僕はノボリ兄さんに、ある重大なことを隠している。
それはあの歌のことだったり、どうして僕がノボリ兄さんを兄さんと呼ぶのかだったり。
きっと彼だって心の隅に引っ掛かりを持っているに違いないのだが、元来持っている優しさで僕に対する疑念だとかを誤魔化しているのだろう。
本来なら、出会ったときにでも僕から言わなければいけなかったのだ。
でも触れた兄さんの手が温かくて、柔らかくて。それを失いたくない、と不相応に願ってしまった。
きっと、真実を知ったら。
ノボリ兄さんは、ノボリ兄さんで無くなってしまうから。
◇◇◇
『ノボリ兄さん』
定時の鐘が鳴るまで後数分。この書類さえ終われば待ちに待った三連休が待っている、とノボリが硬くなった筋肉を背伸びをして解している時。
クダリの、いつもより固い声が脳内に響く。
テレパシーでの意思疎通は、言葉で伝えるよりも遥かに大量の情報を相手に伝えるメリットと同時に、伝えたくないものまで相手に渡してしまうデメリットがあった。初めこそ、怒涛の勢いで流れ込んでくるクダリの感情--ノボリが大好きだという恋慕に振り回されていたが、今では慣れたもので。
「どうしましたかクダリ?」と、いつもと変わらない声音で答えるのだ。
『あのね、明日ってさ、何も予定とかって入ってなかったよね?』
「えぇ、そうですねぇ。明日は散らかっている物置の整理でもしようと思っていただけなので、問題ありませんよ」
『……そう。ならね、アーシア島って場所に行きたいんだ』
「アーシア島? 聞いたことはありませんが、クダリが行くのなら、どこへでも付いていきます」
ノボリは小首を少し右へ傾けて頭上にハテナマークを作るが、すぐさま頷きその瞳に信頼を宿した。そのことが嬉しいはずなのに、クダリは後ろめたさを感じていた。あの場所に行けば、二人の関係性は水が入ったバケツをひっくり返したように全てが変わってしまうだろう。
それでも行かなければならない。
クダリとノボリ。二人が始まった、あの地へと。
◇◇◇
オレンジ諸島の遠洋の果て。人もほとんど住んでいない小さな島。そこにある、これまた小さな港の防波護岸へ降り立つためにかけた桟橋の上で、ノボリはどんよりと重苦しい曇り空を見上げていた。
「んじゃあ、二日後に迎えに来ますので」
「はい。よろしくお願いいたします」
チャーターした漁船の漁師がぺこりと頭を下げるのに合わせて、ノボリも同じ動作をする。出発直前までクダリは、『僕に乗れば良いのに。というか、乗っていいのに』と駄々っ子のように騒いでいた。が、彼はノボリ以外の第三者から見れば幻のポケモンであるルギア。簡単に姿を見せて良いものではない、と必死に説得し公共交通機関を何度も乗り継いで、半日もの時間をかけてようやく到着したのだった。
「ここが、アーシア島。ですか」
先ほどの漁師から渡された、明らかに手作り感満載の白黒地図を広げて、この島唯一の宿屋を確認する。漁船のエンジン音が徐々に遠ざかり、待っていたかのようにクダリの入ったモンスターボールがカタカタと揺れた。
『そろそろ出してよ、ノボリ兄さん』
「だめですよ。まずはお宿に行って、荷物を預けないといけません」
肩にかけている重たそうなショルダーバッグをヨイショッと抱え直し、舗装もままならない道を歩く。
両脇にはイッシュ地方では絶対にお目にかかれない珍しい野花などが咲き誇り、ノボリの目や鼻を楽しませる。鼻唄でも口ずさんで歩こうか、と考えていた時、一際強い風が吹いた。砂埃が入らないよう瞼を閉じてやり過ごし、もう一度瞳を開けた時。遠くの空に小さな稲妻が走っているのが見えた。
「これは一雨来そうですね。急ぎませんと」
駆け足一歩手前の速さで、地図を確認しながら島の中心部にあるという宿屋を目指す。
