俳優パロアドラーはメイクルームの隅で腕を組み、眉間に皺を寄せながらモニターを睨んでいた。スクリーンに映し出されているのは、撮影中のスチル写真の確認映像。次々と流れる写真の中に、彼の顔が何度も登場していたが——どれもこれも、見事にマヌケ面だった。
「なんで俺だけ……こんな顔してんだよ。」
低く呟いた声は、微かに苛立ちを滲ませている。画面には、ミス・ルーシーとのスチルが映し出されていた。ラプラスの廊下、冷たいコンクリートの前でルーシーが謎を秘めたように見上げている。その隣——問題のアドラーは、口を半開きにしたまま虚ろな目で立ち尽くしていた。
「はぁ……これ、緊張感ゼロだろ……。」
何度目かの溜息が漏れた。ルーシーの繊細な演技が際立つ中、彼は完全に置物。いや、むしろ背景のオブジェよりも間抜けな存在感を放っている。
「おい、次。」
スタッフに声をかけると、画面が切り替わった。今度はウルリッヒとのスチル。研究室の中、モニターの光に照らされた2人が一点を見つめている。ウルリッヒは完璧だ。満足気な眼差し、興奮に満ちた口調——観客の心を揺さぶるような表情がそこにある。
しかし、その対面に立つアドラーは——
「……なんで俺、口開けてんだ?」
ポカンと半開きの口、微妙に焦点の合っていない瞳。まるで、数秒前に誰かが「は?」と言った瞬間を永遠に切り取ったかのような顔。
「え、これ俺の役って、バカの設定だったっけ?」
もう呆れを通り越して、乾いた笑いが漏れていた。ウルリッヒとのシーンは、作品中でも重要なシーンの一つ。感情が激しくぶつかり合う重要な場面だ。それなのに、アドラーの顔は完全に思考停止した間抜け顔で止まっている。
「これ、どう見ても『俺、今何してるんだっけ?』って顔だよな……。」
次のスチルも、また次のスチルも、同じようにマヌケ顔だった。立ち尽くす、振り返る、目を見開く——すべてのカットで、彼の表情は緊張感や哀愁とは程遠い。まるで、彼の脳内だけ時間が停止しているようだった。
「マジで……なんなんだよ、俺……。」
アドラーは頭を抱え、椅子にどさっと腰を下ろした。隣でメイク担当のスタッフが気まずそうに口を開いた。
「アドラーさん、カメラマンさんが『自然体で』って言ってたんで、あの……」
「自然体がこれかよ。」
思わず天を仰いだ。確かにカメラマンは「リラックスして」なんて言っていた。しかし、その結果がこれでは納得できるはずがない。
「俺だけ、ギャグ作品に出演してんのか?」
アドラーは自嘲気味に呟き、再びモニターに目を戻した。次の写真も、案の定、マヌケ顔。今度は雨の中でウルリッヒに背を向けるシーンだが、彼の顔は「何か言い忘れたかも?」とでも言いたげな戸惑いの表情。
「これ、カット全部差し替えとか……無理だよな。」
もう諦めるしかないのか。いや、明日には監督に直談判してでも、少しでもまともなカットを探してもらうしかない——そう思った瞬間、ふとスタッフの一人が小声で呟いた。
「……でも、なんかこの顔、意外と人気出そうですよ?」
「……は?」
アドラーは目を細めてスタッフを見つめた。
「いや、その、ギャップ萌えっていうか……アドラーさんって普段クールじゃないですか?でもこの表情、ちょっと無防備で……。」
「…………。」
アドラーは数秒沈黙した後、再びスチルに目を落とした。
「……マジかよ。」
心の中で静かに呟きながら、彼は深いため息をついた。
「……もう、知らねぇ……。」
そう呟きながらアドラーは再び溜息をつき、呆れ果てた目でモニターを見つめていた。もう何枚目のマヌケ顔だろうか。次々に映し出される自分の情けない顔を見るのも、さすがに心が折れかけていた。
「アドラー。」
低く落ち着いた声が背後から聞こえた。
「……ウルリッヒ?」
振り返ると、そこにはコーヒーの紙カップを2つ手にしたウルリッヒが立っていた。片手には彼自身の分、もう片方はアドラー用らしい。
「キミ、まだこんなとこで足止め食らってたのか。」
そう言って、ウルリッヒは黙ってアドラーに片方のコーヒーを差し出した。アドラーは少し驚いたように目を瞬かせたが、無言で受け取る。
「……ダンフ(独:ありがとう)。」
かすれた声で礼を言うと、カップを握った指にじんわりと温かさが伝わってきた。
「で、何見ているんだ?」
ウルリッヒはアドラーの隣に立つと、モニターを覗き込んだ。アドラーは一瞬、見せるのをためらったが——もう隠すのもバカらしい。
「見ればわかる。」
