止まらない「ひゃっく……、ひゃっく……」
時計の短針が十二から少し過ぎた辺り、いつものリビングに伊藤のしゃっくりが響いていた。当の本人は気にしていない様子で、部屋の中央に置かれたソファに腰を掛け、黙々と小説を読んでいる。定期的に伊藤の肩が小さく揺れ、その度に横隔膜が痙攣し、意図しない声が漏れ出る。
ハウスの住民がリビングに集っていたなら、小さな声は喧騒に搔き消されて誰も気にしないだろうが、今同じ場に居るのは猿川だけだ。特にする事もなく伊藤の隣にどかりと股を開いて座り、後頭部を背もたれに預けて宙を眺めていた。
「なぁ……、うるせぇんだけど」
痺れを切らした猿川が呟く。伊藤は聞こえているのかいないのか、無反応のままページを捲った。その間もしゃっくりの音は続き、猿川が舌打ちを繰り出す。
「おい、うるせぇって! 聞いてんの」
前屈みの体勢に変え、顰め面になりながら伊藤の顔を覗き込んだ。ようやく伊藤は小説から猿川に意識を向け片眉をくいっと軽く持ち上げ視線を絡ませる。
「ん? 何が」
「何がって、しゃっくりだよ。朝っぱらからずっとそれだろ、うぜぇ」
「仕方ないだろ、何しても止まらないんだから。気になるなら慧が移動すればいい」
悪びれずに淡々と言い放つ伊藤。確かにその通りだが、猿川がその言葉を聞き入れる事はなく、余計にソファへ深く腰を掛け両腕を背もたれに預けた。
「はぁ? やだ、ぜってー動かねぇ。俺はずっとここに居る」
「そっか」
何の進展もないやり取りを終えた後、伊藤は再び小説を読み始めた。猿川がちらりと横目で伊藤を一瞥すると、身体が跳ねる度に垂れた前髪が僅かに揺れている。その姿が間抜けに感じられ、不思議と苛立ちが萎んでいく。
猿川は口元を伊藤の耳までこっそり運ばせ、肺に空気を溜めた後、思い切り声帯を震わせた。
「わ!!!!!!!」
「……びっくりするだろ」
驚くと口では言っているものの、伊藤の反応は薄い。顔を猿川側に向けたため、鼻先が当たりそうになる程に二人の顔が近づいた。
「驚かせると良いって聞いてよ。止まったか?」
しゃっくりを止める裏技で、真っ先に思いつく有名な方法だ。止めてやろうとした気持ちが半分、からかう気持ちが半分。結構な大声を吹き込んだので、伊藤の鼓膜はキーンと耳鳴りがしているに違いないと悪い笑みを浮かべた。
「本当だ。止まったかも。……ひゃっく」
止まったと言った矢先に効果が分かった。かれこれ伊藤が起きてきて数時間は経っている。百回繰り返すと死ぬという迷信があるが、その上限はとっくに過ぎていた。
「全然ダメじゃねーか。他に何あったか……」
猿川は自分のスマホで検索を始め、伊藤のしゃっくりを止める作戦が決行された。
息を止める、冷たい水を飲む、砂糖水を飲む、両耳を押さえつける、瞼の上から両目を押す。片っ端からネットで知り得た裏技を試してみるも、効き目は虚しく終わる。律儀に付き合う伊藤だったが、唐突に飽きが来たようで「きっとそのうち止まるよ」と言い放ち自室に戻ってしまった。ポツンとリビングに取り残された猿川はあまり面白くない。自分も部屋に戻ろうとしたが、自然と伊藤の後を追っていた。
「おい、ふみや。舌出せ、舌」
ノックもせずに我が物顔で猿川が扉を開けるなり、ソファで仰向けになって小説の続きを読んでいた伊藤の元へずかずかと近寄る。本を取り上げ、床へ雑に放り投げた。伊藤は一連の動作に言及することもなく、手持無沙汰になった片腕をだらんと下す。
