😘 付き合いたての頃だ。何の折だったか二人で自宅の廊下を移動中、村雨が「キスをしても?」と尋ねてきた。俺はうぶな彼が能動的になってくれた喜びと、言葉そのものの攻撃力とで頭に血を昇らせ卒倒しかけながらも、「いいよ!」と勢いよく答えた。小学生ばりの元気な返答に(実際の小学生時代の俺が頗る不元気だったことはここでは不問とする)、村雨は口元に指を添え、「なんだそれは」とくすくす笑った。頬が桜色で、細やかな睫毛が呼気と共に震え、それはそれは愛らしかった。
それからも彼はキスをしたいときには、必ず俺に確認をとった。
されど新鮮だった慣いも、長ずると気掛かりになってくるものだ。無論、煩わしいわけではない。小首を傾いで上目遣いに唇を窄ませる村雨は愛らしさ満ち満ちて、何度だって見たいし、俺の肩に細腕を巻き付けたり、両手を取って屈ませたりと積極的に動いてくれるのはとんでもなく嬉しい。だから気掛かりというのは、“俺は村雨にキスをされて嫌なときなんて無いのだし、彼にもそれを理解してもらいたい”ということだった。
また、そもそもこれは「恋愛事には疎いのだ」と自白し珍しく教えを乞うてきた彼を想い、俺が踏み出す前に必ず伺いを立てることにしていた——「ねえ、キスしていい?」「ハグしていい?」「ここ触っても大丈夫? 嫌だったら言うんだぞ」「こわくない?」「もうちょっとだけいけそ?」エトセトラエトセトラ——ことに起因すると考えられたので、変化をもたらすならこちらからであるべきなのだった。
然るに俺は、ある夜二人ソファで寛いでいる際、彼がいつも通り「キスをしても?」と問うてきたのを受けて、いつもと違う返事をした。
「したいときはいつでもしていいよ。訊かなくてもいいんだ。」
村雨はいつもと違うルート分岐に一瞬戸惑って、しかし賢い頭をすぐ回転させると「親しき仲にも礼儀あり、かと思っていた。あなただって気分じゃないときもあるかと。」ときょとんとした眼で己の唇を撫でた。
「村雨にキスされて嫌なときなんて無いよ。勿論一般的に無理強いは駄目だけど、お前は察しが良いわけだし、俺だってちょっとは成長したから、敢えて伏せるんじゃなきゃ気分だってシンクロできる。だからお前だけは特別、年中無休フリーパス。」
村雨はいっそうきょとんとして、それから顔を伏せ「そうか」と言った。前髪で見えない表情に俺の心配性が尻尾を出す直前、彼は俺を見上げ「なんだそれは」と微笑んだ。悪戯っ子の様でいて、やけに純粋で清らかな笑顔に、俺の杞憂は霧散する。彼は白い両手をすいと掲げ俺の頬を包み込むや、「では遠慮なく」と、艶めくベリー色の唇でオレンジ色の唇に喰み付いた。
*
翌未明。
早朝シフトの村雨は、いつも通り俺を起こさぬよう静かにベッドから抜け出た。
俺は毎度意識こそ浮上させるものの、寝惚けて声は出せず、彼が一度手を握ってくれるのに力を込め返して見送るのが慣いだった。彼はそっと微笑んで、それから俺が前夜のうちに拵えておいた弁当と朝食とを冷蔵庫から取り出し、手早く身支度を整えて出勤するのだ。初めの頃、一緒に起きようとした俺に、「無理を強いて長続きしなくなるのは嫌だ」と彼が言ったので、俺は彼に健康優良と褒められる規則正しい生活習慣を変えることはしなかった。
そして村雨は今朝も俺の手を握り、俺が緩く握り返すのを感じてそっと微笑むと——しかしいつもと違って、握った手をすぐには離さなかった。
痩躯がゆったりと覆い被さる温もりを感じる。俺がまどろみのなか不思議に感じていると、
「行ってくる」
彼は掠れた温かな声で囁き、うすいオレンジの唇に、ベリーの柔らかな熱を落としたのだった。
パタン、と静かに戸が閉てられる。
——いや寝ていられるか!!
俺はすわ覚醒し、どうどうと全身に血液が駆け巡るのを感じた。村雨は無論察していただろうに、意に介さない様子でいつも通り俺の頭を撫で、そっと寝室を出て行った。
どれだけ飛び起きて彼に抱きつきたかったことか!
されど多忙な彼の時間を取るわけにもゆかず、否それよりも、臆病な俺は、起き上がることによって習慣が変化したと見做されもう二度と“こう”してもらえなくなることを恐れた。ゆえに元々狸寝入りをしているわけでもないのに、微動だにできず、ひとり悶々と寝室の温度を上げるのであった。
——ああ村雨、愛しいダーリン! 帰ってきたら、覚悟しておけよ!