諦めたように肩をすくめ、アドラーは無言でモニターに目を戻した。ちょうどその時、次のスチルが表示された。
今度は、あの雨のシーン。ウルリッヒと背中合わせに立ちながら、アドラーが無言で別れを告げる場面だ。暗い雨粒が2人の影をぼかす中、ウルリッヒは感情を押し殺した表情で視線を落としている——完璧だ。まるで映画のポスターのようなクオリティ。
だが、アドラーは——
「……ん?」
ウルリッヒの目が僅かに細まった。
アドラーの顔は、またしてもポカンと口を開け、どこか遠くを見つめていた。まるで「今晩の夕飯なんだっけ?」と考え込んでいるような顔だ。
「は?」
ウルリッヒは目を見開き、次の瞬間——
「ぷっ……!」
耐えきれなかった。
「……ぷははははっ!!」
笑いが爆発した。
「っはははっ……ア、アドラー……キミ……!」
肩を震わせながら必死に笑いを抑えようとするものの、どうにも無理だった。ウルリッヒは口元を手で覆いながらも、笑い声が漏れてしまっている。
「おい……笑うな……!」
アドラーの目が細められ、明らかにイラついた空気が漂う。しかし、ウルリッヒはそれでも止まらない。
「いや、だってこれ……!」
もう一度モニターに目をやると、そこにはアドラーの間抜け顔がさらにアップで映し出されていた。ウルリッヒは再び吹き出した。
「うはははっ……!ダメだ、無理……!キミ、これ……演技じゃなくて、ただのボーッとしてる顔じゃないか……!」
「……ぶち殺すぞ。」
アドラーのこめかみに青筋が浮かんだ。
「そんなに笑いてぇなら——」
バンッ!!
次の瞬間、アドラーの手が思い切りウルリッヒの胸に叩きつけられた。
「うぐっ……!」
ウルリッヒのピチピチの胸筋に、アドラーの掌が容赦なく炸裂した。硬い。まるで石の壁でも殴ったかのような感触だ。
「……っつ!!」
アドラーは思わず手を引っ込めたが、ウルリッヒは微動だにしない。むしろ、痛みよりも驚きの方が勝っている様子だった。
「キミ……まじで叩いたな。」
ウルリッヒは笑いを引っ込めたものの、口元にはまだニヤつきが残っている。
「当たり前だろ。」
アドラーは眉間に皺を寄せ、コーヒーを一口飲んで憂さ晴らしをした。
「てか、お前の胸筋、硬すぎだろ……骨折るかと思ったわ。」
「そりゃ鍛えてるからな。」
ウルリッヒは肩をすくめ、再び画面に目を向けた。そして、まだ笑いの余韻が残っているのか、チラッとアドラーの顔を見ると——
「……ぷっ。」
再び口元が緩む。
「マジでやめろ……!!」
アドラーの怒鳴り声が控え室に響き渡ったが、ウルリッヒの笑いは止まらなかった。
「なぁ、アドラー。」
ウルリッヒは笑いながら、肩を叩いた。
「早く次のスチルにしたまえ」
「……マジで覚悟しとけよ。」
アドラーは忌々しそうに吐き捨てながらも、再びモニターに目を向ける。
次の瞬間——
そこに映し出されたのは、またしても口を半開きにした間抜け顔のアドラーだった。
「ぷははははっ!!」
「ウルリッヒ!!!」
アドラーの怒りの声とウルリッヒの爆笑が、控え室の空気を埋め尽くしていた。
控え室の空気は完全にカオスと化していた。
「ウルリッヒ!!!」
アドラーの怒鳴り声が室内に響き渡るが、それすらもウルリッヒの爆笑には届かない。
「っはははっ……あ、待て待て、次もあるじゃないか……!」
ウルリッヒは涙を拭いながらモニターを操作し、次のスチルを表示させる。
——そこに映っていたのは、まさかのミス・ルーシーとのスチルだった。
ラプラスの廊下。薄暗い照明の下、ミス・ルーシーが厳かな面持ちで立っている横で——
アドラーはまたしても、ポカンと口を開けてマヌケ顔。
「……おい、嘘だろ……。」
アドラーは顔を覆った。
「いや……これ……アドラー、これキミ……」
ウルリッヒはもうダメだった。腹筋が崩壊寸前だ。肩を震わせ、息を整えようとするも、再び笑いが込み上げてくる。
「ミ、ミス・ルーシーの隣で、なんでそんな顔してんだ……っはははっ!!」
「うるせぇ!!」
アドラーは顔を真っ赤にしながら、ウルリッヒを睨みつける。
「なんで俺だけこんな顔してんだよ……!このシーン、緊張感あっただろ!?マジでどうなってんだよ、カメラマンの陰謀か?!」
「くっ……ははは……いや……ちょっと待て……」
ウルリッヒは必死に笑いを抑えながら、画面を指差した。
「見たまえ、アドラー。キミ、ここで……あー、ダメだ、思い出すだけで……っふふふっ……」
「黙れ……!」
アドラーの怒りは頂点に達していた。
「くたばれ!磁性流体!!!」
ブンッ!!
