kktbtが鼻歌(黒歴史)を歌う話 俺がカキツバタの鼻歌を耳にするのは、まあたまにあることだ。部室でいつもの席に座っているとき、テラリウムドームを散歩しているとき、食堂で学園定食を食べているとき。俺が見かけるカキツバタはいつでものんべんだらりとして、ときとして不意に鼻歌を披露した。
大抵は知らない曲だ。もしかしたら今流行っている曲なのかもしれないし、イッシュでは定番の曲なのかもしれない。知らないけれど、どれも明るくて、調子が良くて、楽しそうだった。
――それなのに、今歌っているこの曲は、まったく違った。
夕暮れ時のリーグ部室。部員たちはひとりまたひとりと部活動を終えて部屋を去り、いまや残っているのは俺とカキツバタのふたりだけ。どうして居残っているのかといえば単純な話で、カキツバタがタロに申し付けられた事務仕事を遅々と進め、見かねた俺が手伝っている状況だ。カキツバタのためというより、あとあと尻ぬぐいをさせられるタロを気遣ってのことだった。
カキツバタは早々に飽きてしまったらしく、お菓子を食べたりペン回しをしたりと意識が散漫な様子。いちいち注意するのは面倒なので、俺はひたすら仕事を進めるだけ。ちょっかいかけられないだけマシ――などと思っていたところで、彼はだしぬけに鼻歌を歌い始めた。
最初の数秒を聞いたところで、思わずペンを止める。
不穏なイントロ。威圧感のあるフレーズ。鼻歌だというのに妙に上手いせいで、いつもとはまったく違う曲調だとすぐに分かる。
なにより――俺はこの曲を知っていた。ぎゅっと心臓を握りこまれたような気分になり、いてもたってもいられず口を開く。
「カ……カキツバタ、その……!」
「うん?」
「その曲……」
「ん? ああ、つい鼻歌が出ちまってたねぃ。いい曲だろ?」
こともなげに笑いかけてくるので、皮肉を言われているのかと思いそうになる。復学してすぐの俺だったらきっとそう思っていた。カキツバタへの理解が進んだ今なら、きっと心から褒めているのだと分かるけれど。
でも、だって。褒められるようなものじゃないのに、どうして褒めるのかは分からない。自分は聞くだけで様々な記憶が蘇り、脳裏にこびりついて離れなくなりそうなのに。
――俺がチャンピオンだったときの専用BGM、なんて。
「カキツバタ、そ、それ……やめて」
「やめるって、なにを?」
「歌うの……!」
ペンを持っていない方の手でズボンをぎゅっと掴む。いつのまにかうつむき、机をじっと見つめていた。そんな俺のとなりで、カキツバタが体をこちらに向けたのが気配で分かった。
「ありゃー、オイラ下手だったかい? 何度も聞いたから音程は間違ってねえはずなんだけど」
「そうじゃなく、て……。あんま、いいもんじゃねえから……」
心臓がいやにドキドキする。冷汗が滲む。そんな俺の様子に気づいていないはずもないのに、カキツバタは少しだって調子を変えない。
「なんでぃ、オイラこれ好きだぜ?」
「だって俺なんかの、」
「――かっこいいだろぃ?」
その言葉があまりにも自信ありげに告げられたものだから、俺は思わず視線を上げてカキツバタを見た。彼はいつものようにニコニコとしながら、「俺『なんか』! よくないと思うぜぃ!」とヘタクソなタロのモノマネを披露する。それで俺はどうにも気が抜けてしまって、肩の力を抜きながら、「うん……」と生返事をした。
「チャンピオンさまのBGMはさ、強敵現る! ってかんじでかっこいいんだよなあ~。音楽のこととかよく分かんねえけどよ、作曲者がいい仕事したってぇのは分かる!」
「そ……そう、だな。曲自体は、すごくいい……と思う」
「だろぃ!? この世で一番この曲を聴いたオイラが言うんだから間違いねぇ。キョーダイは一発で勝っちまったし? まあつまり、実質オイラの処刑用BGMってことだな! へっへっへー」
けらけら笑うカキツバタに、俺は曖昧な笑みを返す。自分の心をどう処理して良いか分からなくなってしまっていた。
多分だけれど、カキツバタはチャンピオンのときの俺のことを人一倍嫌っていると思う。彼の大切な人たちや場所をめちゃくちゃにしたんだから、当然だ。一方でそれはとてもさっぱりとしていて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというみたいに、俺に関連するものまで連鎖的に嫌いになるようなものではない……と思う。
だからたぶん、カキツバタがかっこいいというのなら、本当にかっこいいんだろう。
俺がチャンピオンをやっていたときの曲、というのは。
「……そっか」
すとん、と胸のつかえが少しだけ取れる。全部じゃない。俺は今でも当時の自分があまり好きではなくて、でも今の自分を形成するのに大事な時間だったことは分かっていて、すべてを否定する必要なんかないとみんなから教えてもらって、けれどそのために傷ついたひとたちがいるのは事実で。だから胸のつかえはこれから少しずつ取れていって、全部は取れないまま、残り続けるんだろう。
「……ありがと、カキツバタ」
視線をそらし気味にして前髪を弄りながら言えば、「単なる素直な感想よ」と返ってくる。
そしてカキツバタはニヤリと笑って俺の顔を覗き込んだ。
「そいじゃ、オイラのは? チャンピオンカキツバタのBGMの感想聞かせてくれよ、スグリ」
「え」
虚を突かれてぽかんとする。チャンピオンカキツバタのBGM?
