わるいこ人の集まる場所は苦手だ。積極的に人と関わることを避けるためにあえて存在感を消していてもなぜか見つかってしまい、やたらと話しかけられてしまう。参加してくれて嬉しいだの、お会いしたかっただの、社交辞令で済無用な会話であればお手本のような答えで返すことができるのだが、それ以上踏み込んだ事を聞かれることも多く非常に精神をすり減らすのだった。
帰る間際にトイレに立ち寄り、鏡に映った自分の顔を見るとやけに老けて見えた。スーツも少し乱れている。自分の恋人はこれを綺麗だと言うが、お世辞にもそんな言葉が似合うとは思えなかった。芸術家だと見えている顔も全く違うのだろうか、なんて考えてみたが彼になってみれば分からないなと早々に考えることをやめた。そんなに若くないということは重々承知であるが、先の疲れが明確に現れており思わず自嘲する。しばし鏡を眺めていると、スーツのポケットに忍ばせていたスマホからメッセージを告げる音が鳴り、取り出して画面をつければメッセージの送り主は恋人からだった。
「待っている」
たった一言だけのメッセージのはずなのだが、視線を画面の右上に表示された時計に移し「しまった」と小さく呟く。急に決まった会であったために連絡を入れ忘れていた。冷や汗が背中を伝った気がしたが、そんなことを気にかけている余裕などなく「今から行きます」とだけ手短に返し慌ててムクホークに飛び乗り目的の場所を目指す。
若干息のあがったまま彼の家のドアを開けまっすぐリビングを目指す。しかし、リビングは真っ暗でコルサがいる気配はなかった。その代わりに、彼のアトリエに続く扉が僅かに空いておりそこからぼんやりと光が漏れ出していた。そっとドアに近づくと、服の布の擦れる音やなにか道具を置く音、そして時折咳払いをする音が聞こえてくる。音を立ててしまわないようにドアを開け椅子に座り作業をするその背中に近づけば、さすがに気配に気づいたのかコルサが作業をする手を止めた。
「遅かったじゃないか」
「……すみません、連絡を入れていなくて」
コルサは振り返らずじっと作業中だっただろう目の前の作品を見つめている。
「仕事か?」
「……はい、少し立て込んでいて」
僅かに頭が下がり、彼の視線が下を向いたことが分かる。なおも彼は振り返らずこちらに背を向けていたが、しばしの沈黙が二人の間に流れた後彼はようやくこちらを向いた。
「嘘は良くないな」
ただ一言そう言いゆっくりと立ち上がると、こちらに歩み寄り自分の左頬に手を添えた。親指で頬を擦りながら瞳の奥にあるものを覗き込もうとするかのように見つめられ、思わず一歩後ずさる。
「誰と会っていたんだ?そんな匂いを纏わせて仕事だと言い切れるとはな」
そう言いながら彼の親指は鼻を通って反対側の頬へと移り、口を覆うように自分の顔を正面から掴んでいた。
(続)
「どうなんだ。男か?女か?」
射抜くような視線から目が離せず、黙り込んだままじっと見つめ返す。どうせ隠し通せるはずもないのだから正直に話すべきなのだが、かと言って話したところで自分にとっていい結果になるとは思えなかった。指先に力がこもり徐々に頬に食い込み始める。下手をすれば顎ごともぎり取られてしまいそうな力にやめてくれ、と意思を示すべくその手首を掴めばあっさりとその力は抜けていった。
「っは……はぁ……」
押さえつけられていた痛みの残る頬を摩っていると、その様子を見ていた彼が蔑むような笑みを零す。
「そんな顔をするのは、大方どこかの会食にでも連れていかれていたのだろう」
自分が告げずともあっさり見抜かれていたことに驚き視線だけ彼の方を見ると、怒りとも呆れともつかぬ表情でこちらを見ていた。
「慣れない人付き合いに生気を抜かれたような顔だ。それにその下品な匂い。女のものではないな。男だ今でもその匂いが残るほどなのであれば余程相手に好き勝手させていたように見えるが、違うか?」
「ち、違います……」
