声ネタ「カキツバタ、せんぱい……」
聞き覚えのない少女の声が、寝ぼけた頭に響く。小さな小さな震える声。どうやら机に突っ伏したオイラの耳元で囁いているらしい。
呼ばれたからにゃあ返事しねえと。半分夢を見ているような心地で、んー? と生返事をすれば、彼女は消え入りそうな声で言った。
「あの、たすけて、ほしくて……」
「おー……いいぜぃ……」
誰だか知らねえが可愛い後輩が助けを求めてんなら、ツバっさんが一肌脱いでやろうかねぃ。そう思って気安く請け負うと、彼女は「ありがとう、ございます……」と少しだけほっとした様子を見せた。
「えっと、明日の四時に、キャニオンスクエアに、きてください……」
「おー……」
なるほど、そこで待ち合わせってか。OKOK。しかと引き受けた!
よろしくお願いします。そう言い残し去っていく足音を聞きながら、意識はまたまどろみの淵に沈んでいく。一瞬の会話の記憶は夢と夢の狭間を揺蕩い、消えていく。
それからオイラはあろうことかその約束を忘れ、完全にすっぽかし、二週間ほど経ってから思いだした。思いだしたところで後の祭りだ。「助けて」と頼った女子を放っておいて、そのときなにをしていたかといえば、別の後輩と食堂でワイワイやっていたという始末。
さすがに気が咎めてリーグ部の女子たち全員にそれとなく「なんかオイラに相談しようとしてた女子がいるんだけど、知らねえ?」と聞いてみたが、誰も思い当たらないようだった。そしてその中の誰一人として、おぼろげな記憶の中の声と同じそれはいなかった。
――あの女子は誰だったんだろう。オイラは誰を見捨ててしまったんだろう。数か月経った今もなお、心の片隅に引っかかっている。
「な、タロ……」
そんな記憶を思い出したのは、復学を果たしたスグリがタロに話しかけるのを耳にしたときだった。どこか遠慮がちで、以前の彼を彷彿とさせるような控えめな声。
「勉強のことで、あの、助けてほしくて」
『あの、たすけて、ほしくて……』
聞き覚えのある声と言い回しに、オイラは思わずイスを鳴らして立ち上がる。ふたりがぎょっと振り返るのも気に留めず、スグリの元へ歩み寄った。
「スグリ、オマエ……」
「え、カキツバタ? な、なに……?」
「オマエ、その声……」
「声? なんか変?」
困惑する彼の腕を掴み、部屋の隅へと引っ張っていく。やましいことがあるわけではないが、声を潜め、問いかけた。
「オマエさ、何か月か前、オイラに助けてほしいって言ったことある?」
「え?」
「いや~なんか……そう言われたってのに、すっぽかしちまったことがあって。いまいち誰だったか覚えてねえんだけど、もしかしたらオマエじゃないかって思ってよ」
「……ああ! あのときの」
正直なところ確信があったわけじゃない。だってあの声は疑うことなく女子だと思っていたから。けれど肯定されたことで、本当にあの女子がスグリだったと確定し、少なからず動揺する。
マジか! オイラ、スグリの声を女だと思ってたのかい。確かにこいつの声は高くて可愛くてふつーに女に聞こえるけど。でもスグリのことを女っぽいなんて思ったことなかったから、ちっとショック。
それはともかく。であれば、気になるのは。
「……あー、今更なんだけどよ、あの件、どうなった? っていうか、オイラにどうしてほしかったんだ?」
おどおどして、今よりずっとか弱いスグリ。あのときの彼に助けを求められて、それをすっぽかしたというのは、ひどく許されざることをした気がしてならない。
けれどスグリはあっけらかんとした様子で言う。
「えっとな、あのときの俺、知らない上級生に呼び出されてて。ひとりで来てって言われてたけど……怖くて。でもねーちゃんは校外だったから、誰かに見守っててもらおうと……それでカキツバタに声かけた」
「知らない上級生? 目的は?」
「んー、あとで他の人から聞いた話では……なんか俺のことが好きで、告白したかったみたい。……って言っても、ただ小さい子が好きなだけで、特別俺じゃなくてもよかったぽい……んだけど」
「え」
それは、恋愛的にってこと? 誰でもいいから小さい子が好きな上級生って、それやばいやつじゃねえの? しかも以前のこいつはおどおどしてなんでも言うこと聞きそうで……いやそいつ絶対やばいやつだろい!
「え、それでオマエは呼び出されてどうしたって!? 行ったのか!?」
「結局、行かねかった! ……カキツバタ、覚えてない?」
「へ?」
ぽかんとしたオイラに、スグリは不意にやわらかく笑いかける。何故だかドキリとした。
「約束の時間になって、俺が呼び出された場所さ行こうとしたとき、カキツバタが急に食堂行こうって誘ってきたんだ。それで『ねーちゃんがいないからってしょげんなよ~』って……パフェ奢ってくれた! それで結果的に、上級生の約束破っちまったんだ」
そう言われて、急に当時の記憶が鮮明によみがえる。そうだ、あのときは確か、ただでさえおどおどしてるスグリが余計にへんにゃり萎れているように見えて、それはきっとゼイユがいないからだと思って、元気づけようと食堂に誘ったはず。
けれど実際には姉が不在だからではなく、見知らぬ上級生に呼び出されていたから萎れていたというのが真実。そしてオイラがその約束を反故にさせた――というのが事の顛末らしい。
「はあー……、なるほどねぃ」
「……だから、ありがと、カキツバタ。俺のこと助けてくれて」
あのとき一緒にパフェ食べたの、安心した。
スグリは「そのつもりはなかったんだろうけど」と笑いつつ、はにかみながら礼を告げる。それを聞いた瞬間、胸にすっと風が吹き抜けるような心地がした。
あのとき助けられなかったはずの少女は、同じ愛らしい声の少年として、今こうして笑っている。朗らかに、健やかに。
「……どういたしまして、ってね」
深く息を吐きながら首を反らし、頭上を仰ぎ見る。
天井も海も通り越して空を見ているような、清々しい気分だった。