言われてみれば、俺はチャンピオンだったカキツバタに挑んだんだから聴いたことがあるはずだった。けれどどんな曲だったかまるで思いだせない。あの頃はとにかく焦っていて、一度聞いただけの曲なんて頭の片隅にも残していなかった。
「……あの、ごめん。忘れちまった」
素直にそう告げると、カキツバタは意外にも「だよなあー」とあっさり引き下がる。
「オマエもオイラを一発で倒しちまったもんねぃ。今じゃもう聴く機会ねぇしなあ」
ま、しょーがないこって! カキツバタはそう言って、机上のチョコレートを摘みはじめる。話はおしまいとばかりの態度に、俺は何故だか無性に焦りに駆られ、「カキツバタ、」と話を引き留めた。
「また、き、聴かせてくれね、の?」
「ん?」
「チャンピオンカキツバタの曲……」
「あー、聴かせてやれるならそうしてやりてえけど、あいにくツバっさんはもうチャンピオンじゃ、」
「だから! チャンピオン目指さねえのって言ってんの!」
出てきた声の大きさに、自分で自分が驚いた。同時に焦りの正体にも見当がついてしまう。
俺は、嫌なんだ。カキツバタがあっさりチャンピオンでない彼自身を認めるのが。今後はもうチャンピオンのBGMが流れることはないと、当たり前のように了解しているのが、どうしても嫌で。
怠惰な男なのは知っている。だけど、諦めないでほしかった。ポケモン勝負では本当に楽しそうな顔をしているから、その熱がどこまでも続いてほしい。滾って、昂って、もう一度高みへ上り詰めてほしい。
――在りし日におれが見た、ドラゴン使いのチャンピオンカキツバタのように。
俺が自分の声にびっくりしたまま硬直していると、カキツバタもぽかんとしたあと、ニヤリと笑みの形に表情を変える。よく見れば頬が紅潮して、ずいぶん面白がっているようだった。
「オイラがチャンピオンに返り咲けって?」
「そ……そう!」
「そりゃキョーダイに勝たなきゃいけねえってことだねぃ。その前にお前さんにも勝たねえと」
「俺は負けない」
「ふは。じゃあオイラどうすんだ」
「俺は負けないけど、カキツバタも頑張って勝ってよ」
無茶苦茶だ。支離滅裂で、矛盾の塊。案の定カキツバタは手を叩いて笑いだしてしまい、俺は顔を真っ赤にして黙りこくる。でも、だって、仕方ないべ。俺は絶対カキツバタに負けないけど、でもカキツバタはチャンピオン目指して勝ち進んでほしい。両立しなくても、どっちも俺にとっては大事だから。
カキツバタは散々笑ってから、急に俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でまわす。「わぎゃっ」と声を上げると、押し殺すような笑い声が聞こえた。どんだけ笑うんだべコイツ!
そして笑い声の合間に、「オイラの曲はさぁ、」と聞こえる。
「いい曲だぜぃ。オイラらしくてよ」
その声色には、どこか得意げな、ほくほくとした自信がうかがえた。
「忘れちまったってんなら、もっかい聴かせてやらねえとなあ」
――え。
前向きな言葉に、反射的に顔を上げようとしたが、髪を乱す手は離されない。わざとそうしてるんじゃと思うほど、放してくれない。
だから俺はされるがままになりながら、繰り返し繰り返し、その言葉を反芻する。
いつかの日に聴いたはずの、その音が聴こえてくるような気がした。
了