真夜中のキッチン 深い夜。建物全体が眠ったような静けさに足音も溶け込む。目が覚めて喉が渇いていた。自室の水差しにはまだ半分程水が残っていたが、足がキッチンへ向かった。月は随分と高い位置にいるのにその輝きと大きさのせいでキッチンの中は夕闇に置き去りにされたような暗さと明るさの間にあった。影もまるで生まれたばかりのようにぼんやりとしている。
作業台の側にある椅子に座って喉を潤した。今夜は本当に静かだ。日が昇っている間のこの場所とは別世界のようにも思えた。
ふと、鍋が目に付く。朝食用のスープの仕込みだろうか。誰よりも早く誰よりも遅くまでこの場所にいる数時間前の彼を想像する。鍋の前に立ち、火加減を見つつ時折混ぜ込み、小皿に取って一口味見する。うーん、と首を傾げて綺麗に並べられた調味料の瓶に手を伸ばす。迷わず一つを手に取り、鍋に少量振り入れた。何度目かの味見で静かに笑い、火を消す。鍋に蓋をして寝かせる。道具を洗い、水を切った皿を拭く。食器棚へ皿をしまう。作業スペースを布巾で拭く。床にゴミが落ちていないか確認する。汚れていれば軽く掃除。使った布巾を洗い、布巾用の物干しに広げた。両手を腰につけて辺りを見渡して頷く。エプロンの結び目を解き、手早く折り畳む。畳んだエプロンを片手に掛けて、キッチンを出ていく。
キッチンを出る想像のネロを目で追った後、まだ自分が夢を見ているように思えて小さく頭を振った。当り前のように彼がここにいる生活。細かく想像できるくらい彼を見ていたことを自覚し、また喉が渇いてきた。
コーヒーを淹れるわけでもないのにどうしてわざわざキッチンまで足を運んだのか。この場所はどこを見ても彼の気配が残っている。それを求めて来たのかもしれない。意識し始めたら、想像ではない彼の顔を見たくなってしまった。
「……今日はもう眠れそうにないな」
起きてここに来た時に僕がいたら、ネロはどんな顔をするだろう。驚いて笑うだろうか。呆れてしまうだろうか。……眠れなかったのかと心配するだろうか。
静かな夜、彼の気配に包まれながらそれを待つのも悪くないと思った。