のトップ、ウルリッヒだ。

    “解散した暗号解読班のトップ”と”現在の最高責任者代理”の二人が、何故か研究室でこんな会話を繰り広げている。

    ……あれ?

    こいつらそんな仲良かったっけ?

    いやいやいや、むしろお互いを小馬鹿にしながら言い合いしてるのを何度か見たぞ?少なくとも、こんな”親密”な関係には到底見えなかった。

    ……なのに、何故。

    何故、こんな状況になっている!?!?!?

    彼の脳内では、ありとあらゆる情報が錯綜し、完全に処理落ちを起こしていた。

    「いやいやいやいや……ちょっと待てって……」

    彼は額に手を当て、動揺する心を必死に落ち着けようとする。だが、追い討ちをかけるように——

    「っはぁ……っ、やっぱり無理があるって……」
    「は?」

    彼の背筋に悪寒が走った。

    「アドラー、もう少し優しくすれば深く……」
    「えっっっっっっっっっ???」

    声にならない悲鳴が喉元まで上がりそうになるのを、彼は必死に押しとどめる。

    いやいやいやいや、無理があるってなんだ?? どこを深く??? 一体何の話をしてる???

    パニックを通り越して、思考は完全に迷子だった。

    そして——

    「うるせぇ!!俺の専門はパスコード解析だっつってんだろ!!」
    「だからって、そんな雑な入れ方するな!!」
    「うわあああああああああああ!!!!!」

    彼の中で、何かが決定的に壊れた。

    なにこれ???なにこれ????なにこれ???????

    平衡傘部門のツートップがこんなことしてるとか、ありえないだろ!?!?

    いや、うちのラプラス最高責任者代理は何してんの????

    というか”何”してんの??????

    ナニと言うべきなのか?????

    彼の脳内で無限に駆け巡る疑問。いや、もう考えたくない。これは知らなくていいことだ。いや、むしろ知らない方がいい。絶対に。絶対に。

    (よし。聞かなかったことにしよう。)

    彼は目を見開き、ガタガタと震える手でタブレットを握りしめた。もう何も見なかったことにする。何も聞かなかったことにする。全力でこの場を立ち去るべきだ。

    ——しかし、どういうわけか、彼の足は硬直し、その場から動けなかった。

    彼の耳は、まだ扉の向こうのやり取りを拾い続けていた。

    「あ///」

    「 」

    彼はその瞬間、そっと自らのタブレットを抱きしめた。

    「俺は……何も……聞いてない……」

    震える声でそう呟くと、彼は静かに後ずさった。足音を殺し、息を潜め、まるでそこに存在しなかったかのように。

    そう、これは知らなくていいことなのだ。知らなかったことにするべきなのだ。

    そして彼は決して、この扉をノックすることなく、全力でこの場を去った——。




    §



    彼はデスクに突っ伏しながら、深いため息をついた。

    仕事に集中しようとしても、どうしても「あの会話」が脳裏にこびりついて離れない。

    「うわあああああああああ!!!!!」

    彼はデスクの上で顔を抱え、叫びたい衝動を必死に押し殺した。だが、どうしてもダメだ。思い出せば思い出すほど、頭の中で勝手に場面が再生され、どんどん想像が膨らんでいく。

    いやいやいやいや、そんなわけがない!!冷静になれ、俺!!

    アドラー・ホフマンは平衡傘部門のトップで、暗号解読のスペシャリスト。機械のメンテナンスなんかできるはずがない。そもそも、ウルリッヒとは犬猿の仲。そんな”関係”になるなんて、ありえない……ありえないはず……

    そう思い込もうとするのに、どうしても脳が勝手に邪推を始める。

    あのウルリッヒの「あ///」って何だったんだ!?

    なんであんな息が乱れてたんだ!?

    あれは苦しそうな声だったのか!? それとも……まさか……いや、そんなことが……!?

    「お前大丈夫か?」

    突然、隣のデスクから声がかかった。

    「えっ!?」

    彼はビクッと肩を跳ね上げ、思わず変な声を上げた。

    同僚が、不審そうな顔でこちらを見ている。

    「いや、なんかさっきからため息ばっかりついてるし、仕事進んでねぇし……体調悪いのか?」
    「い、いや……」

    そう言いながらも、彼は自分の手のひらがじっとりと汗で濡れているのを感じた。嫌な汗が背中にも伝っていく。

    「アドラー、もう少し優しく…」

    (うわああああああ!!!!考えるな!!!!)

    「……いや、何でもない……なんでもないんだ……」

    自分に言い聞かせるように呟くが、声が震えているのを自覚した。

    「お前、ほんとに大丈夫か?」

    同僚はさらに怪訝な表情を浮かべる。

    「ていうか、お前の顔、すげぇ嫌な汗かいてるぞ……」
    「えっ!? そ、そうか!?」

    彼は咄嗟に袖で額を拭った。確かに冷や汗がダラダラと流れている。

    「何か変なもんでも見たか?」

    同僚の軽口に、彼は一瞬言葉を失った。

    ——“変なもの”

    ああ、見たとも。見たっていうか、聞いた。聞いちまった。

    あんなの、聞きたくなかった。知らなければ、平穏な日常を過ごせたのに。

    「……いや、なんでもない……なんでもないんだ……」
    「お前、今日それしか言ってねぇぞ?」

    同僚は呆れたように肩をすくめた。

    「……まさかとは思うけど、昨日の夜に”見ちゃいけないもの”でも見たとか?」
    「!!!?」

    彼はガタッと勢いよく立ち上がった。

    「いやっ!? そ、そんなわけない!!何も!!何も見てないし聞いてない!!!」
    「え、えぇ……?」

    あまりにも必死な様子に、同僚はドン引きしている。

    「な、なんかすまん……そんなに触れちゃいけないことだったのか……?」
    「そ、そうだ!! 触れるな!! 忘れろ!!!」
    「いや、俺何も知らないんだけど……」
    「いいから忘れろ!!!!」

    彼は叫ぶように言い放つと、ガクガクと震える手で水の入ったボトルを握りしめた。

    喉が渇いて仕方ない。乾いた口の中を潤すように、一気に水を飲み干す。

    ——しかし、その瞬間。

    「あ///」

    「ぶふぉっ!!!!!!」

    脳裏にウルリッヒの声がフラッシュバックし、思い切り水を吹き出した。

    「うわっ!? ちょ、お前!? なにしてんだよ!!?」
    「ごほっ、ごほっ……!!!」

    彼は咳き込みながら、ぐったりと椅子に倒れ込んだ。

    もうダメだ。

    これ、一生忘れられないやつだ。

    彼は天井を仰ぎ見ながら、心の底から後悔した。

    「……俺、転属願い出そうかな……」
    「いや、なんか知らんけど落ち着けって……」

    同僚はますます困惑しながら、遠ざかる彼を見つめるのだった——。





    §



    彼は書類の束を手にしたまま、呆然と立ち尽くしていた。

    上司の「エニグマの署名がいるから届けてこい」という指示を受けた瞬間、彼の脳内では警報が鳴り響いた。

    ——エニグマ。

    それはつまり、アドラー・ホフマンのことだ。

    あの、「昨晩の”アレ”」の現場にいた当事者の一人である。

    (……無理だ。無理すぎる……。)

    彼は震える手で書類を握りしめ、深呼吸した。

    顔が熱い。体が火照る。心臓が痛いほど早く脈打っている。

    一瞬「逃げる」という選択肢が頭をよぎったが、上司が背後から睨んでいる以上、それは許されない。

    「……い、行きます……」

    呟くように言いながら、彼は鉛のように重い足を引きずり、エニグマ——アドラーのオフィスへ向かった。

    ドアの前に立ち、拳を軽く握る。

    どうする? どんな顔をして会えばいい?

    あんな現場を聞いてしまった後に、何もなかったように振る舞える自信がない。

    (落ち着け……落ち着くんだ俺……仕事だ、これはただの仕事だ……!)

    震える手を無理やり抑え、意を決してコンコンとノックする。

    「どうぞ」

    中から聞こえた低い声に、彼は思わずビクリと肩を跳ね上げた。

    (やばい……アドラーの声が脳に響く……)

    彼はゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりドアを開けた。

    部屋の中では、アドラー・ホフマンがデスクに座り、モニターに映る暗号データとにらめっこしていた。

    「……なんだ?」

    彼は恐る恐るアドラーの顔を見た。

    その瞬間——。

    「ッ!!」

    彼の脳内で”あの夜”の会話がフラッシュバックした。

    アドラーの手が機械の奥に突っ込まれ、ウルリッヒが息を荒くしながら「あ///」と漏らしたシーンが……!

