声 幸せ 煙草の吸いすぎか何なのか、喉の奥に出来ものが出来た。悪いものではないが取らないといけないので、簡単な手術をした。医者からは、3日は喋るな、と命令されている。仕事にならないので事前に休みは取ってあるし、元々喋りたいことがある方でもないので、3日黙って一人で家の中にいる事なんか、ただののんびりした休暇以外のなにものでもなかった。
水木さえ来なければ。
夕方、一応病人らしく横になっていたら、呼び鈴が小刻みに3回連続で鳴った。うるせえ、と思って布団の中で目を開けて、ため息を吐いた。鳴らし方で玄関に立っているのが誰かすぐにわかった。俺に対してこういう一般的な配慮が欠けた行動を取るのは、俺の狭い人間関係の中でたった一人しかいない。
玄関の引き戸を開けてやると、やっぱりそのたった一人が立っていて、なにが不満なのか知らないが不機嫌そうな顔で、そのへんで買ったのか、それにしては少ない2つきりのみかんを押し付けてきた。
水木はみかんを2つ俺に持たせて言った。
「喋れないんだって?」
訊かれたので黙ったまま頷くと、
「もとからあんまり喋らないんだし平気だろ。よかったな、無口で」
とやっぱり一般的配慮に欠けたことを言って、
「寒い。入るぞ」
と靴を脱いで勝手に上がり込んできた。図々しかったが、俺が喋れないとかどうとかに関わらずこいつはいつもこうだ。
水木が自分の家のように先に歩いて部屋に入り、自分のもののように消えていたストーブに火を入れる。
「なんで点いてないんだ」
布団で寝てたからだ、と言いたかったが言えないので、ちゃぶ台の横に敷きっぱなしの掛け布団が捲れている寝具を指差した。
「人が働いてる時に寝やがって」
水木は憎まれ口を叩くと、コートを脱いで、その流れで背広もズボンも抜いで、そのへんの畳の上に重ねて投げた。シャツと下履きと靴下だけになった水木は、当たり前のように半分だけ捲れていた掛け布団を全部捲って、まだ俺の体温が残っている布団の上に横たわった。そうしてから、
「ほら、早く来い」
と自分の横を手の甲で2回ほど叩いた。
なんだそれ、と思ってその様子を口を開けて見ている俺に、水木が言った。
「見舞いだ」
俺はまだ、水木に渡されたみかんを持っていて、俺はそれが見舞いなのだと思っていたのだが。俺がみかんに目線を遣ると水木が言った。
「そっちは会社で配られたやつだ。大体、見舞いがみかん2つなんて失礼だろう」
どの口が失礼というのか。大体、見舞いとしては布団の上に寝っ転がられるより、みかん2つの方がまだ常識的だ。
「なんだよ。不満なのかよ」
水木は自分こそが不満そうな声を出した。それから、
「なんでもいいから早く来い。寒くて仕方ねえんだ」
と、見舞いだと言っているわりには利己的な主張を繰り返した。
火が回り始めたストーブは灯油の燃える匂いをさせていて、その匂いと持っているみかんの匂いが合わさると、とても冬だなあ、という感じがした。
みかんをちゃぶ台に置いて水木の横に転がると、冷えた水木の腕と脚がするすると体に巻き付いてくる。肩口にかかった水木の吐いた息も冷たくて、やっぱり冬なんだなあ、と思った。
小さなストーブがささやかに燃えて、寒くて暗い室内の暖房と照明になっている。
「退屈だ」
布団の中で寝そべったまま、1つずつみかんを食いながらストーブの薄赤い火に照らされていたら、ついに水木がそう言った。いくら俺が喋らない方だとはいえ、全く喋らないというのは訳が違うらしい。
水木がそう言ったので、俺は体を起こして、ちゃぶ台の上に置いていた折り込みチラシと鉛筆を取った。裏の白い面を上にしたチラシを枕にのせる。
水木はちょっと笑って、
「筆談か」
と言った。
スパイみたいでいいな、と子どもっぽい感想を述べ、横たわったまま食べきったミカンの皮をくずかごに投げた。投げた皮はかごから外れて畳に落ちたが水木は知らん顔をして、
「じゃあ始めようか」
