あげたいもの書類作成の手を止めて一息つきデスクに置かれたカレンダーを見つめると、先程廊下ですれ違いざまに聞こえた話がふと頭に浮かぶ。
これまでは自分に関係の無いイベントだと意識の外に放り出されていたその日は、いつの間にか自分のテリトリーの中に戻ってきていたらしかった。自販機で飲み物を買おうとした時にたまたま耳に入っただけで話の全貌は見えなかったが、どうやらクリスマスはどうするのかといった話をしているらしかった。最後に自分事としてその日を過ごしたのは果たしていつだったかとわずかな時間の間に思いをめぐらせ必死に記憶の断片を手繰り寄せようとしたが、結局そのどれもが曖昧なもので現実に意識が引き戻されるまでに掴み取る事は出来なかった。当然彼女たちの話の中身に興味はなかったが、クリスマスというワードがどうしても自分のそばを離れようとせず、再び脳裏にひょいと顔を出してきた。
卓上の小さなカレンダーの下の方、さらに言えば少し左によったところに並ぶ数字に目をやり、視線を僅かに上げてはまたその数字を眺め、そしてため息をこぼす。
「たまには外で食事するのはどうだ」
仕事を終え、時間に余裕があったためコルサの家に寄り2人で晩御飯を食べている途中にふとコルサがこぼした。
「また突然ですね」
「いいだろう別に」
「嫌とは一言も言ってないですよ」
「......面倒臭いなキサマも」
大きめのため息をつかれてしまったことに心の中で詫びを入れつつ話を進めるよう促した。
「そうだな、この日はどうだ」
そう言ってコルサはダイニングテーブルの近くの壁にかけられたカレンダーを指さした。彼のしなやかな指が示す先は、昨今世間が今か今かと楽しみにし、ところによっては派手な飾り付けやマーケットを開催してひとつのお祭りのような装いさえ見せるその日だった。
その小さな枠の左上あたりに収まったやけにかわいらしい字体の数字を見れば当然頭にその名前が浮かぶが、あまりにも自分たちには似合わないであろうそれに一瞬返すべき言葉を失う。
「えっ......と、」
「なんだ、仕事か?」
「まぁ、はい。仕事は普通にある日ですね」
別に我々がなにか盛大に祝ったりする訳でもないだろうから違う日でも構わないと提案をしようとしたところで、先に口を開いたのはコルサだった。
「クリスマスだぞ、アオキは知らんかもしれんが」
「いや、流石の自分でもクリスマスぐらいは知っていますよ」
「ならいいだろう」
彼のことだからてっきりそんなイベントは気にしていないのだとばかり思っていて、彼が望むものが正直なところよくわかっておらずこれまで自分事として経験をしてこなかったことをこの時初めて後悔した。
「プレゼント交換でもしますか」
半ば苦し紛れでしぼりだした提案に、コルサは驚きとも呆れとも取れる顔をしていた。なにか不味いことを言ったかとたまらず逸らすと、暫くしてコルサが突然笑い始めた。普段あまり見ることが出来ない光景だと思う一方で半ば不服な気持ちを抱え、なおも笑い続けているコルサに反論を試みる。
「そこまで笑わなくても......変なこと言いましたか」
「すまない......いや、アオキからそんな提案が出るとは思わなくてな」
コルサはひとしきり笑い尽くしたらしく、ひとつ咳払いをして答えた。
「大した経験がないもので」
未だ不機嫌の抜けきらない自分は、卑屈な言葉をコルサに返す。
「そう卑屈になるな。まぁ、あそこまで働き詰めでは同じ立場になれば皆そうなってしまうのも頷ける」
「じゃあ......」
「そもそもその日は家族や大切な人と過ごす日だろう。プレゼント交換もいいが本題はそこじゃない。普段はお互い不規則だからこうやってどちらかが駆け込んで飯を食うぐらいしかできん。だからまぁ、たまにはイベントごとに乗っかって恋人らしいことでもしようではないか!」