    「ッッッ!!!」

    彼は突然顔を真っ赤に染め、ぶわっと汗を噴き出した。

    「お、おい……?」

    アドラーが眉をひそめる。

    彼は必死に冷静を装おうとしたが、どうにもならない。

    「ど、どうした? なにか……おかしなものでも食ったのか?」
    「ち、ちがっ……!!そ、そんなんじゃなくて……!!」

    額の汗を拭いながら、彼は書類を差し出した。

    「こ、これ!! あ、エニグマの……署名が……いるそうで……!!」
    「……?」

    アドラーは書類を受け取りながらも、彼をじっと見つめる。

    「いや……あんた、本当に大丈夫か? さっきから顔が異常に赤いぞ?」
    「っ……!!」

    彼は耐えきれず、目を逸らした。

    (ダメだ!!こいつの顔を見てると、昨日のことが思い出されて頭が爆発しそうになる!!!)

    「……なんか、やけに挙動不審だな。昨晩、徹夜でもしたのか?」
    「いえ、ちがっ……!!!」
    「なら、何をそんなに動揺してる?」
    「な、なにも!!何もありません!!!」

    彼は全力で否定した。

    アドラーはじっと彼を観察するように目を細める。

    「……あんた、まさか……」
    「!!!!!」

    彼の心臓が跳ね上がる。まさか……まさかバレたのか!?

    『昨日、あの部屋の前を通りかかった時、俺は確かに”それ”を聞いてしまったんだ……!』

    (まさかアドラーにバレてる……!? いや、そんなはずは……)

    彼はパニックになりかけた。だが、次の瞬間、アドラーは意外な言葉を口にした。

    「……あんた、仕事のしすぎで狂ったのか?」
    「は……?」
    「いや、おかしいだろ、あんた。顔は真っ赤、汗はダラダラ、目線は泳ぎまくり……まるで精神を病んだみたいになってるぞ?」

    (ちがう!!お前のせいでこうなってるんだ!!!)

    しかし、そんなことを口が裂けても言えない。

    「べ、べつに……なんでも……ありません……」
    「……あんたな……」

    アドラーはため息をつきながら書類に署名をし、彼に突き返した。

    「いいか? 仕事が辛いなら、ちゃんと休めよ? 精神を壊したら終わりだぞ。」
    「は、はい……」

    彼は死にそうな声で返事をし、逃げるように部屋を出た。

    ——ドアが閉まると同時に、壁に背を預けてズルズルと座り込む。

    「……し、死ぬかと思った……!!!」

    彼は胸を押さえながら、再び赤面するのだった。

    (これ、俺……あとどれくらい耐えられるんだ……?)




    §




    彼はは、再び上司から手渡された書類を見つめたまま、硬直していた。

    「これ、エニグマの署名がいるから、届けてこい」
    「——ッ!!!!」

    脳内に警報が鳴り響く。

    (……無理だろ……!!!)

    たった今も”あの夜のやりとり”を思い出して悶々としていたばかりだというのに。

    またアイツと顔を合わせるのか!?

    (どんな顔して会えばいいんだよ!!)

    動揺を悟られないようにするので精一杯だったが、顔が引きつっているのを自覚している。

    「聞いてんのか?」
    「……っ、はい!! すぐに行きます!!!」

    彼は書類を掴み、逃げるようにオフィスを飛び出した。

    胃が痛む。

    息が詰まる。

    だが、避けるわけにはいかない。

    (落ち着け……普通に、何もなかったようにすればいい……!!)

    自分にそう言い聞かせながら、彼はオフィスを進んでいく。

    だが——。

    (……あれ? こっちで合ってるか?)

    道を間違えた。

    本来向かうべきはアドラーのオフィスのはずだった
    だが、いつの間にか研究棟の廊下を歩いていた。

    (……なんで俺、こんなところに……)

    自分でもよく分からない。

    だが、足が勝手にこっちに向かっていた。

    そして、目の前には——。

    「ウルリッヒ——“あの夜”のもう一人の当事者がいた。




    §




    彼の心臓が、一気に跳ね上がった。

    「あっ……」

    声が漏れた瞬間、ウルリッヒがこちらを向いた。

    「……?」

    彼は白衣を着たまま、端末を片手にしていた。

    (っ、待て待て待て待て!!!!!)

    彼の脳が強制フラッシュバックを起こす。

    (やめろおおおおおおおお!!!!)

    自分でもわかるほど、顔が熱くなった。

    しかも、ウルリッヒは彼の様子を見て、首を傾げている。

    (お前のせいでこうなってるんだよおおおお!!!!)

    ……いや、違う。

    彼は悪くない。

    だが、彼の脳は”昨晩の声”を再生し続けてしまう。

    逃げなきゃ。

    この場から、今すぐ逃げなきゃ。

    そう思ったが、足が動かない。

    そんな彼に気づいたのか、ウルリッヒは歩み寄ってきた。

    「……おい、大丈夫か?」

    (いや、お前の方が大丈夫か!?!?)

    目の前にいるのは、昨晩あんな声を漏らしていた磁性流体だ。

    理性がぐらつく。

    ウルリッヒは彼の額を見て、軽く眉をひそめた。

    「……顔が赤いな。熱でもあるのか?」
    「っ、な……!! ち、違います!!!」
    「いや、どう見ても——」
    「違うんです!!!!!!」

    全力で否定した。

    ウルリッヒは驚いたように磁性流体を尖らせる。

    (や、やばい……!! 俺、明らかに挙動不審すぎる……!!!)

    「……そうか?」
    「そ、そうです!! 何でもないですから!! 俺はただ!!!」
    「——ただ、書類の届け先を間違えただけです!!!!!」

    思わず叫んだ。

    一瞬、沈黙。

    「…………」

    ウルリッヒは、ふむ、と小さく頷いた。

    「なるほどな。まあ、確かにキミがここに来る理由はないな。」
    「そ、そうですよね!! じゃ、じゃあ俺、行きますんで!!!」

    彼は書類を抱え、猛ダッシュでその場を後にした。

    背後でウルリッヒが「……?」と首を傾げていたが、もう見ている余裕はなかった。

    (……俺は何をやってるんだぁぁぁ!!!!!!)

    叫びたい気持ちを押し殺しながら、彼はようやく本来の目的地へと足を向けようとした。

    「待て」

    ウルリッヒの低い声に、彼の足が止まった。

    (えっ……!?)

    「……あぁいや、ちょうどいい。僕もアドラーに用があるんだ」

    そう言いながら、ウルリッヒは無造作に端末の画面をスワイプし、ポケットにしまった。

    「アドラーは今オフィスにはいない。」

    (…………は??)

    彼は目を見開いた。

    「い、いない……?」
    「そうだ。だから僕が案内しよう」
    「いや、でも……」

    彼の額から嫌な汗が滲んだ。

    (まずい!!!!!!!!)

    この場でウルリッヒと二人きりで歩くなど——“危険”すぎる!!

    ただでさえさっきの会話で思考が揺さぶられているというのに、この磁性流体と道中で何を話せばいいんだ!!?

    ——いや、そもそも。

    「ボクもアドラーに用がある」

    (なんの用だよ!!!!)

    ま、まさか、また……!?
    いやいや、昼間からそんなことをするわけが——。

    (いや、でも”昨晩”だって……!!!)

    駄目だ、冷静になれない。
    しかし、ここで「いや俺一人で行きます!!!」と拒否するのも不自然すぎる。

    それに、何より——。

    (アドラーの署名がないと上司にどつかれる……!!!!!)

    もう、詰んでいる。

    彼は震える声で答えた。

    「……じゃ、じゃあ……お願いします……」

    ウルリッヒは「うん」と頷くと、彼の横を通り過ぎ、ゆったりと歩き始めた。

    (うわああああああ!!!!)

    彼は腹を括り、彼の後ろに続いた。




    §




    無言が続く。

    彼はなるべくウルリッヒの後ろ姿だけを見ていた。

    (絶対に……絶対に昨晩のことを思い出してはならない……!!!)

    そう自分に言い聞かせるが、思えば思うほど脳裏にフラッシュバックが襲いかかる。

    (あああああああああ!!!!!!!!!!!!)

    もうだめだ。精神が限界だ。

    彼は、必死で気を紛らわせようと、何か会話をしようと試みる。

    「え、えっと……」
    「ん?」

    ウルリッヒが振り返る。

    その瞬間、彼の喉が詰まった。

    (——無理!!!!!!!)

    昨晩、あんな声を出していた男が目の前にいる。まともに顔を見れたものではなかった。

    「……?」

    ウルリッヒは彼の様子を見て、再び首を傾げる。

    「顔が赤いぞ」

    (またそれかよおおおおおおお!!!!)