かくして件の宿屋は、五分ほどの距離に鎮座していた。古風な瓦屋根に大きな樫の木で出来た立派な門扉、木造二階建ての如何にも築数十年は経過していそうな佇まい。手元の地図に目線を落とせば、ご丁寧にも矢印付きの吹き出しの中に、「国の重要建造物」と書かれていた。
急遽予約したとはいえ、空室があったのは幸運だった。が、こんな辺鄙な場所にわざわざ泊まりがけで来る方が物好きなのだろう。
「ここですね。えっと、予約は確か午後五時なので……あ、いけない。少し過ぎています」
鉄道員故、時間に厳しいノボリは五分前の五分前行動が当たり前だ。一分、一秒でも過ぎていればそれはもう遅刻なのだった。
額に浮かぶ汗を服の袖で拭い、ノボリの何倍もの背丈のある門扉を潜り、入口らしき引き戸を開ける。見るからに古い戸は引っ掛かりがあるかと思いきや、予想外にもすんなり開いた。きちんと整備されているのだろう、と感心しながら中に入れば、玄関の正面にある受付に老婆が背を丸くして座っていた。
「こ、こんにちはぁ……」
「あぁ。待っておったぞ、お客人」
一瞬、待ちくたびれて寝ているのかと思い、恐る恐る声をかけたノボリだったが、即座に返事が返ってきた為に驚いてしまった。「うわっ」と危うく口から出そうになった言葉を、無理やりに飲み込む。
「あ、えっと。本日から二泊の予約をしております、ノボリと申します」
「うむ。承っておる。ほれ、これが部屋の鍵だ。二階の、階段を登った突き当たりにある部屋を用意しておる。今日の夕飯は必要無しじゃったな? 明日からは朝昼晩の三食付き。頃合いになったら声を掛けなされ。準備をするでな」
足早に説明され少し怯んでしまうが、鍵を手渡されたことで思考回路が再起動される。老婆の言葉を脳内で反復させ、飲み込んだところで「かしこまりました」と返事をした。
そうして靴を脱ぎ、年代物であろう檜の靴箱に靴を揃えて入れていると、老婆のしわがれた声が背中に当たった。
「今日は、厄災日。夜は極力外に出んほうが良いぞ」
その言葉の意味が分からずに瞳を丸くするが、とりあえず頷くしかなかった。
そうして受付のすぐ側にある、急な階段を慎重に登る。どうやら一階が受付と食堂、共同風呂と簡素な休憩室があり二階か全て客室になっているらしい。
ギッギッ、と板が鳴る音を聞きながら、先ほどの老婆の言葉について考えを巡らせていた。
厄災日、とは何なのだろうか。もしかして、クダリが焦っているのに関係があるのか。
先ほどから聞こえる遠雷に、クダリの焦燥。全てがまだら模様に溶け合い、ノボリの視界を覆い尽くそうとしていた。
用意された部屋に入り、ひとまず荷解きをする。
純和風のこざっぱりとした部屋だった。
二泊の予定ではあるが男一人旅だから、荷物なんてそんなに大層なものは持って来ていない。寝室兼居間の真ん中にぽつんと置かれた、背の低い卓の上に愛用の筆記用具を並べていく。黒一色の無骨なペンケースに、角が丸くなっている手帳。そして読みかけの文庫本を置けば、そこはもうノボリの私室になるのだ。
「考えることが沢山あって混乱しそうです。でも、とりあえずは」
腰から吊られているクダリのモンスターボールを手に取り(他の手持ちたちは今回お留守番だ)、球体面を額に押し当てる。そうすることで、クダリを外に出さなくともより強力なテレパシーで意思疎通が出来るのだ。
「クダリ。あなたの行きたい場所に、案内してください。わざわざこんな場所に連れて来たのには、理由があるのでしょう?」
『うん、そうだよノボリ兄さん。この島に伝わる厄災日。季節外れの嵐が島を襲い、その中から漆黒の神がこの地に舞い降りる。だからこの日はみんな、夜は家の中から出ない』
「なるほど、そんな言い伝えがあるのですね。でも、どうしてもあなたはそんなにも詳しいのですか?」
『だってここは、僕の産まれた場所だから』
