癖 水木が鉛筆を噛んでいる。
口の端から鉛筆を差し込んで、奥歯でそれを噛む。気を付ければ、噛まれた鉛筆の木軸が凹む、みしみしという音が聞こえる。
ぼんやりしている時、苛々している時、なにか考えている時、そういう時に水木は鉛筆を噛む。みしみしという音が聞こえる。
「それ、癖か?」
「なに?」
水木が鉛筆を口から生やしたままこちらを向いた。
「鉛筆噛むの」
指摘されて、水木は慌てたみたいに鉛筆を口から抜いた。そして
「見たな」
と、怪談の化け物みたいなことを言った。
「見るよ。隣なんだから」
「餓鬼の頃からこれだけは治らんから、もう諦めてんだ」
幼い頃の癖というのは、大人になる間に大抵矯正されてなくなるものだけど、水木の鉛筆噛みはそういう矯正から生き残ったもので、つまり鉛筆噛みは、水木の中に生き残った幼い水木なのかもしれなかった。
「鉛筆って旨いのか」
「放っとけよ。木の味しかしねえよ」
若干恥ずかしそうにして、水木は端っこが歯型で凸凹になった鉛筆を机の上に投げた。木の味というのが水木にとって旨いのか不味いのかはわからなかったが、今更やめるつもりはないということは何となくわかった。
その日の晩は、わかりやすい夢を見た。
水木みたいな顔をした小さい子どもが水木の座席に座って、床に届かない足をぶらぶらさせて鉛筆を噛んでいるので、こら、と叱ったら泣かれる夢だった。
泣かせるつもりはなかったのに。
物欲しげに緩んだ水木の口に、指を突っ込んでみた。水木が想定外の出来事にぎょっとした目でこちらを見てくるが、構わずその温い口の中を探って、指の腹で歯の凹凸を探った。なるほど、この凹凸が逆になって、鉛筆に刻まれているわけか。
感心していたら、案の定噛まれた。
「いて」
「なにしやがんだ」
「いや、どんな口が鉛筆噛んでるのかと思って」
「まだそれを言うか」
「だって気になるだろう」
「気にするな」
そう言われても、一度気になったものを気にしなくするのは難しい。でも本人は気にされるのを嫌がっているみたいなので、気にしていないふりをして気にすることにした。
仕事の合間なんかに、時々微かに聞こえてくるみしみしという音に耳を澄ませて、ああ、また水木が噛んでいると思うと、隣に座っているのがふてぶてしい大人ではなくて、夢に出てきたような小さい痩せっぽちの子どもであるような気がして、仕事でささくれていた気持ちがちょっと優しくなるような気がした。
取引先ですぐ気に入られる水木は、たまに貰い物をする。
「見ろ、これ」
そして、それをすぐに見せびらかしてくる。
「ボールペンってやつ。知ってるか」
「うん」
最近流行っている便利なペンを、海外と取引のある会社の偉いさんから貰ったらしい。
「日本製の粗末なやつじゃないぞ。アメリカ製の立派なやつだ」
「へえ。ちょっと書かせろよ」
「嫌だね」
水木は見せびらかすだけ見せびらかして、こちらが手を伸ばすとぱっと隠した。相変わらずいい性格だ。
きらきら光を反射する金属製の軸のそれは見るからに上等で、取引先にばら撒くには少し高級過ぎると思われた。その偉いさんが水木に何を思ってそれを渡したのかは知らないが、あまりいい気分はしない。
しかし勿論、水木はこちらの気持ちなど知ったこっちゃないわけで、自慢げにそれを胸ポケットに挿して日常的に愛用するようになった。
「そんなにいいものなら、大切に使えよ。ちゃんとした書類書くときだけ使うとか」
そう言うと、
「道具は使ってやった方が喜ぶんだ」
とか何とか言って、茶を運んできた女の子などに素敵なペンですね、などと褒められて悦に入っていた。
なんだかわからないけど、面白くない。みしみしというあの音も、しばらく聞いていない。
そんなことを考えていたせいか、また夢に子どもが出てきた。子どもだが水木だ。小さい水木。
小さい水木は随分上にある俺の顔を見上げて、それから手をちょいちょいと招いた。俺がしゃがんで目線を合わせると、小さい水木は俺の首に細っこい腕を回して抱きついてきた。小さな爪のついた指先が俺のシャツの襟の内側へ少し入り込んでいる。耳朶に小さい唇が掠めるように当たる。
まるで大人の水木がするような動作に、いけないなと思って、
「子どもだろう」
とたしなめると、
「子どもでも俺だ」
と甲高い声で言った。
「それでも駄目だ」
「つまらねえ奴。それじゃあ、」
と言って、ズボンのポケットから鉛筆を何本か取り出して見せた。
「一緒に噛もうぜ」
「うん」
小さい水木と並んでしゃがんで、鉛筆を噛んだ。
「木の味しかしないなあ」
「うん。でもそれがいいんだ」
小さい水木は何が嬉しいのかにこにこ笑って、上等でも高級でもない鉛筆を嬉しそうに噛んだ。みしみしという音が、小さい水木の口からも自分の口からも聞こえた。
水木がぼんやりしている。
仕事が一段落して、昼前ということもあって電話も一旦途絶えている。朝からずっと続いていた緊張が緩んで、一気に力が抜けるような時間だ。
水木は大体この時間になるとぼんやりし始めて、そして、以前だったら鉛筆を噛み始めた。
今はしない。持っているのは、粗末な木の鉛筆じゃなくて、金属製の立派なペンだからだ。水木を気に入ったどっかのおっさんが、水木の気を引くために贈った高級品だからだ。
そのはずだった。
そのはずだったが、この日の水木は相当にぼんやりしていたらしい。手に持った金属製のペンを、ぼんやりしたまま口に持っていこうとした。
あ、と思った。
そんな物を噛んだら歯が折れる。大体それは、鉛筆と違って気持ちのいい凹凸も付かないし、木の味もしない。それは口に入れるものじゃない。
「水木」
「……」
声を掛けると、水木は口に入れかけていたペンを唇の間際で止めた。
こっちを見たその目が、何故か後ろめたいように伏せられた。
「こっちにしとけよ」
自分が持っていた鉛筆を差し出してやると、水木は素直に受け取って、それから口の端に差し込んだ。
やがて、みしみし、という音が控えめに聞こえてきた。その音に、何故だか分からないけれど、俺はひどく安心していた。