好き勝手させていたなんて人聞きが悪い。自分だってあんな場所に半ば強制的に参加させられて、ただ穏やかにその場を切り抜けることで精一杯だったのだ。
「それに、自分のような草臥れたおじさんに態々変な視線を向ける輩なんていません」
これも事実だ。ボディタッチがなかったかといえば嘘になるが、声をかけてきた者はみな自分よりも年下に見えたし、中には既婚者だっていたのだ。
「……だったら勝手に触らせてもいいと?」
「そういう訳では」
そこまで言うと、コルサこちらに歩み寄り思い切り肩を押した。急なことに体の芯を保つことが出来ず、よろけて後ろのドアに体をぶつけた。痛みに顔を歪めていると、そっと首を掴むように手が添えられていることに気づいた。
「そもそも、ワタシに言うべきことがあるんじゃないか」
「あ……」
初めは撫でるような動きから時折身体の中でもとりわけ重要な血管の走るそこを押さえるような動きに変わり、背中を嫌な汗が伝う。
「すみません……仕事だと…言ってしまい……っ!?」
言い終わるやいなや添えられた手に力がこもる。コルサの表情は変わらずとも明らかな怒りの色を湛えていた。
「違う」
手の力は緩めないままコルサはもう片方の手でジャケットを掴みあげると、数回匂いを嗅ぎあからさまな嫌悪を滲ませる。
「ぁ……っぅ……ぅ……」
ひたすら喉元を押えられていたためか酸素が徐々に届かなくなり、意識がぼんやりとし始めた時、今ここで気をやらせるわけにはいかないとコルサは少しだけ手の力を弛めた。
「ワタシ以外の人間に易々とその身体を触らせるなんて許せん。それに」
「はぁ……っ、ぁ……?」
「まだ隠していることがあるだろう」
ああそうか、彼は何もかもわかっていたのか。いや、わかるようにあえて仕向けていたのは自分で、それにコルサは気づいた。その事実にゾクゾクと全身が戦慄き、僅かに口角はが自然と上がった。
『アオキさん、またお会いできて光栄です』
ビュッフェもそこそこに、会の中心を避けるように壁際でひっそりと会場の様子を眺めていると、グレーのスーツを纏った一人の男に話しかけられた。年は自分と同じぐらいだっただろうか。見た目はいかにも場馴れしていそうな華やかなオーラをまとっており、どうしてこんな会場の住みにいるのだろうかというのが率直な感想だった。そして彼はまた、と言った。果たして前回あったのはいつだっただろうかとふと記憶を辿り、数秒して一つの記憶を引き上げた。名前、所属は思い出したもののその時の記憶はあまりいいものではなかったように思う。
『あぁ、これはどうも。ご無沙汰しております』
その時は確か少人数の会だったから必然的に彼との会話が増えてしまっていたがこの日は違った。だから適当に切り上げてしまえば彼は自ずと回の中心に戻っていくだろうと軽い会釈と共に挨拶を交わせば、彼は自分が覚えていたことが嬉しいのか顔をほころばせて、近くを通ったウェイターからシャンパンを受け取ると一歩自分と距離を詰めた。
『覚えてくれていましたか。嬉しいです』
『はぁ』
『くたびれるんですよね、こういった会は』
『そうですか、少なくとも自分よりは遥かに慣れていそうな気がしますが』
『はは、そう思われているなら少し自信が持てます』
彼は一口シャンパンを飲むと、ひとつ息を吐き自分の目を見つみめた。彼の持つスカイブルーの瞳はとても綺麗だと、純粋にそう思った。黒黒とした自分の瞳とは大違いのそらに瞳に吸い込まれそうになったところで、彼に気づかれないように小さく息を吐いて視線を逸らした。兎に角早くその場をを切り抜けたかった。
『この後のご予定は?』
彼にそう聞かれたのはこれが初めてではなかった。一度目はこの日から数ヶ月前で、規模は違えど今回のように他分野からの人物も参加していた。そこで声をかけられたのが一度目。会話の詳細までは覚えていないが、先の言葉で誘われたことは事実だった。
『ありませんが』