明日の天気は晴れだよ、と一緒の音程で言われて、ノボリは理解するのが刹那遅れてしまった。がしかし、衝撃的な事実を突然言われ、即座に理解しろと言う方が酷かもしれない。
「え、え? それは、本当ですか?」
『うん。だからノボリ兄さんを連れて来たかったの! それに、この日に来たかったのにも理由があって』
クダリが言いかけた時、近くに雷が落ちる音が聞こえた。耳を劈くような轟音に、視界が明滅するほどの光。そして一瞬だが、稲妻の中に、ルギアに似たシルエットが映し出されたのをノボリは見逃さなかった。
「あれは、ルギア……?」
『兄さん。あれはルギアであって、ルギアじゃない。言うなれば、裏の姿。闇の一面を持つ、別の存在』
悲鳴にも似た甲高い鳴き声が辺りに響き渡る。
肩が揺れ、指先が震え、心臓が早鐘を打つ。
ポケモンに対して恐怖心を抱くのは、ノボリにとって初めての経験だった。いつもなら聞こえるポケモンの声が、全く聞こえない。見えるのは、底なしの漆黒のみ。
あれがクダリの言う裏の姿の神だとしたら、どれほどの闇を抱えているのだろう。
無意識に生唾を飲み込めば、緊張感はクダリにまで伝播する。しかし、それでもクダリは努めて冷静を保っていた。
あれに遭遇するのは、ここに来る前から分かりきっていた。重要なのは、これからどうするかだけ。
ノボリと接触しようとした奴を止める為に闘った自分をこの島から追い出し、そして我が物顔でこの海域を支配している存在。ダークルギア。
『ノボリ兄さん! 今すぐ僕を出して!』
「は、はい!」
ノボリがいつもとは見間違うほどに、あたふたとした手つきでモンスターボールを部屋の外へ投げた。眩い閃光と共に白亜の翼を持つ、正真正銘のルギアが姿を現す。霊験あらたかな鳴き声を出し、分厚い雲が渦巻く空へと舞い降りる。
霧雨が降る空は微かに曇り、薄い霧は視界を遮る。
(くそっ。奴は何処に行った?!)
首を振り周囲をすばやく見渡していると、「ひゃわ!?」と小さな悲鳴が聞こえた。声のした方へ目線を向けると。そこにはダークルギアと、首元に鋭い爪を当てがわれ黒い翼に包まれているノボリの姿があった。柔らかい首筋の皮膚と肉と太い血管に、爪の先が僅かに食い込み凹んでいるのが見える。
その光景を目にした途端、クダリは文字通り時間が止まるのを感じた。
心臓の鼓動が、呼吸の動作が、全て止まる。
そして瞬きの瞬間、クダリはダークルギアに向かって“エアロブラスト”を放つ体制を取る。しかし敵は、空気が収縮される最中の不気味な音を聞いても余裕の姿を崩さなかった。
『良いのか、そんなものを私に打って? この人間がどうなるか、分からないお前でも無いだろう? あぁ可哀想に。きっと足や腕が千切れ、胴体だってぐちゃぐちゃのボロボロになるだろうなぁ』
『きっっさまぁ!!!』
『怒るな怒るな。そうだ、私と勝負をしよう。なに、簡単なかくれんぼだ。お前がここで三十分待機している間に、私はこいつと共にこの海域にある島の何処かに隠れよう。制限時間は……二時間。それまでに見つけられなかったら、』
ダークルギアは、カタカタと震えるノボリの頬に自らの分厚い舌を這わせた。粘っこい涎が糸を引くのが遠目からでも見えた。
『こいつは私のものだ』
甲高い耳障りな雄叫びをあげ、ノボリの細く小さな体を足の鉤爪で掴み軽々と持ち上げる。嵐のような強い風が吹き荒れたと思えば、その巨躯は暗闇に溶け見失ってしまった。
クダリは怒りで体全体を小刻みに振るわせる。
本来なら、黒曜石の瞳がある場所には。煉獄の炎を思わせる、真っ赤な瞳があった。
◇◇◇
「こら! そろそろ、わたくしを離しなさい!」
『ついさっきまで産まれたてのシキジカのようにプルプル震えていたくせに、よくそんな大きな口が叩けるものだ』
「な! 失礼ですよ! それよりもわたくしを早くクダリの元に返してください!」
『それは出来ないな。奴とは勝負の真っ最中だし、途中棄権は私のポリシーに反する。ほら、目的の場所が見えてきたぞ』
