【大浮】熱熱、が――じわりと染みていく。
その間にある羅紗の羽織すら遮ることはできず、肌と肌の境界などありはしないというように。
(あぁ、どうして)
それが嫌ではないのだと、気付いてしまったのだろう。
きっかけは何気ないことだった。
別のことに気を取られたまま階段の手すりに手をかけたところ、ハーフグローブがつるりと滑ったのだ。前のめりに落ちそうになるところを、背後にいた大我が浮葉の腕を掴んだ。ただそれだけのこと。
制服をきっちり着こなし、着物を羽織る浮葉には掴まれた腕の力強さしか分からなかったが――食い込む指先の感触だけは鮮明に覚えている。
大の男を一人支えるのにそれだけの力を要するのは当たり前で、浮葉は引き上げられた後にまじまじと大我の顔を見てしまった。
「ンだよ、坊ちゃんは礼も言えないのか?」
「……ありがとうございます」
まだぼんやりと考え事の最中だったため、大我のいつもの悪態もスルーし礼だけは述べた。
「…………行くぞ」
何か言いたげな間があったが大我は掴んでいた浮葉の腕を離し、先に階段を下りて行った。
その背を見ながら浮葉もゆっくりと階段を下る。考え事をしていたら先程の二の舞になりそうなものだが、前を行く大我の速度があまりにも遅いので浮葉もゆっくり階段を下りるしかなかった。
悪態をつくことは簡単だ。大我相手なら売り言葉に買い言葉でするりと口からまろびでる。呼吸をするより楽に口を衝き、応酬を楽しむ。不思議なことに、腹の立つ事実や普段は秘めたままの気持ちを無遠慮に投げつけても大我はびくともしない。大我も同じように棘のある事実を突きつけてくるが、浮葉はあまり堪えていない自分に驚くことが多かった。――胸が痛まないわけではないが、それらは浮葉が決めたことで揺るがないからだ。揺らぐようなら、大我はきっと浮葉に見切りをつけるだろう。
ただ、――ただ。
腕を掴まれたあの瞬間、比べるべくもないものを比べてしまった。
(源一郎)
大我の大きな手のひらは浮葉の腕を掴んで余りある。それは源一郎も同じだ。従者として行う事は浮葉の肌に触れることも多かった。離れて久しいのに、どうしてそんなことを思い出したのだろうか。
同級生という以外に源一郎とまったく共通点のない大我。なんだか源一郎に申し訳ない気持ちが沸き上がる。
(粗忽者と一緒にしてはいけないな)
そんなことを考えながら、次の現場へ向かう車に乗り込むやいなや大我がじろりと浮葉の手を見た。
「四六時中つけてるが、クラリネッティストとしての矜持か?」
「習慣です」
楽器演奏者として指先を守るのは当然のこと。しかし、日常生活においてグローブまではめるようなことは稀だろう。素手で過ごしている演奏者の方が多い。
グローブをはめているのはネームバリューのせいで近寄ってくる有象無象に触れたくないという理由があるのだが、それは言わずとも想像がつくだろう。大我の言う通りの解釈をする人間の方が多いので、浮葉もわざわざ説明することがなかった。改めて問われるのは久々で、相手が大我というのはなんだか妙な心持ちだ。
浮葉がいつぞやからハーフグローブを付け始めても、源一郎は何も言わなかった。察していたのかどうかは分からない。源一郎は不器用ながらも分かりやすく純粋な心根を持っていたが、鈍感な部分があり、それは本人が自覚していないせいでこちらも察しにくいところがあった。
スターライトオーケストラに対しては分かりやすすぎる反応であったけれど、浮葉に対しては当主として扱うため、表立って感情は抑え込みがちだ。スターライトオーケストラだけが例外だったと言っていい。
真横にいる堂本大我という男も、また同じだった。
源一郎と真逆で感情はあらわにするけれど、それが真実かは分からない。虚実入り混じったそれを見分ける方法を、浮葉は何も知らないままだ。鑑別して、奥に分け入ったとして――浮葉はどうしようもないし、興味もない。黒橡という存在の相棒としてそこに在るだけである。
(大我こそ、人に触れたがらなさそうだ)
浮葉とすら一歩開いた距離にいるのだ。他人の熱を感じない距離を保っていることくらい理解っている。それなのにいざとなると、その腕は躊躇いも容赦もなく伸びてくる。
まだ指が食い込んだ感触が残っている。痕に残るほどではないだろうが、残らないからこそこの奇妙な考えが浮葉の中に居座ってしまいそうな予感がした。
▶
京都も東京も変わらないほどの暑さが続き、じっとりと重たい湿気が常に肌を取り巻いている。
屋外で涼しい場所にいても、どことなく風はぬるく、まとわりついて肌をべっとりとした感触に変えていく。暑いだけならまだ過ごしやすいだろうに、この湿度は不快と言っていいだろう。
浮葉の纏う羅紗もふわりと涼しげな見た目をしているが、剥き出しになった肌に張り付くことが多くわずらわしさまで感じてしまう。慣れたものにまで不快さを感じるとなれば、この夏はかなり体力的にも苦労しそうだと思わずにはいられない。
大我も真横で暑そうにシャツの襟元をパタパタと動かしている。タトゥーを隠すために長袖のシャツを着ているのだ。見ているだけで暑い。大我のこめかみを伝って汗が流れ落ちる。首筋にも汗が浮いており、とめどなく流れていた。