コルサが机に身を乗り出し気味に息巻いていたのがつい先月の話。そしてその日は徐々に近づきつつあった。嫌いではないけれど、なんとなく遠ざけていたそれは一度気を許してしまえば案外何事もなかったかのように、さも当たり前のように自分の生活の一部に入り込んだ。仕事の帰り道に普段と違う装飾や煌びやかなライトが目に入ると、もう何年も通い慣れた道のはずなのに全く知らない世界を歩いているかのような感覚を抱いた。少し早く仕事を終えて彼の家に行った時には小さな雑貨屋があることに気づいた。こんなところがあったのかと、若干待ち合わせに遅れてしまうかもしれないと心の中で謝罪の言葉を述べつつ店内を見回す。当然というべきか、普段から売っていると思われる雑貨の他にこの季節柄小さなツリーを模したオブジェやリース、キャンドルライトが売られていた。店内には数人の客がおり、見た目で判断してはいけないが明らかに自分は場違いだなと感じ、ほのかに体温が上がった気がした。さも自分は何も気にしていない風を装い綺麗に並べられたディスプレイの上で視線を散歩させ、手のひらに収まるサイズの木製のツリーを手に取った。どこか物足りないとそのツリーを眺めていると、どうやらそれにぶら下げるオーナメントは自分で選ぶことができるらしく、ツリーの隣に幾つかの小さなカゴに分けられたオーナメントたちが置かれていた。オーソドックスなデザインのものから全てではないがいくつかポケモンたちの顔を模ったものも置かれており、指先でかき分けると思った以上の種類があることに気づいた。
「ありがとうございました」
おそらくこの店を経営しているだろうご老人の穏やかな声を背に受け店を後にすると、スマホを開いて少し遅れると連絡を入れてコルサの家に向かった。紙袋に入れてもらったツリーは、中身が詰まっているカバンに入れることができず結局小脇に抱えることになった。
コルサの家にたどり着き2人で食事を食べた後、紙袋から出されたそれを見たコルサはひどく驚いたような顔をしていた。しかし、深く追求してくることはなく微かに頬を緩めながらそのツリーのオブジェをダイニングにある棚の上に飾った。
「ほう、この飾り付けはずいぶん洒落ているじゃないか」
コルサは飾り付け用に買った小ぶりのオーナメントを手にしてそう呟いた。ポケモンたちのデザインになったそれらを見てもしかしたら、とカゴの中をかき分けるとミニーブを模したものを見つけすぐさま手に取った。他の人も見たいだろうからと焦りが生じていたがそのあとはチルタリスのものも見つけることができた。もしかしたら他にもあったかもしれないと考えもしたが、無事に見つけられたことはラッキーだったと思う。
てっぺん近くに飾られたそれらは室内照明に照らされてきらりと優しく光る。
「いいですね、たまにはこういうのも」
「そうだな」
しばし飾り付けられたオブジェを2人で眺めたあと、名残惜しさを感じつつも明日の仕事に備えて彼の家を後にした。
たまには世間様が騒ぎ立てるようなイベントに乗っかって恋人らしいことをしようと提案した時、心の内では酷く不安に襲われていた。自分の恋人は飄々としているように見えてそれでいてしっかりとした芯を持っている。己を幸福にするものテリトリーに収め、惑わせるものはその世界に入り込ませまいとしている。だから、自分がその世界に入ることを許された時の喜びは筆舌に尽くし難いものがあった。互いの生活が完全に混じり合うことがなかったとしても、僅かに世界が重なり合う瞬間が何よりも幸せな時間だった。
そのはずなのに、どうしてか欲が出てしまいあまりにも自分たちには似合いそうにもない提案をしてしまった。経験がないから分からない、とプレゼント交換を提案された時は驚き半分湧き出る愛おしさを堪えきれずに思わず笑みがこぼれアオキはそれを見て思いっきり顔を顰めていた。仕事だからと断られるかもしれないと踏んでいたが、悪くない反応に無意識に強ばっていた心も次第に解けていった。
こういうのもいいのではないか、と彼が買ってきた小さなクリスマスツリーのオブジェはダイニングの棚に飾られている。このオブジェが置かれていた店を見たことがあった。彼が1人でそこへ行き、自分を思って買ったと思うとやけにむず痒い感覚を覚えた。