ノボリがついさっきまで地に足をつけていたアーシア島は遥かかなた。上昇気流を駆使して素早く、しかし体力を温存しながら、ダークルギアはアーシア島とはほぼ真反対に位置する小さな群島の一つに降り立った。クダリと同じく、いやそれよりも繊細な動きで翼を畳みノボリを解放すると地面の上に体を丸める。
ノボリはもちろん距離を取ろうとするが、彼の鋭い視線に射抜かれて足がうまく動かないのだ。
『時間ならいくらでもある。まぁ、ゆっくり話そうぞ』
「あ、あなたと話すことなんて、何もありません」
『貴様に無くとも、私にはある。良いのかこのまま何も聞かず、知らずにいて。これは貴様とクダリのことに関する話だぞ』
ノボリの意識があからさまに自分へと向き、クツクツと笑いが溢れる。本当ならクダリが話したかったことだろうが、そんなものは関係ない。
何故ならダークルギアは呆れるほどの快楽主義者だ。自分が楽しければ、他者の苦痛や不幸なんてものはその辺りに落ちている小石と同等の価値しか無い。
『クダリはどうせ何も話していないのだろう? 私にはよーく分かる。なんせあいつとはそれなりに長い付き合いだ。何度も牙を交え、存在を忌み嫌い合い、この世から抹殺しようとした』
ダークルギアは爬虫類を思わせる陰湿な瞳を三日月型に歪め、口元を凶悪なまでに釣り上げる。
『しかしな、殺意の裏側は愛情だったりする。私はクダリのことを最近は悪く思えなくなってきてな。ま、それでも私にはある悲願がある。それは、本来の力を取り戻すことだ』
「本来の、力ですか?」
『そうだ。そしてそれには貴様、ノボリが必要なのだよ。何故だか分からないって顔をしているな。良かろう。今日の私は機嫌が良いから教えてやる。ノボリ、お前は元々クダリと同一の存在なのだ。その魂、その肉体を取り込んだ時。我々は深層海流を操る力を取り戻し、この世界の自然の摂理を手中に収めることが出来るのだよ!』
カッカッ、と何が楽しいのか乾いた笑いを一通り出した後。風船が萎むように、声は小さくなっていった。
どこか憔悴しているダークルギアの身体が、先ほどよりも小さく見える。
『……近年、地球環境が劇的に変化し、異常気象が多発しているのは、知っているだろう?』
「え、は、はい。それならニュースなどでよくみます。一年分の雨が数時間で降ったかと思えば、厳しい乾季が来たり、雪の降らない地域で豪雪になったり」
『そうだ。今の地球は少し、いやかなりおかしい。深海を流れる深層海流は、地球規模の気候を司る。それを失った今、我々はそのことを傍観せざるを得ない。クダリがそれ自体をどう考えているのか、貴様と一緒にいればそんなことはどうでも良いと考えているのか。私には分からない。しかし、私はこの世界をよりよい姿で未来へと継承していきたい』
「それは……理解出来ます。でも、でも。私がクダリやあなたのような、幻のポケモンの一部……? 申し訳ありませんが、理解が追いつきません」
『貴様は疑問に思ったことはないか? 何故ポケモンと心を通わせることが出来るのか。クダリが何故、あの子守唄を知っているのか。それらは全て、』
ダークルギアは大きく息を吸い、吐いて。覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。
『貴様が元々ポケモンであり、そしてあの子守唄は。俗的に言うなれば、母なる海の女神から授けられる、我々の力の根源そのものだからだ』
「あ、あの! お言葉ですが、わたくし今までの人生を生きてきた記憶があります! もしあなたの言葉が本当だとしても、それはどう説明するのですか?」
『ふん。そんなもの簡単だ。記憶というのは案外簡単に作れる。クダリから別れた時に偽りの記憶が産まれた。しかしそれを貴様は認知出来ないから、自分は普通の人間だと、そう信じて生きてきたはずだ。その証拠に、産まれた時を知らないだろう? 両親の顔すら思い出せないだろう?』