勢いよく振り下ろされたアドラーの拳が、ウルリッヒの胸筋を再び襲う——が。
「ぐっ……!」
またしてもピチピチの胸筋に吸収され、アドラーの拳は弾かれるように跳ね返った。
「いてぇ……!!」
アドラーは手をさすりながら、悔しそうに顔を歪める。
「なんだよ、その胸筋……!ダンパーでも仕込んでんのか?」
「ははは、ボクの鍛錬を侮るなよ?」
ウルリッヒは涼しい顔で胸を張ったが、その口元にはまだ笑みが残っている。
「……くそ……もうコーヒー飲むわ。」
アドラーは拗ねたようにカップに口をつけた。
——そんな騒ぎの中、控え室のドアが静かに開いた。
「……楽しそうね。」
穏やかな声とともに入ってきたのは——ミス・ルーシーだった。
一瞬で空気が凍りつく。
「ミ……ミス……!!」
アドラーはコーヒーを噴き出しそうになり、慌てて飲み込んだ。
「あら?」
ルーシーは相変わらずの落ち着いた微笑みを浮かべ、2人を見つめている。
「ずいぶんと賑やかね。何かあったの?」
「ミ、ミス……!」
ウルリッヒはまだ笑いの余韻が残る顔で、すかさずモニターを指差した。
「あぁ!ミス!見てくださいよ!」
まだ少し肩を震わせながら、ウルリッヒはスチルを再び表示させた。
「アドラーの表情を!!」
——そこには、先ほどのルーシーとのスチルが映し出されていた。
ルーシーは画面に目を向ける。そして、そこに映る自分とアドラーの姿を静かに見つめた。
「ふむ……。」
一瞬の沈黙。
「アドラー……」
「……なんだよ、」
アドラーは顔を引きつらせながら返事をした。
「これは……」
ルーシーは目を細め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そう……笑うのは、いいことよ。」
「…………は?」
アドラーは思わず固まった。
「え……?」
ウルリッヒの笑いもピタリと止まる。
「……ミス?」
ルーシーは柔らかな微笑みを浮かべながら、静かに頷いた。
「笑うことは、心を軽くするの。」
「いやいやいや……」
アドラーは困惑しきった顔でルーシーを見つめた。
「ミス……そういう話じゃ……」
「そうよ、アドラー。」
ルーシーは微笑みながら、まるで慈愛に満ちた聖母のような眼差しで彼を見つめていた。
「あなたの表情を見て、ウルリッヒがこんなに楽しそうなんですもの。それって素晴らしいことじゃない?」
「……素晴らしくねぇよ!!!」
アドラーはついに声を上げた。
「俺は真剣に演技してんだぞ!!なんで毎回こんな間抜け顔になるんだよ!?!」
しかし、ルーシーは動じない。
「アドラー、あなたは……心の底から演じているのでしょう?」
「そ、そりゃそうですけど……」
「だったら、結果は気にしなくていいわ。」
「ミス……」
ウルリッヒはすでに堪えきれず、再び肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「ミス……やはりあなたは最高です……っははは……」
「くそっ……!!」
アドラーは顔を真っ赤にしながら、再び拳を握りしめる——
「今度はマジでぶっ飛ばすぞ、磁性流体!!!」
ウルリッヒの爆笑とアドラーの怒声が再び控え室に響き渡ったが——
ルーシーは変わらぬ微笑みのまま、静かにコーヒーを口に運んでいた。
§
メイクルームの空気は、先ほどまでの笑いとは打って変わり、急激に張り詰めていた。
アドラーの眉間には深い皺が刻まれ、口元はひきつり、まるで今にも爆発しそうな寸前だ。
「ウルリッヒ……」
その低く押し殺した声は、まるで嵐の前触れのように静かでありながら、怒りの熱がこもっていた。
「……落ち着きたまえ、アドラー?」
ウルリッヒはさすがにヤバいと感じたのか、さっきまでの余裕が一瞬で吹き飛んだ。笑いを噛み殺していた口元は引き攣り、彼は慌てて後退りする。
「キミ…何をするつ」
しかし、アドラーの瞳にはもうウルリッヒしか映っていなかった。
「てめぇ……マジで許さねぇ……!!」
低く唸るような声が部屋の温度を数度下げた気さえした。
バキッ……
アドラーの拳が小さく握り込まれた瞬間、その関節が音を立てる。
「——ッ!!」
ウルリッヒが後ずさるのと同時に、控え室のスタッフたちも一斉に動き出した。
「ストップ!アドラー!!落ち着いて!!!」
「ダメだって、マジでやばいって!!」
スタッフ数名が慌てて間に入ろうとしたが——
「……無駄だ。」
その瞬間、スタッフの脳裏に過ぎったのは、過去の“伝説”だった。
——あれは撮影の合間、ふとしたトラブルから起きた出来事だった。
撮影現場の裏で、アドラーが冗談半分に「まぁ、鉄のドアくらいならな」と呟いたのだ。
スタッフは笑って流していた——そう、あの時はまだ、アドラーの恐ろしさを知らなかったのだ。
「まぁ、冗談だろ?」
誰もがそう思っていた。
——しかし、次の瞬間。
バキィィィィィィン!!!!