約束の日まであと僅かになった頃、時期柄長い休暇に向けて皆がせっせと業務を進めようとしているから、滞りがちだった仕事が流れるように動き自分の中ではすこぶる順調に日々が過ぎていっていた。
「もうすぐクリスマスですねえ」
「1年早いなあ〜、なんで今年平日なんやろ。アカデミーは何かするんですか?」
「今年もクリスマスパーティをやるのですよ!みな準備が大詰めで気合いが入っています」
リーグの面子と顔を合わせると皆それぞれ来る日に思いを馳せていた。毎年の光景であったはずのそれも、今年は自分もその世界に引き入れようと手を伸ばしているように思えた。
「アオキさんはなんかしはるんですか?」
チリの声がこちらに飛ぶのが分かり、反射的に顔を上げる。チリも会話に参加していたハッサクも期待しているような、まぁ仕事だろう、とあまり返答を期待していないようなそんな顔をしていた。
「ええ、まぁ」
予定はあるのだし嘘は言っていないつもりだったが、予想していた答えと違っていたことに驚いているのが一際見開かれた両者の目でわかった。
「え!!!!!それって......いや、聞いてええんかな」
「おや、デートですか?」
ハッサクはなんの迷いもなく自分に問いかけた。相手を選ばなければ厄介なことになるぞと言ってやろうかと思ったが面倒なので敢えてその発言には口を閉ざす。だがその結果生まれてしまった妙な沈黙を2人は肯定だと解釈したらしく興味津々にこちらを見ていた。
「......何ですか」
こんな時気の利いた一言が言えない自分を情けなく思いながら交互に視線を投げると、嬉しさが隠しきれない様子のチリが大きく息を吐く。
「いやあ〜この部屋幸せオーラ溢れすぎてるわ」
「飲み込まれてしばらく呼吸が止まっていたのですよ」
なにもまずいことを言った訳でもないのに妙な気恥しさに襲われ、二人の会話を程々に受け流しながら改めてPCの画面に向き直る。恋人と2人の時間をまともに作れるのだから、嬉しくないわけがない。もう互いに若くもなく今更20代そこらの恋人同士のようなやり取りができるはずもないため、隣にいることを許されるだけでも十分に有難かった。僅かな時間しか共に過ごせなくてもその中で互いの世界を共有出来ればそれで心は満たされていた。それでも、願わくばその時間が今よりも長くなればと考えることは何度もあったからこそ、今回の誘いは自分の中では非常に特別なものとなっていた。
終業時間をとっくにすぎ、一人執務室を後にしようとしたところでコルサからメッセージが入っていることに気づく。それは約束の日に予約した店の情報を告げるものだった。自分でもよく知っている有名なレストランの名前が記されたそのメッセージじっと見つめた後、カレンダーアプリに切り替えてその名前と時間を記録した。
帰り際に以前オブジェを買った店の前を通ると、遅い時間にもかかわらず店内には明かりが点っており客と思われる人物が数名いるのが見えた。思わずスマホで時計を確認すると普通なら店を閉めているところが多い時間だったが、店の扉に目をやると確かにまだ営業中であることが示されていた。
(変わった店だ)
一刻も早く帰りたいとつい先程までは思っていたはずなのに、可愛らしい雑貨が丁寧に並べられている様が寒々とした店外とは対称的に酷く温かみを帯びたものに見え、自然と手がドアを押していた。
「いらっしゃいませ」
店主の穏やかな声に迎えられ、寒さで気付かぬうちに固まっていた体がほぐれていく。レジの向こうに腰掛けている店主に軽く会釈をして店内を見回す。以前見ていたクリスマスの作家を並べたエリア以外にも、思った以上に多くの種類の雑貨が置いてあった。驚きつつふと壁の方へ視線を移すと、主にアクセサリーを置いているらしい棚が目に入る。
ピアスやイヤリングといった小ぶりのものからブレスレット、ネックレスまで様々なものが置かれていた。女性にあげるならこの色なのかもしれないがコルサに渡すとなるとどうだろうか。彼がアクセサリーをしているところはあまり見た事がない。
(そもそも、こういうものを貰ったとて喜ぶかどうか......)