    「いや!?違います!!!本当に違います!!!!!」
    「……いや、でも——」
    「と、とにかくっ!! それより、アドラーにどんな用があるんですか!??」

    誤魔化すように話を振った。

    ウルリッヒは「あぁ」と納得したように頷く。

    「昨日のメンテナンスの件だよ」

    (うわああああああ!!!!!!!)

    よりにもよって”それ”か!!!!

    「っ、そ、そうなんですね……」
    「うん。昨夜、アドラーに義体のパーツを調整してもらったんだが、一部動作がまだおかしくてね。」

    (いやおかしいのは会話の方なんだよ!!!!)

    「また少し見てもらおうと思っていた。」
    「……そ、そうですか……」

    彼は返事をしながら、必死で思考を落ち着かせる。

    (ダメだ……一言一句が違う意味に聞こえる……!!!!!)

    彼の中では既に「昨夜の行為の調整」のように聞こえていた。

    しかも、ウルリッヒは平然とした顔で話を続ける。

    「アドラーは手先が器用だからな。ボクのような義体持ちにとってはありがたい。」

    (やめろ!!!!もう喋るな!!!!)

    「それに、彼はメンテナンスは不得意だと言いつつ、昨晩も最終的にはしっかり調整してくれたしな。」

    (“昨晩”とか言うなああああああああ!!!!)

    彼の精神が限界に近づく。

    「……キミも義体調整をしたことは?」

    (俺に振るな!!!!)

    「えっ、ええと……? ま、まあ、その、技術班に同期がいるので……」
    「そうか」

    ウルリッヒは軽く頷き、また前を向く。

    「アドラーはメンテが不得意だとは言っていたが、昨晩の調整は結構良かった。」

    (ああああああああああ!!!!!!!!)

    もはや言葉の全てが”何か”を示唆しているようにしか聞こえない。

    「彼はメンテナンスは不得意だと言いつつ、昨晩も最終的にはしっかり調整してくれた。」
    「昨晩の調整は結構良かった。」

    彼はもう耐えられなかった。

    「す、すみません!!! 俺、ちょっとトイレ行ってきます!!!!」

    限界だった。

    精神が崩壊する前に、逃げなければならない。

    「ん? なら角を曲がってすぐ右にあるよ」
    「は、はい!!!!!」

    彼はウルリッヒを残し、逃げるように走り出した。

    ——このままでは、“何かが”壊れる気がした。




    §


    無言が続く——。というよりなんでこの磁性流体は俺を待ってたんだよ!!彼が悶々と悩み悶え苦しんでいた時にふと1つ気がかりなことがあった。

    「……ところでなんで技術班ではなくパスコード専門のアドラーに?」

    言った瞬間、彼の心臓は跳ね上がった。

    (っっっっっ!!!!!!!!)

    それは、言ってはいけない質問だった。

    無意識のうちに、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまった。

    (やばい!!!! 俺、ウルリッヒに詮索するようなことを——!!!!!!)

    彼の顔が一気に青ざめる。

    だが——。

    「まぁ、プライベートなことだからな。」

    ウルリッヒは、特に気にした様子もなく答えた。

    「主任は今、他の義体に忙しいようで、」
    「……他の??」

    彼は反射的に聞き返した。

    ウルリッヒは軽く頷いた。

    「そうだ。他の義体のメンテナンスにかかりきりで、ボクの調整までは手が回らなかったらしい」

    (——他の……義体…………?)

    彼の脳内に、“それ”が響き渡った。

    (他の義体……)
    (誰だ……??)

    ミス・ルーシーは既にラプラスを去った。

    なら、ラプラス内に残る義体持ちは……?

    「ロ……ロガーヘッド……???」

    (いや、まさか!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?)

    ——あのロガーヘッドが、技術主任にメンテナンスを……!?!?!?!?!?

    (違う意味でヤバい光景しか浮かばないんだが!?!?!?!?!?!?)

    彼は動揺を隠しきれず、何か言いかけたが、慌てて口を閉じた。

    「……?」

    ウルリッヒが、ちらりと彼を見やる。

    「何か?」
    「い、いえっ!?!? な、なんでもありません!!!!」

    彼は全力で首を横に振った。

    (ヤバいヤバいヤバいヤバい!!!!)
    (昨晩の件で思考がぶっ壊れたせいで、もう何もかもが変な方向にしか考えられない!!!!!!!!)

    頭を振って強制的に思考を切り替えようとするが、一度生まれた疑念はなかなか消えない。

    (というか、そもそも俺は何を考えているんだ!?!?!?!?)
    (ウルリッヒとアドラーのことで勝手に混乱して、今度はロガーヘッド!?!?!?!?!?)
    (このままじゃ俺の方が壊れる!!!!!!!!)

    「キミ、本当に顔が赤いな。」
    「!!!!!!?!?!?!?!?!?」

    ウルリッヒの言葉に、彼は絶望的な気持ちになった。

    (やめてくれ!!! もう!!! 俺に話しかけないでくれ!!!!!!!!)
    (これ以上変な想像をさせるな!!!!!!!!!!)

    ウルリッヒはただ普通に会話をしているだけなのに、彼の頭の中は既に修羅場と化していた。




    §




    彼は、もう何も考えたくなかった。

    いや、むしろ「考えてはいけない」と思っていた。

    それなのに——

    それなのに!!!!!!

    目の前で起きていることが、彼の脳内をあらぬ方向へ暴走させる。

    「……さて」

    ウルリッヒが立ち止まり、目の前のドアを見上げた。

    「ここだな。」

    彼は、喉を鳴らした。

    (……ここ……?)

    アドラーのオフィスではない。
    技術班の研究室でもない。
    というか、昨日ここを通ったような——

    ウルリッヒは自然な動作でドアの端末を操作し始めた。

    指先がリズミカルに動き、端末の画面に複雑な数式のようなものが流れていく。

    (な……何をしてるんだ……??)

    彼には、何が起きているのかまるで理解できなかった。

    「……!!」

    そこで、彼はハッとする。

    ——この部屋、どこかで聞いたことがある。

    「まさか……ここって……!!!」

    思わず声が出そうになり、慌てて口を押さえる。

    2月26日。

    それはラプラスの職員の間で”伝説”になりつつある、あの事件の日——!!!

    アドラーとウルリッヒの争い。
    パスコードの封鎖。
    そして、結果的に”彼ら2人しか入れなくなってしまった研究室”!!!!

    彼の脳内で、一瞬にして全てが繋がった。

    (つまり!! つまり!!!!!!!!)
    (この部屋は!!!!!!!!!!)

    2人の為の部屋——ッッッ!!!!!!

    彼の思考回路は、一瞬でオーバーヒートしかけた。

    (あああああああ!!!!!! もうダメだ!!!!!!!!)
    (ウルリッヒ、なんでそんな冷静なんだよ!!!!)
    (あの時アドラーと殴り合って、お互いのパスコードが”2人しか解除できない仕様”になっちまったって話だったのに!!!!)
    (なんで今、何事もなかったかのように解読してるんだ!!!!)
    (何かえっちな意味があるのか!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?)

    彼はもう、“いけないこと”を考えるなと言われても無理な状態だった。

    ちらり、とウルリッヒを見る。

    ウルリッヒは端末を操作しながら、淡々とコードを入力している。

    肩幅が広い。
    技術班の結晶である胸筋は、服の上からでも存在感を放っている。

    (でかい……)

    そして——

    (細っっ……!!!??)

    ウエストが異常に細い。
    まるで彫刻のように洗練された身体つき。
    もし、もしも——

    (つ、掴みたい……!!!!!!!!!!)

    己の”欲望”に気づいてしまった瞬間、彼の脳内は真っ白になった。

    「……あああああああああああああ!!!!!!!!」




    §




    「よし」

    ウルリッヒが淡々と入力していたパスコードが、ついに最後の一桁を打ち終わった。

    ピッ——ガチャン。

    低い電子音と共に、分厚い扉がゆっくりと開く。

    「さて、入るか」

    ウルリッヒが何の躊躇いもなく部屋へ足を踏み入れる。

    だが——

    彼は、その場に立ち尽くしていた。

    顔を両手で覆い、首をぶんぶんと振っている。

    「あぁぁぁぁ!!!!!! これは違う!!! 違うんだ!!!!!」

    しかし、何が違うのかは、自分でも分からなかった。

    「……ん?」

    ウルリッヒが訝しげに振り返る。

    「何をしている? さっさと入れ」
    「む、無理です!!!!!」

    無理です!!!!!!!!!!!!!

    この部屋は——2人の為の部屋。

    そんなところに、自分が足を踏み入れていいはずがない。

    (この先にあるのは、見てはいけない領域……!!!)