と、ほんとうにスパイが尋問するような言い方をした。
「生まれは何年何月何日だ」
それで始まった尋問は、ほんとうに尋問のような内容だった。生年月日に続いて、本籍はどこだ、学校の名前は、所属していた部隊は、いま勤めている会社は、部署は、昨日叱られた取引先の社名は、と、別に尋問なんかしなくても、とうに知っていることばかりを水木はチラシの裏に書かせた。
俺の略歴が並んだ妙なチラシを水木はなんだか嬉しそうに眺めた。そして、一応訊くけど、と断わってから、
「会社で、お前の左隣に座ってんのは誰だ」
という質問をしてきた。
なにを言ってるんだか仕方ねえなあ、と思いながら、枕にのせた不安定な紙の上に、鉛筆で、水木、と書いてやった。水木は、俺の略歴の下に自分の名前が書かれるのをじっと見詰めていた。
俺が書き終わるのを見届けた水木は、チラシに目を落としたまま、
「なあ」
と声をかけてくる。それで、
「お前、なんで俺を抱くの」
と言った。
すごい質問がきたな、と思って水木を見ると、水木もこっちを見ていた。別におちょくってるわけでもない、普通の顔をしていた。何となくその口をちゅっと吸ってやったら、水木もちゅっと吸って返した。
「なんで俺を抱くんだ」
離れた口でまた水木が言った。尋問をやめる気はないらしい。俺は諦めて、鉛筆の先を不器用に紙の上で滑らした。
書けた文章は、好きだから、という、文章にもなっていない文字列だった。
それでも水木はそれで満足だったようで、俺が苦心して書いた文字を、
「お前は、字でも口下手なんだな」
と、嬉しそうに言った。
明日は休みなので、水木はそのまま泊まっていった。向こうを向いて寝ている水木に掛け布団を被せて、俺はストーブの赤い火で照らされた部屋で一人起き上がった。
お前は字でも口下手なんだな。
水木は言った。
なんだか悔しい。
枕の上だったし監視されながらだったし、それで書きにくかったような気がするけど。
それで俺は、さっきのチラシを取って、俺の略歴の下にある水木という文字の下にある好きだからという文の下に、書いてみた。
書き始めると意外と書けるもので、残り半分以上が白く残っていたチラシが、全部俺の下手な字で埋まった。
はじめは、なぜ俺が水木を抱くのかということを書こうとしたが、なんだか知らないけど、書き始めたら初めて水木と出会った日のことを思い出すままに書いていた。
朝起きたら、俺の半纏をシャツの上に勝手に着た水木が、ちゃぶ台の前で裸の片膝を立てて座っていた。その膝にのっている手が、裏一面に俺の下手な文字が書かれたチラシを持っている。
本当はちゃんとお前を抱く理由を書こうと思ったんだ。
言い訳をしようとしたが、喋れない。水木が何も言わないと、俺達はずっと静かだ。俺の至らなさを笑うんでもいいから、何か言ってくれないかな、と思っていたら水木がようやく口を開いた。
「これ」
水木が、チラシをぴらぴら揺らす。ストーブの消えた朝の部屋は冷えてしまっていて、水木の声は白い湯気になった。
「もらってもいいか」
布団の中から頷くと、水木はチラシをちゃぶ台の上に置いて半纏を脱いでから、布団の中に入り込んできた。
どれだけ布団の外にいたのか、水木の体は冷え切っていた。するすると冷たい腕と脚が体に巻き付いてくる。肩口にかかる息も冷たかった。冬だなあ、と思う。
「お前さ」
俺の体にぴったり寄り添う水木が、冷たい息と一緒に言った。
「俺のことほんとに好きなんだな」
あのチラシいっぱいに書いた文字の中のどこにそういうことを読み取れる部分があったのかはわからない。理由を聞こうとしたけど、やっぱり声が出せないので、その理由は不明のままだった。
水木が俺に抱かれながら、小さい声で
「すごく幸せだ」
と呟いた。俺もだ、と言いたかったが言えない。
背中で水木の手が俺の寝間着を握りしめた。俺は、冷えた水木の体を強く抱いて体温を分けてやりながら、声を出せないこの幸せについて、なんとなく考えていた。