彼は自分以上に人との交流があるだろうから、見慣れぬものがあればそれは何だと問いかけられてうんざりするだろうか。それならば、あまり目に入らない物の方がいいのかもしれない。
「何か、お探しですか?」
「あ......いや」
いつの間にか自分の隣に店主の女性が立っていた。咄嗟に否定の返事を漏らしてしまったが、それをあまり気に留めることなくゆったりと話を続ける。
「気になることがあればなんでも仰ってくださいね」
「ありがとうございます」
「お兄さん、以前ツリーを買われてらっしゃった方じゃないかしら?」
視線を戻そうとしたところでそう言われ、驚いて彼女の方を見ると「あら、やっぱりそうね」と楽しげに微笑んだ。
「男性の方が買いに来ることって実はあまりなくて。ちょっと嬉しくなっちゃったの」
「そう...ですか」
覚えられていたことよりも、自分がここにいることを彼女が喜んでいることに何となく気恥しさを感じた。しかしこの僅かなやり取りが心の中に秘めていた言葉をすくい上げた。
「プレゼントを探していて......」
「素敵じゃない!お相手はどんなものがお好きなの?」
「それが、分からんのです。なんでも似合いそうなのですが、こだわりもありそうで」
「お仕事は何をされているのかしら」
「芸術家です」
彼女は自分に質問をしてはこれなんかどうかしら、と棚に置かれたアクセサリーをいくつか勧めてくれた。いつからか店内には店主と二人きりになっていたらしく、結局付きっきりでおすすめを探し続けてくれていた。
自宅で一人晩御飯を食べながら先ほどの店での会話を思い出す。別にプレゼントを互いに渡し合う約束をしたわけでもなければ態々買う必要もないのに、自分から彼に渡せるものは一体何だろうかと考えることをやめられなかった。
(そもそもクリスマスに会おうなんて約束をしたのも…)
よく考えたら珍しい話だった。どちらもそれぞれの生活を容易に変えることはできないとと内心承知の上で始めた関係だった。互いの気持ちを確認しあい、わずかな時間だけでも一緒に過ごせたらいいと。それでもコルサがそんな提案をしたということはよほど何かしらの思いがあったに違いない。
「あ……」
彼はもしかしたら不安だったのだろうか。この先もずっと同じような生活が続くのだとしたら、何の約束もない自分たちはいつのまにかただの「人並み以上には仲の良い同業者」のようなものになってしまうのではないかと。コルサから直接聞いたわけでもなければ自分の安直な思い込みに過ぎないことは十分に理解しつつ、もし本当にそうだとしたら、という微かな可能性もまた否定することはできなかった。自分は彼の気持ちを受け入れた時は途方もない覚悟を決めたつもりでその決意は揺らがない自信があった。でもコルサはどうだろうか。彼も多くを語らなかった。ひどく真っ直ぐで純粋に想いを述べただけで、それ以降は何も不自由が出ないように振る舞ってくれていた。どれだけ遅くても、会えない日が続こうとも彼は不満を口にしたことはなかった。
(ちゃんと、話すべきことぐらいは話しておいた方が良かったのかもしれない……)
本当のところはわからなくても、こういう時こそ敢えて本心を伝えておくのはきっと悪くない。
考え事をするあまり食事の手が止まってしまっていた。続きを食べようかとも考えたが歩み出した思考を今止めてしまうわけにはいかず、スマホを手に取り撮っておいた写真をいくつか表示させてはじっと眺め、ある一つの写真のところですぐに見返せるようにマーキングをした。
恋人からの誘いに浮かれすぎていたわけでもなく、ただその日を無事に迎えられたらと祈りながら過ごしていたにもかかわらず、祈りが向けられた世界と現実はどうやら切り離されているらしかった。