    しかし、ウルリッヒはそんな彼の葛藤を気にする様子もなく、

    「……はぁ」

    と短くため息をつくと——

    「ぐっ?!」

    彼の腕を掴んだ。

    「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!?!?!」

    ガシッと固定され、そのまま力強く引っ張られる。

    「無理も何も、アドラーの署名がいるんだろう? さっさと入れ。」
    「ちょっ、ちょっと待ってくださいウルリッヒ!!!! 心の準備が!! 心の準備がぁぁぁ!!!!!!」

    聞き入れてもらえるはずもなく、強引に部屋の中へと引き込まれる。

    そして、その先にいたのは——

    上着を脱ぎ捨て、タートルネックが伸びきり、乱れた姿のアドラーだった。

    「……ッ!!!!」

    彼の脳が爆発した。

    いや、文字通り”何かが弾け飛ぶ音”が頭の中に響いた。

    (は……はだ……裸……!!!!!!?????????)
    (ウルリッヒと、ここで!!!!)
    (そして、この乱れた服!!!!)

    アドラーは無造作に椅子にもたれかかり、浅く寝息を立てている。

    タートルネックは大きく伸び、襟元が乱れ、白くしなやかな首筋が露わになっている。

    (か、仮眠……? これが……????)

    その姿は、あまりにも”色々な想像”を掻き立てるに十分だった。

    「……う……うおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!」

    彼は奇声をあげた。





    §




    ウルリッヒはアドラーの肩を軽く叩くと、職員タグに手をかけた。強く引っ張ると、アドラーが驚いたように身をよじり、眠気まなこで目を覚ます。

    「ん……?」

    アドラーがゆっくりと目を開ける。寝ぼけまなこのまま顔を上げた彼は、いつもの冷静な表情とは裏腹に、いかにも不機嫌そうだ。

    「ウルリッヒ、何だ?こんな時間に……」

    言いながらも、仮眠を邪魔された不快さが顔に表れている。そのまま腰を伸ばし、タートルネックがますます乱れ、少し不自然に体を伸ばす。

    その姿を見た彼は、頭が真っ白になりかけていた。だが、次の瞬間、アドラーが何を言ったのかに一気に集中する。

    「あれ?!もしかしてウルリッヒの方がトップなの?!?!」

    彼の頭の中は一気に混乱の渦に飲み込まれる。

    「え、えぇぇぇぇぇ?!?!?」

    どんな顔していいのか分からない。いや、むしろ、そんな考えが頭を駆け巡る余裕もない。

    (ウルリッヒがトップ?!そんなわけ……いや、あり得るのか!?でもアドラーがトップじゃないのか?????)

    彼は驚きで目を見開き、次第に顔が真っ赤になってきた。

    一方、ウルリッヒは全く気にした様子もなく、アドラーに向けて軽く言った。

    「まぁ、今はそんなことどうでもいい。署名を頼みに来たんだ。」

    その声には、無駄に響く冷静さがあった。それがまた、彼の頭を混乱させる要因になった。

    「署名……?」

    アドラーはようやく目を完全に開け、少し驚いた表情でウルリッヒを見た。だがすぐに状況を把握したのか、彼はふとした瞬間に思い出したように口を開く。

    「あぁ、そうだな……」

    その言葉に彼は思わず口を開きそうになるが、すぐに自分がそれを言うべきではないことに気づき、押し黙った。

    その間にも、アドラーは肩をすくめ、髪をちょっとだけかき上げると、自分のデスクに向かってゆっくりと歩き始める。

    「ちょっと待っててくれ、署名はすぐに終わる。」

    そう言って、アドラーは一枚の書類を手に取り、サラサラとペンを走らせる。

    その静かな動作に、彼は再び目を奪われる。なぜか、彼の指が動くたびにその緊張感が伝わってきて、無意識に息を呑んでしまう自分に気づく。

    (待て待て待て!なんでこんなこと考えてるんだ僕!)

    彼は自分の心を制御しようと必死に力を入れ、胸の中で叫ぶ。

    だが、どうしてもその視界から目を逸らすことができなかった。




    §




    アドラーが書類にサインをしている間、彼はその静かな時間に圧倒される。ウルリッヒがサッと部屋を出て、数分後に戻ってきた。その手には三杯のコーヒーが入ったマグカップが握られていた。

    「ほら、キミも飲んでおけ。」

    ウルリッヒは、いつもの無駄のない動きでカップをテーブルに置いた。彼は、やっと視界を戻し、ウルリッヒの手が差し出したそれに目を向ける。その瞬間ウルリッヒは、アドラーの隣に座りながらも、まるで彼がいなくても普通に業務をこなすような表情で言葉を続ける。

    「最後に補給したのいつだっけ。」

    そう言いながら、ウルリッヒがコーヒーを一口すする。その磁性流体は少しだけ疲れているように見えたが、慣れた手つきでカップを戻すと、アドラーと何事もないように会話を再開した。

    「それで、アドラー今日の報告は?」

    アドラーが一瞬だけウルリッヒを見た後、ペンを置いて視線を戻す。

    「あぁ、今日はまぁクレームはなかったな。ただ、次はあんたの方がしばらくあちこちで顔を出すべきだと思うけどな、ウルリッヒ。」

    アドラーの口調は、少し皮肉が混じっていた。しかしその皮肉も、実は少しばかり強がりのように感じられ、どこか自分を誤魔化しているような印象が彼の胸に波紋を広げる。

    「——そもそも意識覚醒者に内部政治は向かない。」

    ウルリッヒの声には、いつもの軽快さが滲み出ているが、実際はかなり忙しそうだ。彼はその会話の間に、コーヒーを口に運び、勢いよくすすったが、すぐにむせてしまう。

    「ごっ、ゴホッ、ゲホゲホッ!」

    コーヒーが喉に詰まり、思わず体を震わせる。慌てて顔を両手で覆い、咳き込む声が部屋の中で響き渡る。

    アドラーが眉をひそめると、ウルリッヒは少しだけ磁性流体を尖らせながら彼を見つめた。

    「キミ大丈夫か?」

    ウルリッヒの声が少しだけ優しくなる。しかし、その手は止まらず、再びコーヒーをすすっていた。

    「え、あ……すみません、ちょっと……」

    彼は顔を真っ赤にしてうつむき、必死に咳を抑え込んだ。だが、思わず自分の動揺に気づき、さらに焦ってしまう。その焦りを隠すように、アドラーに視線を向けたが、その顔には何も変わりがない。

    アドラーはむしろ、彼の反応をわずかに興味深そうに見守っているようだった。

    「そういえば、あんたの部門は何をしているんだ?」

    アドラーの言葉に、彼は一瞬だけ戸惑う。その質問に答えるのは、正直に言って、かなり気まずかった。だが、アドラーは続けて言った。

    「あぁ、まぁ……あんたはどうせいろいろと調査に関わってるんだろうけど。」

    その口調は、どこか冷ややかだったが、決して攻撃的ではなく、むしろ何かを試しているように思えた。彼はその一言に反応して、思わず答えようとした。

    「え、あ、はい、まぁ……」

    言葉がうまく出てこない。アドラーの目線を避けるように、彼は再びコーヒーを口にする。これで少し落ち着くつもりだった。しかし、その不安感は依然として彼の心の中に残ったままだ。

    一方、ウルリッヒは彼の様子を見て、ちょっとだけ口元を緩めて笑った。

    「キミ、面倒くさいな。」

    その言葉は少しだけ優しさを感じさせるものだったが、彼にはそれがどうしても彼らの皮肉に聞こえてしまう。



    §




    彼は書類を手にしたまま、ふらふらと廊下を歩いていた。頭の中にはまだウルリッヒとアドラーの会話がこびりついており、その後に続いたコーヒーでのむせかえりや、アドラーが見せた冷ややかな表情が頭から離れない。足元はふらつき、書類を握る手の力もどこか抜けていた。

    「やっぱダメだ、俺は……」

    ぼんやりと考えながら、彼は足を進める。職場の雰囲気がどこかいつもと違って感じられる。ウルリッヒとの会話、アドラーの反応、そしてその後のコーヒーを飲んだり、むせたりする一部始終が、彼の中でぐるぐると回っていた。

    そのうち、いつの間にかオフィスの扉の前に立ち、彼は深呼吸を一つ。

    「はぁ……」

    上司が待っている部屋へ足を踏み入れる。デスクに向かって座っているその人物は、彼が持ってきた書類を待っているはずだった。だが、彼が扉を開けた瞬間、上司の視線が一瞬だけ鋭くなる。何も言わずに、ただ目を光らせているその顔には、明らかに不満が滲み出ていた。