浮葉も普段は涼し気で暑さを感じなさそうと言われるが、今は汗だくである。背中はびっしょりで髪は首筋に張り付きそうだ。
二人は仕事が早く終わって迎えを待っているのだが、周囲に冷房が効いている建物がない。
朝早くから始まった山中の撮影は順調だったが、日が昇りきってしまえば灼熱地獄だ。撮影班は黒橡の次に来たアーティストを撮影しており、二人は絶賛帰りの車待ち中である。連絡をしているので時間が経てば迎は来るのだが、その時間と言うものが厄介で、二人無言で風の通る日陰にいるものの――先述の通りであった。
今日はこの仕事さえ終わればオフだが、帰宅したら力尽き、そのまま動けなくなりそうだ。
「ハァ……」
口から重苦しい呼気が溢れる。溜息にも似たそれは、一度吐いてしまうと何度も繰り返さないと息が詰まりそうな気さえした。
湿気を含んだ空気は重く、吸っても肺が満たされる気がしない。寧ろ溺れるのではないかと思うほど、気道に粘ついてぐらぐらと煮え滾るようだった。
直射日光を避けられても、生ぬるい風では体は冷えず熱を籠らせていく一方だ。もう少ししたら車が来るはずなのだが、その時間があまりにも長く感じて浮葉ははくはくと唇をわななかせた。
酸欠を感じた瞬間にはぐらりと体が傾いだが、灼けるような手に引き留められた。回らない頭の中でいつぞやのようだと思いながらも、羅紗越しの熱に侵されていくのを感じていた。
外気温とは違う熱。こんな暑い中、べたつく手で触れられたら不快さを感じるはずなのに――今も、掴まれて熱いのに。あの時と違ってその力は柔らかで指が食い込むほどでもないのに。
(心地良い、だなんて)
融ける、とはこのことか。
きっとこの熱はこの男しか持ちえない。
朦朧とし始めた中でなんとか大我を見れば、鬱陶しそうに――けれど決して離すつもりはないのだという瞳をしていた。
(そういうところが、違うのか)
源一郎とは決定的に違う。けれど、いざとなったら放っておくことはしない。
(あぁ、いやだ)
自分の方が先に絆されるなんて冗談じゃない。――何よりこの熱が、厭でないなんて。
どんなに心で拒否しても、身体が大我の熱を当たり前のように受け入れている。それがどういうことなのか、浮葉自身分かってはいつつも――どうしたいのかは分からなかった。
「……ん、」
すうっとひんやりした空気が肺を通って抜けていく。
体の熱は取れないが、呼吸が随分と軽くなって幾分楽になっていた。揺れる体に迎えが到着したのだということまでは理解できた。だが、視界を覆うしかめっ面の存在は理解ができない。
「な、」
問おうとする前に、その手が浮葉の額に触れる。掴まれたときが嘘のように冷えたてのひらがぴたりと押し当てられて、言葉が詰まった。そしてすぐさま離れていくと、冷たいタオルが額だけでなく目元を覆うように置かれる。
「なにを、」
「熱中症でぶっ倒れかけたやつが文句言うな。大人しくしてろ」
耳を澄ませば車内の空調は轟音を発し最大出力で冷風を吐き出している。体の至る所にひやっとした感触があるので、的確に体を冷やされているようだった。
浮葉の意識が落ちた後、車はすぐに到着したのだろう。そうでなければ短時間でこんなにも気分が楽になるはずがない。
首の後ろにも冷やしたタオルらしき存在を感じ、その下に支えられている硬い感触がある。
結論から言えば、浮葉は大我の膝の上に載せられていた。膝枕をされていることに一抹の悔しさを感じつつも、冷やしたタオルによって自身の服が濡れることも厭わない大我のことがよく分からなくなってくる。
浮葉から今の大我の表情は伺えないが、先程のしかめっ面からして不本意なことをさせているのは分かる。
「――君は?」
見えないので手で探ろうとしたが、位置が分からずに空を彷徨う。ふらふらとしているとその手を取られてぎゅっと掴まれた。冷えていたはずの手は、またあの熱を取り戻していた。
べたべたして、暑くて、不快だった。
それなのに、やはりその手だけが別だ。触れただけで、大我の手だと分かる。源一郎との違いが浮き彫りになっていく。
(おかしな話だ)
大我の手をしっかり見たこともなければ、触れたこともないのに。
「余計なことは、」
「君も苦しかったんじゃないですか」
言葉を間違えたと、はっと息を呑んだ。浮葉はただあの暑さの中で大我も大変だっただろうと労うつもりだったのだ。だが、この言い方ではまるで〝含み〟があるようではないか。
しくじった。表情が見えないから余計にまずい。言い繕うべきか、軽口でいなすべきか。逡巡している間にも、掴まれた手がどんどん大我の熱を帯びていく。腕からじわじわと融解されていく。
「苦しくもない、そう思う暇なんざないからな」
淡々と紡がれるそれに、浮葉は互いの表情が見えなくてよかったと思った。
「――坊ちゃんのせいだぜ?」
茶化したその言葉に――吐露されたその言葉に、普段聞けない本心が込められている。
その証拠にまだ手は掴まれたままで、さっきより少しだけ力が強まって――離してもらえない。
熱中症で火照った熱とは別の熱が灯って、頬に昇る。今はきっとどんな言葉も口にはできない。
覆うものもなく、肌同士が触れ合う。
互いの体温を分かち合ったまま、浮葉は緩やかに眠りに落ちた。
fin.