『アオキ、例の件の対応お願いできますか』
貼り付けたようオモダカの表情の中に僅かに申し訳なさを滲ませながらオモダカが告げた。若手の職員が引き起こしたトラブルにより、急ぎで対処しなければいけない事態となった。業務でのトラブルなどさほど珍しくもないが、長い休みの迫るこのタイミングでとなるとそれに対応する時間が限られることもあった。引き起こしたのは自分よりも若い人間だったためフォローするのは当然だということを理解しつつ、こんな時ぐらいは勘弁して欲しいと思わずにはいられなかった。
(……なんとかなるだろうか)
対応方法をいくつか頭に思い浮かべつつ、最悪自分が全て巻きとってしまえばさほど長引かずにことを収められるはずだと腹を括り、引き受けることを承諾したのだった。
☆☆☆
決して忘れていた訳ではなかった。たった数日の間であまりにも目まぐるしく事態が動くものだから、大切なものが押し流されてしまっていた。
『仕事は大丈夫か。今日はキャンセルしておいた。また仕事が一段落したら仕切り直しにしよう。』
そのメッセージを見た瞬間、頭が真っ白になった。しばしの間時間が止まる。そこに書かれていた言葉の意味を瞬時に理解することが出来なかった。いや、その意味するところは即座に理解できたがそれを認めてしまうのが怖かった。
スマホ左上あたりに表示された時刻に視線を移すと、とっくに約束の時間をすぎていた。それどころかコルサのメセージや着信に全く気づくことが出来ずにいたという事実も同時に突きつけられる。コルサに今すぐ連絡を取らなければ。いや、仕事中に私情を挟むことは許されない。まだ全てが片付いているわけではないためここを離れることも出来ない。彼は失望しただろう。冷え込みがいっそう厳しい日だ。ここで落ち合おうと決めていた場所は確か外だったはずだ。気がついていれば一言だけでも伝えられたのに。
「アオキさん、さっきの件なんですけど」
どれだけ頭が混乱して立ち止まっていても、自分の周りの世界は止まることなく動いている。声をかけられて我に返りスマホの画面を裏返しにしてデスクに置くと、無情にも流れ続ける時間に身を委ねた。与えられた仕事をこなすという当たり前のことをしているはずなのに、こんなにもあっさりと切り替えられてしまう自分が酷く最低な人間に見えた。
2人で向かうはずだった店に断りの電話を入れたあと、もう一度アオキとのメッセージ画面を開く。彼がメッセージを見た形跡は相変わらず無かった。普段は作業の妨げになるからと切っていた通知をオンにしてすぐさま反応できるようにしていたがそれも意味をなしていない。音が鳴っていなくとも、何かの間違いでメッセージが届いてやしないかと何度も画面を開いては変化のない表示に内心落胆するというループを繰り返していた。こうなる可能性は初めからあったのだから織り込み済みでいなければいけないと言い聞かせていた。しかし、それでもやはりそれが現実になることはないだろうとどこかでは思っていた。
「馬鹿め…」
トラブルが起こったとか、そんな話を確か溢していた。どんな規模なのか、誰がそんなことを何て聞くのは野暮だと分かっていたから無理はしないでくれとだけ伝えて細かいことは尋ねなかった。ましてや「今日はどうなるんだ」なんて聞けるはずもない。待ち合わせの場所に立ち尽くしてしばし人混みを眺めると、通り過ぎる人々は今日という日を楽しみにしていたと思われる者から、普段と変わらぬ1日を過ごして疲れた様子の者もいた。これまで他人が幸せそうにしているかどうかなど対して気に留めたこともなかった。どちらでも良かった。幸せならそれでいい、不幸ならそれは大変だなと内心多少の哀れみを向ける程度だった。それでも今年だけは、少し羨ましさを感じ無意識に眉を顰めていた。いつもはこんなに寒かっただろうか。吐く息は当然に白く、コートのポケットに突っ込んでいた指先も徐々に冷えて感覚が鈍り始めてきた。