    彼はそのまま、ふらふらと机の前に歩み寄り、書類を差し出す。

    「あ、すみません……これ、エニグマからの署名入りです。」

    上司の目が厳しくなり、思わず彼の表情がひきつる。

    「おい、お前、何だこれは?」

    上司の声が、彼の耳に突き刺さる。強い口調に、心の中で上司に殴り飛ばし、自信が昇進するシーンを思い描いていた。

    彼は、うろたえた顔で目の前に広がるコーヒーのシミを見つめ言葉を失っていた。シャツの前面もズボンの裾も、コーヒーで染まってしまっている。その不注意が、こんなにも露骨に自分をさらけ出してしまうことに、心の中で呆然としてしいたが、やはり上司はウザイ。

    上司は書類を手に取って、それに付いたコーヒーを見つめ、さらに眉をひそめる。

    「どういうことだ、お前。書類にコーヒーが付いてるだろうが、」

    その言葉に、彼はさらにこめかみに数本血管を浮かび上がらせる。自分の意識は、まるで他人のように遠くなり、目の前にいる上司の表情が霞んで見える。

    上司は書類を投げ出すように机に放り、手を広げてため息をつく。

    「この書類にこんな汚れが付いてるなんて、あり得ないだろうが。お前、管理もできないのか?!」

    その声はどんどん強くなり、まるで自分を責めるために言葉を重ねているかのようだった。彼はその重圧に耐えきれず、下を向いてしまう。相変わらず今日もハゲ散らかしている上司の顔を見ると笑いそうになるためだ。

    「まったく……これがお前の仕事か? こんなことがあって、どうして普通に働けるんだ!」

    上司はもはや文句のような言葉を並べ続けている。それでも彼は、どうすることもできなかった。ただ、ひたすらに心の中で上司に撲りとばす妄想をしていた。

    そして、その沈黙が続いた後、上司が深く息を吸い込み、再び声を荒げる。

    「こんな汚れた書類を持ってきてどうすんだよ、ほんとに……」

    彼は黙って、ただその声に従うしかなかった。上司が言うことが正しい。そうだ。自分がうっかりした結果がこれだ。それは完全に自分の責任だった。だけどやっぱり上司はウザイ。

    そのまま、自分の服も気にせず、ただ目の前の書類と上司に向き合っていると無意識に声が漏れた。

    「すみません……」

    彼はそれしか言えなかった。それが精一杯だった。




    §




    彼は上司の言葉が耳に入ってこない。ただひたすらに、自分の目の前で膨らんでいくコーヒーのシミ、そしてそれがどんどん広がっていく様子に、心を奪われていた。上司が何度も繰り返す怒声は、まるで遠くの方から聞こえるような、音のない空間の中に閉じ込められたかのように感じられる。

    上司の顔が徐々に真っ赤に変わり、顔を真横に向けてその怒りを振り絞るように、彼に向かって吠えかけてくる。

    「お前、今何言った!? 何でんなことを聞くんだよ!!」

    彼はその怒鳴り声を聞き流すように、目を伏せて、何も言わずに立ち尽くしていた。肩にかかる重圧が、どんどんと大きくなり、ふと心の中にあった疑問が思わず口をついて出てしまった。

    「……社内恋愛ってアリなんですか、こんなストームの中」

    その言葉が部屋に響いた瞬間、彼自身もその意味が何だかよく分からなかった。ただ、自分の心の中で沸き上がった質問を、勢いに任せて吐き出してしまっただけだった。

    言った瞬間、彼は自分の言葉に驚き、すぐに後悔の念がこみ上げてきた。だが、もう遅い。上司の表情が凍りつくのを見たからだ。

    上司はしばらく無言で彼を見つめていた。まるで何を言われたのか理解できなかったかのように、その目には驚きと混乱の色が浮かんでいる。

    「社内恋愛……?」

    上司は目を細め、いぶかしげに彼を見つめる。そして、すぐにその顔を真っ赤にして、またしても激しい口調で言い放つ。

    「お前、何が言いたいんだ! 仕事に集中しろ!! それとも社内恋愛の方が大事か!!?」

    彼はその言葉にまた驚いたが、心の中ではそれどころではなかった。あまりにも大きな現実に自分が巻き込まれているという感覚に、どうしても整理がつかない。自分の周囲で何が起こっているのか、それすらも理解できなかった。

    上司の怒りが次第にエスカレートしていくのを見ながら、彼はその目を自分の前で何度も横切る焦点に合わせることができず、ただ肩を縮めて立ち尽くしているしかなかった。彼の中で、すべてが混乱し、爆発寸前だった。

    「……本当にお前、どうしたんだ?」

    上司が力なく呟く。その言葉に彼は何も言えず、ただ目を合わせることができなかった。しばらく沈黙が続いた後、上司は深く息を吐き、再び大きな声を出して怒鳴りつけた。

    「いいか!今はそんなことを考えている場合じゃないんだよ! 仕事に戻れ!!」

    彼は無言で頷き、下を向いたまま部屋を出ようとした。しかし、歩みを進めることができず、足元がふらついて、そのまま何度も何度も深呼吸を繰り返すだけだった。

    心の中では、どうしようもないほどの情緒が爆発しそうで、涙さえこみ上げてくるのを感じていた。しかし、そんな感情すらも言葉にすることができず、ただその場から逃げるように部屋を後にするのだった。



    §



    彼は無意識に、アルミ製のプレートにフォークを当てては、何度も空振りしている。食事の時間だというのに、胃の中に食べ物を入れる気力すら湧いてこない。目の前に広がる食事は、香りさえ感じられない。皿の上で無意味に動かすフォークの先端が、ひときわ冷たく感じられる。視界はぼんやりと霞んでいて、同僚の声も遠くから聞こえてくるようだった。

    彼の脳裏には、上司の怒鳴り声が何度もリフレインしている。上司の言葉は刺さり続け、心の中でぐさぐさと疼く。コーヒーまみれになった服のことも、あの瞬間の彼自身の無様な姿も、どうしても忘れられなかった。

    「なぁ!なぁってば!おーい?」

    同僚の声が、何度も響いてきた。ようやく現実に引き戻されたような気がして、彼は顔を上げた。目の前には、同じ部門でよく一緒に働いている、少し年上の男が立っていた。彼は彼の沈んだ表情に気づき、心配そうに眉を寄せている。

    「お前、今日どうしたんだ? 全然食べてないじゃないか。」

    彼は口を開こうとしたが、言葉が出てこない。あの出来事の後では、どんな言葉も浮かんではこない。しばらく無言で食事を続けようとしたが、胃はどうしても受け入れようとしない。小さく咳払いをしてから、やっとのことで言葉を絞り出した。

    「……いや、別に大丈夫っす。」

    その言葉を吐き出すと、同僚は無理に明るく振舞う彼に、少し微笑みながらも何かを感じ取ったようだった。同僚は目の前の食事に目を向け、その後、静かに言った。

    「無理すんなよ。最近、色々あったんだろ? あまり無理して、そんな顔してたらダメだぞ。」

    彼は一瞬、その言葉に反応しそうになったが、気まずくなって目をそらした。顔を赤らめるのが怖かった。自分がどうしようもなく弱く、そんな自分が恥ずかしくて仕方がなかった。けれど、同僚の優しい言葉に、少しだけ心が温かくなるのを感じた。

    「そう…っすかね。」

    彼は無理に笑ってみせたが、それでもその笑顔はどこかぎこちない。しばらく沈黙が続き、食事の音だけが響く。

    同僚はしばらく黙って彼を見つめ、やがて彼の表情を見て少し肩をすくめた。彼の表情は、何かを察したように、そして、無理に励ますこともせず、ただ黙ってその場に座っていた。

    「お前、もし気になることがあったら話してみろよ。俺にできることなら、力になるからさ。」

    その言葉に、彼は答えることなく、ただ頷いた。心の中では何もかもが混乱していて、結局その答えを言葉にすることができなかった。

    でも、同僚の優しさが少しだけ胸に染みてきた。無理に食べなくてもいいと思いながら、彼は目の前のプレートに視線を戻す。そこで、ふと、同僚が突然話題を変えた。

    「それにしても、あの上司、やっぱり厳しいよな。あんなに怒ってるなんて、だからストレスでハゲ散らかしてんじゃねぇの。」

    その言葉に、彼の脳内は一瞬で静まり返った。突然、あの怒鳴り声、そして自分の顔を赤らめたあの瞬間が蘇る。胸が締めつけられるような気持ちになり、口の中が乾いてきた。

    「はは、確かに。」

    軽く答えるのが精一杯だった。同僚はそれ以上言わず、ただ少しの間、彼のことを気にして見守っていた。



    §




    それから、再びしばらくの間、静かな空気が流れた。彼はその沈黙を破ることなく、食事を取ることができる気力もないままでいた。

    同僚は、彼の隣にドカッと腰を下ろし、ため息を一つついた。彼の表情は、どこか不満を抱えているようで、食堂の雑多な雰囲気に馴染みつつも、その態度からは明らかに上司に対する不満が滲み出ていた。

