バレッタが壊れちゃったんだ、と兄に言われたのは朝食の席だった。
「見せてみて」と言ってそれを受け取る。裏返すと、髪を留める金具の部分がぽっきり折れてしまっているのが分かった。ルタが子どもの頃から大切にしている、星がついたバレッタ。
「直せる…?」
「うん、たぶん大丈夫。ないと不便だろうからご飯を食べたら…」
いいかけた言葉は、鋭い警報音によって遮られる。僕たちは目を合わせることもなく、その場から駆け出した。
誰かに名前を呼ばれた気がして、僕はゆるりと覚醒する。自分の部屋だ、とベッドの天蓋に吊るした星を見て思い、それから頭と背中に痛みを覚えて、顔をしかめる。そうだシーズと戦闘していて、何かを庇った拍子に飛ばされたんだと気付いた。シーズはどうなっただろう。
「…あぁ良かった。目を覚ました」
柔らかな声がして、僕はぼんやりその人物を見た。
「大丈夫。もうシーズは全て浄化したから」
ね、と優しく笑った人物に僕は見覚えがなかった。空色がところどころに混じる、柔らかいピンク色の髪は肩のあたりで切り揃えられている。淡い紫色の瞳に、ほんの少しだけ月の色が浮かんでいた。
「……アンタ誰」
「えっ?」
僕の言葉に、目の前の人物は瞳を揺らめかす。
「人の部屋で何をしてるの」
僕は枕元にあるコントローラーを手早く操作する。部屋の向こうから、捕獲マシンをはじめとするたくさんの機械がやってくる音がした。
「待ってクラ、俺…」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
早々にやってきた捕獲マシンに侵入者を捕らえるよう命じる。
「…何なのその服、変装のつもり?」
僕の服に酷似した服を着た彼は、ひどく狼狽しているように見えた。まさか侵入しておいてお咎めなしだとでも思ったのだろうか。ばたばたと足音が響いて、兵士たちが部屋になだれ込んでくる。
「クラーク様、捕獲マシンが動いていますが何が………えっ」
兵士たちは僕と侵入者の顔を見比べて、絶句する。
「…そいつ、地下牢に入れておいて。あとで尋問しに行くから」
「えっ…いや、あの…」
「何」
いえあの、と戸惑う兵士たちに声をかけたのは、捕獲マシンで大人しく拘束されている侵入者だった。
「いいよ、俺は大丈夫。クラの言う通り、地下牢に連れて行って」
「しかし!」
「それより、クラをお医者さんに見せてあげて」
ね、と侵入者は言い、兵士は渋々というように頷く。
「…?」
兵士と侵入者の奇妙なやり取りを僕はただ見る。頭が、再び痛んだ。
「どういうつもり」
ひんやりとした地下牢で僕が問えば、侵入者は困ったような笑顔を浮かべた。
「主もお城の人もアンタのことを知ってるって。みんなをだまくらかして、何をするつもり?呪術か何かを使ったんだろうけど、僕は騙されな――…」
言いかけて僕は、地下牢の奥をまじまじと見る。座り心地の良さそうなひとりがけソファに、柔らかそうなブランケット。その隣にはサイドテーブルが置かれていて、ティーセットや本が載せられていた。およそ牢に相応しくない優美なそれは、しかし侵入者に良く似合っている。
「…誰がそんなの準備したの…?」
この城の誰かが侵入者に懐柔されたのだと思い、ますます僕は警戒を強める。
「クラ」
侵入者は、檻の隙間からゆっくり手を伸ばす。僕は一瞬、何か懐かしくて愛しいものが通り過ぎた気がした。今のは何だ?
「…僕にも術をかけるつもり?」
ふたりの大切な主が戸惑っていた姿を思い出して、僕は怒りが膨らんでいくのを感じた。――ねぇクラくん。その人はクラくんの大切な人だよ?
「アンタは何者?何が目的で、この国にいるの?」
問えば侵入者は悲しげな目でこちらを見る。その瞳が主を彷彿とさせて、僕はわずかな焦りを覚える。こうやって主たちは彼に絡み取られていったんだろうか。
「黙っていないで、ちゃんと答えて――」
ふと、その瞬間、ちくりと太もものあたりが痛んだ気がした。
「…?」
ポケットに何かが入っている、と気づいて僕はそれを取り出す。金色に輝くそれには、みっつの星がついていた。
「バレッタ…?」
壊れてはいるようだったけれど、それは確かにバレッタだった。どうして、と思ったと同時に鋭い痛みが頭を突き刺す。
「痛っ…」
視界がだんだんまわりから黒ずんできて、甲高いキインとした音だけが聴覚を支配する。がちゃりと檻が開くような音が聞こえた気がした。たぶん膝をついたのだろうけれど、そんな感覚は全くなかった。ぐるぐると身体が振り回されて、五感が奪われていく感覚。だれか、と声を上げようとして、けれど、誰に助けを求めるべきかは分からない。いつも僕は、誰と支え合っていたんだっけ?ぐるり、と内臓が抉られて、そして搾り取られるような感覚がした。
「…」
不愉快な機械音のような音の中に、まろやかで柔らかい誰かの声が聞こえる。暗いなかに、優しい色が見えた。
あの光は、
「…ルタ?」
ざぶり、と湖から助け出されたような心持ちで、僕は兄の名前を呼んだ。ここはどこだろう、とぼんやりと思う。確かシーズとの戦闘中に、ルタを庇おうと飛び込んだところまでは覚えている。
「クラ」
僕は不思議な気持ちで、まわりを見る。なぜだか僕たちは地下牢にいて、ルタが泣きそうな顔で僕を抱き起こしている。シーズはどうなったんだろう。
あぁそうだ、バレッタを直してあげなくちゃ、と僕はルタの垂れ下がった髪に手を触れた。
「起きていて平気なの?」
工房の入り口から声が聞こえた。目線を動かせば、ルタがマグカップを携えながら室内に入ってくる。
「お医者さんに今日は安静にって、言われてたのに」
「ずっと座っていただけだから、大丈夫だよ」
僕はそう言って、「直ったよ」と隣に座ったルタにバレッタを示した。
「凄いね、継ぎ目もぜんぜん見えない」
「そうでしょ。綺麗にできたと思うんだ」
僕の言葉に、けれどルタは少しだけ切なそうな顔をした。
「…ほんとうに、何もなかったみたい」
「えっ?」
ううん、と呟いてからルタは少し目を伏せる。
「もとにもどって、うれしい」
ありがとうと言ったルタはもうすっかりいつもの笑顔で、僕はほっとした。
せっかくだから髪につけて、とルタは僕に背を向ける。ぱちん、とバレッタをつけたその後ろ姿に、みっつの星がまるで主たちとクラみたい、と笑っていた幼い頃の兄を思い出す。僕は永遠にこんな時間が続けばいいなと、少しだけ贅沢なことを思った。