再びスマホを取り出してメッセージアプリを開く。なおも画面の表示に変化はなかった。
「はぁ、はぁ……出てくださいよ…」
カバンを掴んで文字通り飛び出すように執務室を後にした。何度も電話をかけるがコルサの反応はなかった。メッセージも彼が見たことを告げる表示が一向につかない。時間はすでに日付が変わった後で、見下ろす街は賑わいがひと段落したのか明かりはまばらだった。真っ直ぐに家に飛んでいくべきか悩んだが、落ち合おうと決めていた場所の方が近くにあったことからまずはそこを目掛けて飛んだ。間違いなく帰っているだろうと踏んでいたが、万が一を考えると確かめずにはいられなかった。
待ち合わせ場所の近くには花の飾られた街灯が立っている。周りの店はとっくに営業を終えて明かりが消されており、当然人影もまばらだった。上がった息を整えながら辺りを見回すが、あまりにも時間が経ちすぎていたためか目当ての人物が見つかるはずもなく、己の不甲斐なさにガックリと肩を落とす。虚無感と疲労で体に力が入らず、近くにあったベンチに座り込み両手で顔を覆う。コルサはきっと家にいるのだろうが、どんな顔をして会えばいいのだろうか。仕事だったからと言えば彼は「そうか」と許してくれるのかもしれないが、そんなことは望んでいない。
「何やってるんだ……くそ……」
早く帰らないといけないのに、その足は重く思うように動こうとしなかった。このまま自分の家に帰ってしまおうか。謝罪の連絡を入れて朝まで仕事をしていたとでも言えば。
「ようやく終わりか。社畜根性も見上げたものだな」
この状況をどうしたらいいかと考えすぎるあまり、目の前に人が立っていることに気づかなかった。そしてその声の主がよく知った人物の声であることも、理解するのに時間を要してしまった。
「向こうの店がたまたま開いていてな。飲むか?まだ暖かい」
驚きのあまり声も出せない自分に構わず喋り続け、目の前にコーヒーを差し出された。言葉が体の内側からせり上がってくるのを堪えながら、その容器をぼんやりと見つめる。
「飲まないのか?だったら冷えるから帰るぞ」
「……怒らないんですか」
「ん?」
まだ顔を上げることが出来ないが、ぼんやりと彼の手元を見つめながらようやく言葉を絞り出す
「……すみませんでした。約束、してたのに」
「構わん。どうにもならないこともあるからな。また仕切り直せばいい」
直後視界からコーヒーの容器が消え、その人物が自分の隣に座った。
「コルサさん、どうしてここにいたんですか」
率直な疑問だった。待ち合わせをしていた時間から考えれば何時間もここにいたことになる。まさかその間ずっとここにいたのだろうか。
「連絡が取れなければアオキはここに来ると思っただけだ。それに…」
「それに?」
「アオキに連絡を入れたあとスマホの充電が切れていた」
そう言ってコルサはこちらにスマホの画面を見せ、反対の指で何度か画面を叩いた。確かに電池が切れていたようで、その事実を知った途端より一層体から力が抜けていく。
「だからここにいた方が早いと思った」
「何ですかそれ……」
自分が帰らなかったらどうするつもりだったのか、迷惑をかけたのはこちらなのに突飛なことをするコルサもまた呆れたものだった。
「案外建造物やその辺に置かれているオブジェを観察するのも悪くなかったぞ」
「はぁ……」
そこでしばし会話が止まる。調子が良さそうだったコルサも口を閉ざした。多分、彼の言っていたことは100%の本心でないことは明らかだった。それがなんの感情を隠しているのかまでは分からなかったが。
「まぁ正直、連絡もなしに来なかったのは驚いたし……寂しかったな」