    「マジで、あの上司さ……」

    同僚は、腕を組みながら小声で始めた。

    「また、なんかイラついてたよな。あんな顔されると、こっちも気分悪くなるつーの!」

    彼は、ほんの少しだけ顔を上げたが、同僚の言葉に完全に集中する気力もなく、ただ黙って座り込んでいた。同僚はそんな彼の様子を気にすることなく、まるで愚痴を言うことが日常の一部であるかのように続ける。

    「ほんと、こっちの事情なんて全然理解しようとしないしさ、毎度毎度あんなに文句ばっかり言ってくるの、うんざりだよ。」

    同僚は、テーブルの上に置かれたコーヒーカップを手に取り、ぐいっと飲み干した。その後、カップを置きながら、軽く首を振る。

    「あれで仕事が進むわけがないってのに、毎回やり方ばっかり押し付けてくるんだからさ。」

    彼は、彼の言葉がどこか遠くで響いているように感じていた。頭の中はまだ上司の怒鳴り声や、先ほどの出来事に囚われていた。だが、同僚の言葉が響く度に、少しずつ心の中に変化が起きていた。それは、まるで日常に戻りたくても戻れないような、そんな不思議な感覚だった。

    「お前もさ、あの時のこと覚えてるだろ?」

    同僚は、今度は少しだけ笑みを浮かべながら言った。

    「あいつ、絶対に自分が間違ってるって認めたくないんだよな。あれだけ口を酸っぱくして言ってんのに、まるで聞く耳持たないし。」

    その言葉に彼は小さく頷いた。もちろん、あの瞬間のことは覚えている。上司の怒鳴り声、そして自分の焦り、そして何よりあの厳しい表情が頭から離れなかった。あれは、自分だけでなく、誰にとっても厳しい時間だったに違いない。

    「そういえば、昨日も言われたんだよな。」

    同僚は、少しだけ舌打ちをしてから続けた。

    「“お前らは本当にダメだ”ってさ。そんなこと言うぐらいなら、まず自分がやれって思うよ。俺らはただ言われたことをやってるだけだろうが!」

    同僚の声はだんだんと大きくなり、周囲の視線を集めることになったが、同僚はまったく気にせず話し続けていた。彼は、ため息をつき、視線を床に落とす。確かに、同僚の言っていることは正しい。上司は時折、彼らがやっていることを軽んじるような態度を取ることがあった。

    「だからさ、あいつに何言われても、あんまり気にすんなよ。」

    同僚は一度深く息を吸い込み、真剣な眼差しで彼に言った。

    「俺たちは、別に能無しでもないんだし、なんとかなるさ。最悪、あいつの少ない髪の毛抜いてらればいいんだから。」

    その言葉が、彼の胸にじわりと染み込んできた。今までの自分の中での苦しみや、上司からの怒声が少しだけ和らいだような気がした。同僚は、ただ愚痴を言っているだけかもしれないが、その中には不思議と温かさがあった。彼の言葉が、彼にとっては救いのように響いてきた。

    「でもな、次からは少しだけでも、自分の立場を守ってみろよ。」

    同僚は言葉を続けた。今度は少しだけ力強さを感じさせる口調で。

    「黙って仕事をこなすだけじゃ、何も変わらないからな。」

    彼はその言葉に少し驚き、目を見開いた。これまで、彼はどうしても自分が上司の命令に従うことを最優先にしてきた。だが、同僚の言葉が心に深く響き、少しだけ自分に自信を持ってみようという気持ちが湧いてきた。

    「……ありがとう、先輩。」

    彼は、ほんの少しだけ顔を上げて、心から感謝の気持ちを込めて言った。同僚は、にやっと笑い、軽く肩を叩いた。

    「どういたしまして。お前はまだまだ若いんだからさ。無理せず、少しずつ慣れていけよ。」

    その言葉に、彼はほっと胸を撫で下ろした。そして、再び目の前のプレートを見つめながら、少しずつ食事を進めることにした。同僚の言葉が、何よりも大きな支えになっていた。

    食堂の騒音や他の同僚たちの話し声が、徐々に遠く感じられるようになり、彼の中で何かが少しずつ解けていった。食べ物をひと口、口に入れるたび、少しずつ、自分を取り戻しているような気がした。

    その時、また同僚が口を開いた。

    「お、平衡傘のトップじゃん」

    隣の同僚が、食事の手を止め、彼の肩を肘でガシガシと小突きながら言った。

    「は?」

    彼は気のない声で返しながら、なんとなくそちらへ目をやる。どうせまた誰かの噂話だろう、と気だるげに視線を向けた先——そこにいたのは、アドラーだった。

    「……ッ」

    一瞬で血の気が引いたかと思えば、次の瞬間には逆に顔が熱くなっていくのを感じる。

    アドラーは無表情のままカフェテリアの奥へ進んでいく。白のタートルネックにロングコートを羽織り、整然とした足取りで列へ並ぶその姿は、冷静沈着な軍人そのものだった。

    なのに——なのに。

    彼の脳裏には、今朝目撃した光景が焼き付いて離れない。

    (やめろ、思い出すな。今はそういう時間じゃない)

    そう言い聞かせるのに、脳は勝手に映像を再生しやがる。

    寝起きでぼんやりしていたアドラー。少しだけ肌けた首元。職員タグを引っ張られても抵抗せず、されるがままだった姿。そして、貰ったコーヒーを素直に口にする様子——。

    あの守備の硬い男が、無防備で、力の抜けた姿を晒していたことが、彼には衝撃的すぎた。

    (なんなんだよあれは!! いや、冷静に考えろ。学者なんだから休憩くらいするだろ、普通に考えて当然だろ!? でも!! でもさあ!!!)

    「……お前、なんで顔赤くなってんの?」

    隣の同僚が、訝しげな視線を向けてくる。

    「は?」
    「いや、お前まさかアドラーのこと好きとかねえよな……?」
    「ちげえ!!!!!!!」

    彼は、反射的に声を荒げた。しかし、その勢いが余計に怪しさを増してしまい、同僚は心底ドン引いた顔をする。

    「いやいやいや、ちょっと待てお前……いや、マジで? えぇ……?」

    同僚が椅子ごと少し距離を取る。そのリアクションに、彼はさらに焦った。

    「違うって言ってんだろ!!!!」
    「……じゃあ何? なんでお前今、そんなに動揺してんの?」
    「そ、それは……」

    (違うんだよ……! 違うんだけど、でも……!!)

    彼は再びアドラーをちらりと見る。彼は相変わらず何の感情も表に出さず、淡々と食事を選んでいる。いつもの冷静なアドラー。あんなの、色気のカケラもない、ただのひねくれ学者の動きだ。

    なのに、なのに……!!

    (なんでそんなにエロく見えるんだよ!!!!!!!!)

    彼は己の思考に絶望した。

    同僚は「……いや、マジでそっちの趣味なら別にいいけどさ……」と困惑しつつ、少し椅子を引いた。

    「——あ」

    隣の同僚がまたどこかに目をやっていた。

    (この先輩、ほんといつもキョロキョロしてんな……)

    彼は半ば呆れながら、彼の視線を追う。すると——

    「あ」

    ウルリッヒがいた。

    整った制服姿、無駄のない動作、端正な顔立ち。誰がどう見ても「優秀な班長」と一目で分かる風格。が、彼にとってはそれどころではない。

    (なんでいるんだよ……!!!!)

    ただでさえアドラーのことで頭がいっぱいなのに、よりにもよってその側近がここに現れるとは、心臓に悪すぎる。

    「ミスター・ウルリッヒ! お疲れ様です!」

    そんな彼の動揺をよそに、同僚はずかずかと声をかけた。

    「……ところで、なんでそんなに一日の食事を抱えてるんです?」

    そう言って、ウルリッヒの両腕に抱えられたペーストパックを見る。同僚の言う通り、それは明らかに「一人分」とは思えない量だった。

    (やめろ!!!!!!)

    彼は内心、頭を抱えた。これ以上、余計な情報を入れるな。俺はもう限界なんだ!!!

    「あぁ、これはミルトン部長から貰ってきたものだ。」

    ウルリッヒは淡々と答えながら、両手に抱えた一日の食事に目をやる。

    「えぇ? そんな不味いもの食べるんです?」
    「——いや、ボクでは無い。アドラーの分だよ。長期戦に備えてね。」

    その瞬間、彼の思考は一瞬で真っ白になった。

    (長期戦……???)