「舌? なんで?」
「いいから、出せって。ほらベッてしろ」
まだやっていない裏技を猿川は試してみたかった。訳も分からず指示通りに伊藤は舌を差し出す。間髪入れずに猿川は舌先を親指と人差し指でつまみ、限界まで引きずり出した。
「ん!」
珍しく伊藤の焦ったようなくぐっもった声が聞こえる。猿川の腕を両手で掴み、なんとか離そうと抵抗した。しかし猿川の指は離れない。唾液で滑る表面を捉えるために指先が白むまで圧を強め、力尽くで引き続ける。
感覚が敏感な粘膜を、成人男性の指圧で強く挟まれてはかなり痛い。舌を誤って噛んだ際の鈍痛がじんじんと広がり、伊藤の眉間に深い皺が刻まれ、半分閉ざされた瞼から恨めし気な瞳が覗く。それでもなお、猿川はやめなかった。抵抗される程、反発心が刺激される。
ならばこちらも手段は選ばないと、片手を猿川の脇腹に伸ばし服の上から擽ってみる。
「きゃはははは!!!」
伊藤の予想は的中し、甲高い笑いと共に猿川は後退り解放された。
「なにすんだ!!」
「いや、こっちのセリフだから」
自身がした事を棚に上げ、擽られた箇所を押さえながら文句を告げる猿川に、伊藤は起き上がり言葉を返す。舌の違和感が拭えないのか、もごもごと口を動かしていた。
「痛いんだけど、舌。爪刺さって血が出たかも」
「はぁ? 爪立ててねぇよ。嘘つくな」
「だって、ずっと痛い。慧のせいだよ」
やりたかった事が出来たので、結果はどうあれ満足した所もあり、そのまま放置しても良かったが、調子に乗った自覚のある猿川は罰が悪い。その後も痛い痛いと騒ぐ伊藤の隣に腰を下ろした。
「あ~もう、分かった。見せろ」
素直に伊藤は舌を見せつけた。まじまじと色んな角度で観察しても、傷や出血は見当たらない。
「血なんて出てねーぞ。大げさ過ぎんだろ」
「まだ痛い。慧が舐めてくれないと治らないな、これ」
猿川の首裏に伊藤の手のひらが伸びる。狙いが解かった時にはもう遅く、何か紡ぐ前に唇を塞がれた。ぬるりと肉厚な舌が咥内へ侵入を果たし、根元まで押し込まれ口いっぱい伊藤のものになる。噛み付こうと思案するも、また痛いと騒がれるだけだと躊躇してしまう。何とか押し出すために舌を動かすと一層絡まり、水音が飽和して脳回路が焼き切れていく。猿川はこれに弱かった。
「……ん、はっ。う」
徐々に息が上がり、力が抜けて両腕で伊藤に縋りつく。角度を変えて深まる口付けに猿川の目はぐるぐると回り、頬が火照っていった。身体が期待して、心臓はどくどくと脈打っている。
「あ。止まった」
突然伊藤の舌が抜けて唇が離れる。ぼうっと頭が回らない猿川は、一瞬何のことか分からなかったが、数秒遅れて理解した。散々しつこく繰り返されていたしゃっくりが、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「腹減ったから、何か食いに行こう」
猿川は完全に出来上がっているのにも関わらず、伊藤はいつもの調子で昼食に誘う。今まで咥内を這っていた温かな舌が急にいなくなり寂しさまで感じる。自分だけスイッチが入っているのが悔しくて堪らず、猿川は黙った。勝手にしやがれと言わんばかりに伊藤の胸板を押し退ける。立ち上がってその場を去ろうとした瞬間、腕を捉えられた。
「ははは、悪い。冗談。するだろ?」
何を、とは聞き返さない。愚問だからだ。猿川は振り返って伊藤を見下ろす。睨むような眼にはまだ熱が籠っている。一度火をつけられたこの衝動はもう。