最後の言葉が耳に届いた時反射的に顔をコルサの方へ向けた。彼はじっと前を見つめているがその表情は余り見ないほどに暗いもので、なんてことをしてしまったんだろうと先程の自分を責める気持ちが強くなる。それと同時に、彼がこの日を待ちわびていてくれたことが嬉しくてたまらなかった。そんなことを言えば間違いなく彼を怒らせてしまうため心に留めておき、傍に置いてあったカバンに手を伸ばした。
「こうして落ち合えた訳だ、帰るか」
そう言ってコルサは立ち上がろうとするが、コートの裾を掴み彼を引き留める。驚くコルサを横目にカバンの中に忍ばせていた小さな紙袋を取り出した。
「あの、これ。今日渡そうと思っていて…こんなところで渡すものでもないんですが……」
さらに紙袋の中から小箱を手に取って、蓋を開けその中身をコルサの方に向ける。しかしその中身を見てもなおコルサの表情は変わらず、若干焦りを感じながら先に口を開く。
「……嫌なら、全然受け取ってくれなくてもいいんですが……クリスマスなので」
正直、恥ずかしさで今すぐ振り返って走り出したい気持ちに駆られていたが、もう少しだけ彼の反応を待つべきだと小箱を掴む手に力を込める。
「何のつもりだ」
「え?」
「……それは、つけてくれるのか?」
自分が買っていたのは1組のリングだった。サイズが合うかは分からなかったが、はまらなければネックレスにでもしようかと考えていた。コルサの頼みを断る理由もなく、小箱からリングを1つ取ると目の前に差し出されていた彼の左手をそっと持ち上げこちらに寄せる。そして迷わず薬指にそのリングを通すと、少しつっかえることがあったもののそれはすんなりと指の根元にはまった。小さな緑色の宝石がひとつあしらわれ、そこから草木をイメージした流線型の模様が刻まれたリングはあかりの少ない中でも確かな輝きを放っていた。
「なかなかキザなことをするじゃないか」
「似合いませんか、自分には」
「いいや。いいデザインだな。ありがとう」
コルサは手の角度を変えながらなずっとそのリングを見つめていた。
「本当は晩御飯の時に渡そうと思っていたのですが…」
「構わん。しかし先を越されたな」
「?」
「何だ、コレはプロポーズと取っていいんだろう」
プロポーズと言われ大袈裟に顔に出てしまったのかコルサが声を上げて笑った。笑われた事が不服ではあるが、自分の行動の意図するところがある程度伝わっているのならいいかと反論は控える。
「コルサさんが良ければそう解釈頂いても」
「…ここまでしたなら素直になるのでいいだろうが」
「振られたら立ち直れません。自分はそれだけの事をしましたし」
これは本当だった。真っ直ぐに伝えたとて直近のことを考えれば気が変わることも考えられなくはない。その世界へと切り替わってしまうことが酷く恐ろしかった。
「それはないということだけ、保証しておこう。今更手放す気なんてないぞ」
コルサは真っ直ぐにこちらを見て告げた。その視線から自分が容易に抜け出せる訳もなく、見つめあった状態となる。
「とにかく帰るぞ、話はそれからだ。さすがに体が冷える」
そう言うと彼は少し屈んど自分の手を取り、ぐいっとベンチから引き上げた。
「本当にすみません……」
「もういい。十分すぎるものを貰ったからな」
左手をヒラヒラと振って見せるコルサにかすかに笑みを零す。これ以上謝罪の言葉ばかり告げていればしつこいと叱られかねない。帰るぞ、と歩き出す彼の後を追うように慌てて自分も歩を進め、少し先を行くコルサの左手に自分の右手の指を絡めた。冷えた手の温度だけではなくその指に収まったリングの感触を味わいながら、店先に飾り付けられたクリスマスの飾りがぼんやりと月明かりに照らされた道を2人でゆっくりと歩いていった。