    意味が分からなかった。いや、ラプラス職員なんだから長時間の作戦や任務は当たり前だ。補給を考えて食事を確保するのも当然だろう。

    だが、それよりも衝撃的なのは、「一日の食事を7日分も」 という事実だった。

    (いやいやいやいやいや!!!!!!)
    (こいつら何時間ヤる気だよ!!!!!!!!!!!!!!!!!)

    彼の心臓はバクバクと鳴り、顔が一気に熱くなる。

    しかも、それを渡すのがウルリッヒだというのが、さらに想像を加速させる。

    今朝見た、アドラーの少し乱れた姿。ウルリッヒにされるがまま職員タグを引かれていた様子。渡されたコーヒーを素直に飲んでいた従順さ。

    (やめろ!!!!!!)

    (俺の頭、考えるな!!!!!!)

    「おい、お前また顔赤くなってんぞ?」

    隣の同僚がジロリと睨んできた。

    「いや、違……」
    「お前、まさかまたアドラーのこと考えてんのか?」
    「違う!!!!!!!」

    彼は声を荒げたが、明らかに挙動が怪しかった。

    一方でウルリッヒは彼の反応にまったく気づいていないのか、特に気にも留めず、静かに頷いた。

    「ふむ、まぁアドラーは体力の消耗が激しいからね。しっかり補給しないと。」

    (体力の消耗!!!!!!!!!!!!)
    (そうだよな!!!! そりゃ消耗するよな!!!! だってこいつら!!!! 長期戦するんだから!!!!!!!!)

    彼はもう駄目だった。完全に壊れかけている。

    「……お前、ほんとそっちの趣味あるなら言っとけよ」

    同僚の呆れた声が聞こえた。

    しかし——

    彼の脳裏には、どうしても今朝見た光景がちらついていた。

    少し乱れた髪、第一ボタンが外れたシャツ、無防備な寝起きの姿。ウルリッヒがアドラーの職員タグを軽く引っ張った時の、されるがままの従順さ。手渡されたコーヒーを、何の疑問も抱かずに口に運ぶ様子。

    ——なんなんだ、あの雰囲気は!!!

    絶対にただの「上司と部下」って関係じゃねぇ!!!!!!!!

    (これはもう、絶対、確実に……!!!!!)
    (俺が思ってるような関係なのでは……????)

    想像が止まらなかった。止めようと思えば思うほど、脳内の映像は鮮明になり、勝手に補完され、より具体的に、より生々しく、より「セクシーな」ものへと仕上がっていく。

    例えば——

    仕事終わりに二人きりのオフィスで「また徹夜ですか」と心配するウルリッヒに「お前が一緒なら……悪くない」とアドラーが返すシーンとか。

    例えば——

    戦闘後、肩を貸されながら「お前は俺の補給源か?」と冗談めかすアドラーに、ウルリッヒが「貴方のためなら、いくらでも」と真顔で返すシーンとか。

    (無理無理無理無理無理無理!!!!!!!!!!!!)
    (俺の知らないところで何が起きてんだよ!!!!!!)
    (いや、知りたくねぇ!!!!!!!!!!!!)

    ぐらぐらと湧き上がる妄想に耐えきれず、彼の脳は限界を迎えた。

    ——ドバッ

    「…え?」

    突如、鼻腔を駆け抜ける温かい感触。気がつけば、自分の鼻から赤い液体がしたたり落ちていた。

    鼻血だった。

    しかも、なかなかの量である。

    「……は?」

    隣にいた同僚が、食べかけのフォークを止め、露骨に顔をしかめる。

    「お前……マジで何考えて鼻血出してんだよ」

    いや、こっちが聞きたい。

    「いや、ちが……」
    「違くねぇだろ!!!」

    同僚はガタッと椅子を引いた。まるで未知の生物を見るような目でこちらを見つめ、じりじりと距離を取る。

    「お前、ほんとにアドラーのこと考えて……? いや、マジで??」
    「……」

    何も言えなかった。

    というか、言い訳のしようがなかった。事実として、アドラーとウルリッヒの関係を想像し、その結果として鼻血を出してしまったのだ。

    この状況で「いや、違うんだ」と弁解しても、余計に誤解を深めるだけである。

    やばい。

    どう考えても、やばい。

    彼は、ひたすら袖で鼻を押さえながら、なんとかこの場を取り繕おうと必死だったが——

    「……俺のケツは狙うなよ?」

    同僚が、眉をひそめながら本気とも冗談ともつかない声で言った。

    「ち、違う!!!」
    「いやいやいや、さっきの様子見たら誰でもそう思うって……」

    フォークを置き、同僚は頭を抱えた。

    「お前、まじでそっちの趣味だったんだな……いや、いいんだけどさ、個人の自由だし。でもな、俺のケツには絶対に手ぇ出すなよ。絶対にだぞ?」
    「だから違ぇって!!!!!!!」

    彼は全力で否定したが、同僚の目には明らかに疑いの色が浮かんでいた。

    そして、そんな二人のやり取りを聞いていたウルリッヒは——

    「?」

    ただただ、首を傾げていた。



    §




    「……何してんだよ」

    突然響いた低い声に、彼はびくりと肩を揺らした。

    アドラーだ。

    鋭い視線をこちらへ向け、長い脚でズカズカと歩み寄ってくる。その足取りには、明らかに警戒の色が滲んでいた。

    いや、そりゃそうだろう。

    目の前では彼が両鼻から勢いよく鼻血を吹き出し、隣では同僚が「ミスター・アドラー逃げて!! ケツが!!」などと意味不明な叫びを上げているのだから。

    まさに阿鼻叫喚。

    いや、冷静に考えてみれば、これ以上ないほどの地獄絵図だった。

    しかも、アドラーはウルリッヒが抱えている大量の食料パックを目にした途端、明らかに表情を強張らせた。

    ぎょっとしたように目を見開き、険しい顔でウルリッヒを睨む。

    「……まさかまた強制的に食わせてくるんじゃねぇだろうな?」

    食料パックを指さしながら、低い声で念押しするアドラー。

    その一言に、彼の脳裏は瞬時に「ある映像」を再生し始めた。

    ——暗い部屋。

    ——机の上に並べられた栄養補給用の流動食。

    ——アドラーの両腕をがっちりと押さえつけながら、ウルリッヒが無言で接種口を口元へ運ぶ。

    ——「食べないなら、ボクが直接口移しで食べさせるよ?」

    ——「っ……!? バカ!! 近寄んな!!」

    ——それでも容赦なく流動食を押し付けるウルリッヒ。

    ——逃げ場を失い、なすすべもなく口を開かされるアドラー。

    ——「いい子だ、アドラー」

    ——「っ……!?」

     

    (うおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!)

    彼の想像は暴走した。いや、加速した。最早止めようがない。

    気づけば、先ほどよりさらに勢いよく鼻血が噴き出していた。

    ズビュゥッ!!!!!!!!

    今度は右だけでなく、左の鼻腔からも鮮やかな赤が流れ落ちる。

    ——いや、もうこれは鼻血どころの騒ぎじゃない。出血多量でぶっ倒れるレベルだ。

    「……おい、マジで何が起きてんだよ」

    アドラーが困惑したように眉をひそめ、ウルリッヒの方を見やる。

    しかし、当のウルリッヒは至って冷静なまま、何の疑問も抱かずに淡々と告げた。

    「キミがしっかり補給すればいい話だ。」

    ——その瞬間、彼の妄想が最高潮に達した。

    (駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!!!!!)
    (何この圧倒的包容力!!!!!!!!)
    (これもう完全に……完全に……!!!!!!!!)

    ——ブシュゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!!!!!!

    両鼻から滝のように流れ出す鼻血。

    あまりの勢いに、近くにいた同僚が悲鳴を上げた。

    「おいおいおい!! どんだけ出してんだよ!? てかなんでお前今のでそんなに興奮してんだよ!?」
    「……ケツが……ケツが……!!!!」

    もう何を言っているのか、自分でもわからない。

    そんな中、同僚が完全に顔を引きつらせながら、アドラーに向かって叫んだ。

    「ミスター・アドラー!! 逃げて!!!!!! ケツが!!!!!!!!!!」
    「は?????」

    当然のように困惑するアドラー。

    それもそのはずだ。

    目の前では、見ず知らずのしがない職員が鼻血をまき散らしながら「ケツが……ケツが……」と意味不明なことを呟いているのだから。

    もはや異常事態にもほどがある。
    ——この場にいる全員が、同じ感想を抱いたことだろう。

    そう、ただひとり、ウルリッヒを除いて。

    彼はただ静かに、彼の鼻血を一瞥し——

    「……貧血かい?」

    と、至極真面目な顔で呟いた。



    §





    「それはそうと、アドラー。今夜ボクの部屋に来てくれ。」

    ウルリッヒが、ごく自然な声色で言った。

    鼻血を押さえて、地面に膝をつきかけていた彼の動きがピタリと止まる。

    「……は?」

    不意に鼓動が跳ね上がった。
     今……今何と……?????

