識 思えばボクは、他人を羨むことなど、久しくしていなかった気がする。
とはいえ、これは「個人に向けて」の話だ。種族として……師匠に造られたホムンクルスとしてのボクは、己の本質を理解した瞬間から、人間そのものに焦がれて生きてきた。
人間としての生き方や考え方、彼らの感性、能力。ボクが求めたのはそんな、ごく一般的な人間としての能力だった。
しかし結局、人間というものはボク自身とたいした違いなんてなくて。知れば知るほど……交流を続けていくにつれて、自分のことが分からなくなっていった。
ボクは長らく、〝ボク〟という存在、アイデンティティを自分自身に見出すことができなかった。
アルベドという名前、身体的な特徴、白亜の申し子という称号、自分の持っている知識……そして、この命そのもの。
それらはすべて、師匠――レインドットから与えられたものだったからだ。モンドで得た名声も、元を辿れば、師がボクをモンドへ……アリスさんの元へと導いたから。
ボクは、師に決められた道を歩いて、生きてきた。彼女の導きの光のまま、生命と世界への探究を続けていた。
それが少しだけ変わったのは、いつの頃だったか。アリスさん、クレー、騎士団の皆、それから旅人。ボクに……天才だとか、そういうレッテルを貼らず、対等に接してくれる人々との交流を経て、ボクはようやく〝ボク〟になれた。そんな気がしていた。
……だというのに。友人の言葉を借りるが、運命というものは、逆らえず、抗えず、受け入れることしかできないものらしい。
「やあ、ボク。……今日は、夜更かしをするつもりなのかな」
自室の扉を開けてすぐ、耳に入ったのはそんな言葉だった。ボクによく似た、ボクよりも少し抑揚の強い声色。鏡写しというには精巧すぎる、ボクと全く同じ姿をした〝彼〟が、ベッドのふちに座り、ボクを出迎えた。
「帰ってくれないかな。今日は疲れているんだ」
「そう言わず。一緒に眠るだけだ、構わないだろ?」
ボクが思い切り嫌悪の感情を示しても、彼はクスクス、楽しげな笑い声を上げている。
「起きていたいのなら、付き合うよ」
寝支度を整えようとするボクにしなだれかかってくる彼の様子は、まるで眠りたくないと駄々をこねる子供のようだった。事実――彼が目覚めたこと、それを誕生と定義付けるならば……彼は幼い子供そのものだ。
ボクと同じように、自らの好奇心と探究心のまま、世界の真相、それを追い求めている。けれどひとつ、違うのは……。
「ねえ、ボク。キミは今、何を考えてる? どんな気持ちなのかな」
……こんな風に、ボクと深く触れ合いたがるということ。知りたがる理由は分かる、彼は今まで、ボクに成り代わるために尽力してきたのだ。ボクが何を感じ、何を思い、どう行動するのか。気になって当然だ。でもそれは結局、いつか無意味なものに変わるだろう。……彼はボクではない。いつか彼も、ボクの似姿などではなく、新たなアイデンティティを得てくれることを願っている。
「……答えてくれないのかい?」
残念そうに……けれどどこか、分かっていたとでも言うように笑う彼を尻目に、着替えを進める。外した服のボタンを指で弄んだり、ボクの髪をいじったりしながら、それでもなお、しつこく話しかけてくる。
無視し続けるのにも限度がある。いい加減鬱陶しくなり、文句を言おうと顔を上げた、その時。
……目の前にあったのは、彼の唇だった。唇が重なった。口付けられた。そう認識した瞬間、ボクは反射的に手を伸ばし、彼を突き飛ばしていた。彼はよろけたものの、転けることはなく……突き飛ばされたというのに、嬉々としているように見えた。
「やっと応えてくれたね」
「……何のつもりだい?」
動揺を押し殺し、平静を装って言う。すると彼は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、また愉快そうな笑みを見せ、今度は抱きついてこようとしてきた。
思わずその手を払い除けると、悲しげに顔を歪ませる。表情豊かだが、どれもこれもわざとらしく見える。ボクは、そんな顔をしない。そんな無責任なことは言わない。そんな軽薄な態度は取らない。……こんな、自分勝手で浅ましい行動を、したりしない。
「やめてくれ。……そんなの、ボクらしくない行動だ」
「そんなことはないよ。ほら……」
ボクの腕を掴み、強引に引き寄せる。掴まれた腕は彼の胸へと当てられた。伝わってくる鼓動は早鐘を打っている。……興奮してるんだ。自分の衝動を抑えられないくらいに。それがどういう意味か分からないほど、ボクは無知じゃない。
理解すると同時に、ぞっと寒気が走る。鳥肌が立ちそうになるのを堪えながら、何とか言葉を絞り出した。
「……嫌だ。キミは、そんなもの、知らなくていい」
「いいや、知らなきゃいけない。……キミのすべてを、ボクは知っておきたいんだ」
――戯言だ。その一言で片付けられるはずだった。なのに、何も言い返せなかった。ボクが何も言わないのを無言の肯定と受け取ったのか、彼は満足げに微笑み、そしてもう一度、ボクを抱き寄せた。