彼の言葉の意味するところがただ飲み直すことを提案しているのではないことは頭のどこかではわかっていた。ただ、酔いも回っていた状態で正常に思考が働いておらず、直接的なアプローチをかけられていたことからたまには乗っかってみるのもいいかもしれないと思ったのだ。コルサのことはもちろん頭にあった。それでも、あからさまな匂いをつけて帰れば彼はどう思うのだろうという純粋な興味が湧いていた。
『へえ。以前は断られてしまったので今回もダメかと』
彼は少し距離を詰め、右手に持っていた自分のシャンパンを手に取ると近くを通りかかったウェイターに返し、そのまま腰に手を回した。
『じゃあ、この後自分の部屋に来てください』
酒が回ればやっぱり頭はバカになってしまうらしく、コルサの存在が頭にちらついてもその先に起こるかもしれないことを考えれば全身がゾクゾクと痺れた。
あの後、自分を誘いかけた男はいつのまにかパーティ会場から姿を消しており、自分はといえば時たま知らぬ人間に話しかけられる状況にうんざりしていた。ここに残り続けたところで自分が楽しめるような状況に変わるはずもないと会が終わる前に会場を抜け出した。言われた時間まではまだ少し余裕があったが、彼が早めに姿を消したことを考えれば先に部屋に帰ったのだろうと考え、しばしロビーで逡巡した後指定された場所へと足を向けた。部屋の前で扉を叩けばゆっくりと扉が開き『どうぞ』とあの男の声がした。
『本当に来てくれたんですね』
既にシャワーを浴びた後なのか、バスローブを纏った男はグラスを片手に驚いた様子でこちらを見た。しかしその驚きも一瞬で消え去り、自分のつま先から頭までを舐めるように眺めていた。それからそっと自分の手を取るとその甲に口付ける。不快であることに変わりはないが、アルコールで鈍った思考では不快とは違った感情もまた孕んでいたように思う。そのままベッドまで恭しくエスコートされて二人で腰掛けると、彼はその手を緩く掴んだまま体をこちら側に向けた。
『アオキさん、恋人はいないんですか?』
何と答えたとしてもこの先待つものは同じなはずなのに、どうして聞くのだろうと疑問に思う。
『……どう思いますか?』
『はは、質問に質問で返すなんてずるいなあ』
男は楽しそうだった。わざわざバカな答えをするあたり自分もまたこの異常な状況を楽しんでいたのかもしれない。
『そうだなあ。アオキさんはとても魅力的ですから、素敵な恋人がいそうだ』
目線の動きやどことなくわざとらしい口調に、彼はもしかしたらコルサに行き着くことはなくとも誰かが自分のそばにいるということに気づいているのかもしれなかった。
『いない、といえば?』
『だったら遠慮なく貴方を堪能できる。僕の好きなようにね』
男はからからと笑った。だが目は笑っていなかったところを見ると、その言葉に偽りはなく彼の本心であることは容易に理解できた。
『でも、普通はそんなことは聞かない。何かを心配しているように見える』
当然頭にはコルサの存在が浮かんでいた。遅くなっているのは仕事だからと割り切って、アトリエに篭りながらきっと今も自分の帰りを待っているのだろうとぼんやり考える。そんな様子を見て彼は恋人の存在を確信したらしかった。
『恋人がいるのに、僕みたいな人について来るなんてダメじゃないですか』
彼は自分のジャケットのボタンを外して抜き取ると、それを丁寧に目の前のハンガーに吊るした。確かにダメだ。ではなぜ自分はついてきたのだったか。
『怒られちゃいますよ』
ああそうだった。別の人の影をちらつかせたら彼はどう思うのだろうと、純粋な興味が湧いたのだった。
『そうですね、きっと酷く怒られる』
でもそんな彼も見てみたいと、思ってしまった。
『貴方は悪い人だ』
自分の言葉を聞いて彼はとても楽しそうに笑い、自分をベッドに押し倒した。それから直後布のようなもので口元を覆ったかと思うと、視界がブラックアウトした。
(続)