鉄製の分厚いドアが、アドラーの一撃で粉砕されたのだ。
特殊仕様のスタントマンもCGも、ワイヤーも何もない。
「……え?」
全員が目を疑った。
「え?ドア、嘘だろ?」
ドアは完全に歪み、中央が拳の形に凹んでいた。
「おい……あのドア、防音仕様の強化鉄だぞ……?」
「CG……じゃ、ないよな?」
スタッフ全員が顔を見合わせ、青ざめていた。
その日から、アドラーの破壊力は“伝説”として語り継がれている——
「……止められるわけがない。」
スタッフの脳裏にその記憶が蘇った。
「待って!!アドラー、本当にやめて!!」
しかし、アドラーは完全にスイッチが入っていた。
ゴゴゴゴゴ……
怒りに燃える彼のオーラが、まるで空間ごと圧迫しているように感じられる。
「おい、警備員呼んで来い!!」
「無理だって!!今のアドラーは……」
「誰でもいいから、止めろ!!!」
——だが、すでに誰にも止められる状況ではなかった。
ウルリッヒは必死に笑顔を引きつらせながら、両手を前に出してアドラーをなだめようとする。
「ア、アドラー……?落ち着きまたえ、現にあれは事実——」
「……ウルリッヒ。」
アドラーは低い声で囁くように呼びかけた。
「お前さ、さっきから笑ってばっかりだよな……?」
「え、えっと……?」
「俺の顔見て爆笑して……俺がキレたら逃げようとする……?」
「ま、待ちたまえ、ボクは逃げてなんか……」
「へぇ……」
アドラーの拳がぎゅっと握り込まれる音が、部屋中に響いた。
「だったら……逃げずに受け止めろよ……?」
「アド、ま!!!!」
——その瞬間、ウルリッヒは本能的に察した。
——ッ死ぬ!!
ドンッ!!!!
アドラーが勢いよく踏み込んだ。
「誰か!!止めろォォォ!!!!」
スタッフは必死に手を伸ばすが、アドラーの速さには到底追いつけない。
「マジで無理だって!!あいつ鉄ドアぶっ壊した男だぞ!!!」
「止められるかよ!!」
——その時だった。
「アドラー」
“聖母”の声が、控え室に響き渡った。
「……?」
アドラーの拳が、ウルリッヒの顔面を捉えようとした瞬間——
「ストップよ。」
ミス・ルーシーの穏やかな声が、まるで奇跡のようにアドラーの怒りを鎮めた。
「…………ミス……?」
アドラーの拳が、寸前で止まる。
「あなたの手は、人を傷つけるためのものじゃないでしょう?」
その声には、不思議な力があった。
「……くっ……」
アドラーはゆっくりと拳を下ろした。
「……ミス……あんたが止めなきゃ、マジで殺るとこだった……。」
ウルリッヒはその場にへたり込んだ。
「……あ、ありがとうございます、ミス……」
ルーシーは、微笑みながらそっと頷いた。
「よかったわ。」
しかし——
控え室のドアには、今にも崩れ落ちそうな亀裂が入っていた。
「……え?」
「ちょっと……これ……」
スタッフ全員が顔を青ざめさせる。
「やっぱり止めるの、無理だろ……!!!」
その場にいた全員が、再びアドラーの“伝説”を目の当たりにした瞬間だった。