    「続きがプレイしたい。」

    彼の脳内に、ありとあらゆる妄想が炸裂する音が響いた。

    続き?????プレイ?????

    今夜……?????

    ウルリッヒの部屋で?????

    何を???????????

    それを聞いたアドラーは、特に気にする様子もなく頷きながら答える。

    「あぁ、あの奥は少しキツいからな。慣らしながら行こう。」

     

    (ブッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!)

     

    それまで鼻血を流していた彼の喉奥から、今度は鮮やかな赤が逆流した。

    盛大に吐血である。

    それも、ほんの数滴とかではない。

    ゴボッ、と音を立てながら、口から大量の血液があふれ出た。

    まるで劇的な最期を迎える映画の登場人物のような惨状である。

    「お、おいおいおいおい!!!!!!」

    同僚が血相を変えて彼の肩を揺さぶる。

    「おい!!! 誰か!!!! 誰か!!!!!」

    彼の叫び声が、廊下中に響き渡る。

    「メスメルかメディスンポケット呼んで!!!! こいつマジで死ぬ!!!!!」

    あまりの騒ぎに、近くにいた他の職員たちも驚いて振り向く。
    食堂の一角が一瞬で混乱に包まれた。

    「おい、お前!! しっかりしろ!!!」

    同僚が焦りながら彼の頬をパチパチと叩く。

    だが、彼はもはや虚ろな目で天井を見つめ、口元から血を流しながら「続き……プレイ……奥が……キツい……」と意味不明な言葉を繰り返すのみだった。

    完全に意識が飛びかけている。

    その様子を、ウルリッヒとアドラーは——

     

    ……さすがに引いていた。

     

    「いや、えぇ……」


    アドラーが思わず顔をしかめ、距離を取る。

    血の量が尋常ではない。

    明らかに鼻血の域を超えているし、何ならリハビリセンター送りになってもおかしくないレベルだ。

    ウルリッヒも、少し目を見開いた後、冷静に呟く。

    「……貧血どころの話じゃないね。」
    「つーか、こいつ何を聞いてそんなことになってんだよ。」

    アドラーが心底困惑したように彼を見下ろしながら、ぼそりと呟く。

    確かに、ただゲームの話をしていただけのはずだ。

    「……奥がキツいっていうのは、ゲームの話だよな?」
    「当然だろう?」

    ウルリッヒは淡々と答える。

    「昨日プレイしたステージの奥のルートが難しかったから、少しずつ慣らしていこうと思っただけだよ」
    「そうだよな。」

    アドラーが頷く。

    「大体、奥のルートは狭いし、敵も多いからな。ちゃんと戦略を立ててプレイしねぇと、すぐやられる」
    「あぁ、無理に突っ込むと体力を削られるから、じっくり攻略した方がいい。」

    至極真面目なゲーム談義を交わす二人。

    しかし、その会話をまともに理解できる者は、すでにここにはいなかった。

    「ぐふっ……」

    彼は血を吐きながら、白目をむいて気絶寸前。

    同僚は必死に彼の顔をバタバタと扇ぎながら「おい!! メスメル!! メディスンポケット!! 早く来い!!!」と叫び続ける。

    「……なあ」

    そんな光景を見つめながら、アドラーはウルリッヒにぼそりと呟いた。

    「なんか俺たち、ものすげぇ悪役みたいになってねぇか?」
    「そうだな。」

    ウルリッヒは、微妙な表情で彼を見下ろしながら答えた。

    そして、ほんの少しだけ、後ずさるのだった。

    「……とりあえずアドラー、今夜準備しておいてね。」

    ウルリッヒの何気ない一言が、食堂の静寂に溶け込んだ。

    しかし——

    それを耳にした彼は、ピタリと動きを止めた。

    空気が、一瞬にして張り詰める。
    血まみれの顔、白目を剥いた瞳、今にも崩れ落ちそうな膝——
    彼はまるで、自分の運命を悟ったかのように硬直していた。

    「———」

    心臓が、跳ね上がる。
    脳が、焼き切れる。
    身体が、興奮で震える。

    ——準備……!?
    ——今夜……!?
    ——する……のか……!?

    脳内に浮かぶのは、先ほどの二人の会話。

    『あぁ、あの奥は少しキツいからな。慣らしながら行こう』
    『長期戦に備えて一日の食事を7日分も……』
    『キミがしっかり補給すればいい話だ』

    全てが繋がった(※繋がっていない)。
    これは……これは……!!

    「アッ」

    次の瞬間、彼の意識は弾け飛んだ。

    ——ズシャァァァァッッ!!!!

    彼の身体が、無造作に床へと倒れ込む。
    周囲に響き渡る鈍い音。
    かと思えば、その口元から再び鮮血が噴き出し——

    「うわああああああああああ!!!!!!!!」

    同僚の絶叫が、食堂にこだました。

    「おい、マジか!?おい!!??」

    同僚は、血まみれの彼を揺さぶった。
    しかし、その顔はすでに生気を失い、瞳は虚空を見つめている。
    ピクリとも動かない。

    「こいつ……絶命してる……!?」

    同僚の手が震えた。
    まさかこんなことで……!?
    いや、こんなことってなんだ???

    「おい!!! 誰か!! メスメルかメディスンポケットを呼んでこい!!!」

    同僚の叫び声に、周囲の職員たちも慌てふためく。

    「え、えっ、これ本当に死んでるの……??」
    「ど、どこからどう見ても……」
    「えっ、血、さっきよりやばくね!??」
    「おいおい、もう一回脈測れ!!!」

    同僚が必死で彼の首元に指を当てた——が、

    「…………ない」
    「———え?」
    「脈が……ねぇ……」

    食堂の空気が、凍りついた。

    「………………」
    「………………………………」
    「……………お前マジで死んだ???」

    ——いやいやいやいや。

    いくらなんでも、こんなことで死ぬはずがない。
    そう思いたい。そうであってくれ。

    だが、どう見ても彼の体温は急激に下がり、肌は青白くなり、唇は紫色になっている。
    完全に、死亡フラグが立っている。

    「おいおいおいおいおい……」

    同僚は震える手で自分の髪をかきむしる。
    これは、もしかして……いや、もしかしなくても……

    「こいつ、興奮しすぎて死んだ……!?」

    あまりの衝撃に、周囲の者たちは思考を停止させた。

    「おい!!! いいから早く医療班呼んでこいって!!! 誰か、早く!!」
    「え、ええと……ああ、リハビリセンターに連絡を……」
    「もう遅いかもしれねぇだろ!? こいつマジで死んでんだから!!!!」

    同僚の焦燥に、他の職員たちもつられるように動き出す。

    やがて——

    「何事だ!」

    いつも彼とよく行動を共にしていたリハビリセンターの職員たちが現れた。
    彼は倒れた彼を一瞥し、淡々と言う。

    「またか」
    「いや『またか』じゃねぇよ!!!!!」

    同僚は今にも食ってかかりそうな勢いで叫んだ。

    「こいつ、死んだぞ!?!? 興奮して!!! 死んだんだぞ!!!!?」
    「まあ、どうせすぐ蘇生する。」
    「…………………………」
    「こいつ、定期的にこうなるんだ。」
    「………………え?????」

    呆然とする同僚をよそに、リハビリセンターの職員たちは再び手慣れた手つきで彼の身体を持ち上げる。

    「ほら、さっさと運ぶぞ。」
    「また血まみれになってるな……清掃班呼んどくか。」
    「え、ちょ、待って、なんでそんな慣れてんの!?!?」
    「どうせ数時間後には目を覚ますさ。……たぶんな」
    「いやたぶんじゃなくて確実にしてくれよ!!!!」

    だが、彼らはまるで「これが日常業務です」とでも言わんばかりの顔で、彼を運び去っていく。
    やがて、食堂には——

    真っ赤な血の跡と、死んだ(かもしれない)彼の運命を嘆く同僚の声だけが残されたのだった。

    「……」

    あまりにも悲惨な光景に、周囲の職員たちも沈黙する。
    誰もが言葉を失い、ただ血まみれの床を見つめていた。

    「……あのさ」

    そんな沈黙を破ったのは、アドラーだった。
    彼は、唖然とした様子で食堂の床を見渡しながら、静かに呟いた。

    「これ、俺たちが悪いわけじゃないよな?」
    「さあ……」

    ウルリッヒは、どこか遠い目をしながら答えた。

    少なくとも、彼らはただゲームの話をしていただけである。
    それがどうしてこうなったのか、二人にはまるで理解できなかった。
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