「あ、ノボリ兄さんもう帰っちゃう?」
いそいそと黒色のトレンチコートに腕を通し事務室の時計を見上げていたノボリに、これから夜勤に入るクダリが声をかけた。
「書類もあらかた片付けたので、本日はこれで上がろうかと思います。何かありましたか?」
「うぅん。大したことがじゃ無いんだけどね、冷蔵庫の中空っぽだから、ノボリ兄さんの負担にならないなら帰り道で惣菜でも買っといて欲しいなって」
帰宅ラッシュも終わり、少し緩んだ空気の流れる室内。この時間は大抵、終電の最終点検まで書類を確認、処理するのがルーティンになっている。それはクダリも同じで、パソコンの電源を入れながらノボリにそんな細やかなお願いをした。
普段なら断ることでは無いが。
くっきりと隈が浮かび、疲労の色が滲む横顔を見てノボリは顔を顰める。
確かに惣菜を買えば、多少なりとも夕飯は楽に終わる。しかし栄養バランスを考えた時、その手軽さ故の塩分や脂質やカロリーの高さは気になるところであった。
ノボリはクダリに、きちんとした食べ物を摂って欲しかった。それは唯一無二の兄弟であり、恋人としての願いでもあった。
「クダリ。今日はわたくしがご飯を作り置きしておきます」
「えぇ? そんなの良いよ。兄さんだって疲れてるでしょ?」
「いえ、わたくしは疲れておりません。それよりもあなたにきちんとした料理を食べてもらいたいのです」
この頑固なところがある兄が一度言ったことは曲げない性質であることを、嫌と言うほど知っているクダリは頭を悩ます。でも確かに、最近の己の食事を思い返せばこんなことを言われても仕方なかった。
冷凍食品、インスタントラーメン、コンビニ弁当等。
生活圏を共有しているからゴミだってすぐに見つけていただろうし、嘘なんてもちろん吐けない。もはや言い逃れはできなかった。
「分かった、分かったよノボリ兄さん。僕も久しぶりに兄さんの手料理食べたかったから、お願いしても良いかな?」
伺い立てをするようにこっそりと言えば、ノボリはすぐに満面の笑みになる。
「かしこまりました! 腕によりをかけて作ります!」
クダリに頼られたのがよほど嬉しいのか、スキップでもしそうな軽い足取りで事務室を出て行く黒い背中。
そんな姿を見て、
「あぁ、僕って本当に愛されてるな」と、多幸感に溢れ自然と上がる口角はほったらかしにして再びモニターに向かいながら独り呟いた。