容赦なく浴びせられる言葉に、ノボリの背中を大量の冷や汗が流れる。心臓が早鐘を打ち、胸の真ん中がムカムカと気持ち悪くなってくる。
反論したいのに、その言葉は全て的確にノボリの心を抉っていく。思い返してみればノボリはそもそも家族や親類に出会ったことも無ければ、母の記憶も子守唄のみ。それらは全て自分が天涯孤独の身だから、と思い込んでいたから。今、頑張って母の顔を思い出そうとするも、濃い霧がかかったように何も思い出せなかった。
「ちが、こんなの、違います。だって昨日まで、思い出せていました!」
『きっと私と会ったことで、今まで作ってきた殻が剥がれかかっているのだ』
ノボリは地面に崩れ落ちて膝と手をつき、瞳を限界まで開いて、絶望に染まった表情を隠しもしない。
仕方ないことだ。これまでの自分の人生全てが本当は作り物の偽物で、ノボリという人間は本来この世界にいない。そんなものを突きつけられて、正常でいる方がおかしいぐらいだ。
『さ、私と一つの存在に戻ろうぞ。そうすればクダリだって、貴様のことを諦めて、ルギアとしての本懐を果たすのにその生命を捧げるだろう』
ダークルギアの鋭い牙が生え揃った口がノボリを呑み込むために、がぱりと大きく開く。
ノボリはもう何も考えたくなかった。これまでのことも、これからのことも。でも、クダリを一人になど出来るはずが無かった。
(クダリ、クダリ、クダリ!)
心の中で何度も、最愛の家族の名前を呼ぶ。
その時、轟音と共に、白い影が上空を横切り目にも止まらぬ速さで下降してくるのをダークルギアだけが認知していた。
時は少し戻り、アーシア島に一人取り残されたクダリは怒りを鎮めるために必死だった。
さっきまで目の前にいたダークルギアの姿は瞬く間に消え失せ、同時に嵐も過ぎ去り水平線に沈む太陽が悪あがきのように空を燃やしていた。
すぐさま二人を追いかけたいのはもちろんなのだが、ダークルギアから突き付けられた条件は守らなければいけなかった。なんせあれは、ルールを守らない存在を一等嫌う。ここで焦って動けばノボリの身に危険が及ぶかも知れなかった。
自分の中に芽生えつつある憎悪を鎮めようとするが、考えれば考えるほどに返ってその感情は強くなる。クダリは煮えたぎる感情に身を任せるのか、それとも一旦冷静になるのかを迷っていた。
ダークルギアが何処に行ったのか大凡の検討は付いていた。ただ、一つだけ懸念がある。それは奴がノボリに真相を話してしまうかもしれない、ということだ。
『あれは、僕の口から伝えなければいけないのに』
クダリとノボリの秘密。そして二人の関係性。
本当は話したくない。このまま、平穏な生活が未来永劫続いて欲しいと願っている。
しかし彼だって、この世界を支える幻のポケモンの一柱であり、その使命も自覚している。だから戻らなければならないことも分かっていた。
二つが一つへと。
『あいつが何を言いたいのか、嫌ってほど分かる。でもこのやり方は間違っている。今のノボリ兄さんには、兄さんの意思が存在する。それを否定して捩じ伏せて戻ったところで、僕は納得出来ない』
アーシア島の上空を旋回しながら、これからのことを考える。
そうして約束の三十分が経過した時。クダリは迷いなく、ダークルギアが飛び去った方角へと舵を切った。この先は大小様々な小島が無数に密集している海域。きっとその中に彼らはいる。
『どこ、どこだよノボリ兄さん』
迷子の幼子のような声を出して、偏西風に乗りジェット機に匹敵する速度で果てしない空を駆ける。オレンジ諸島は広大だから、生半可な速度では制限時間内にノボリを見つけ出すことは不可能だ。
『ノボリ。こんなこと、今更話して君が納得するかは分からない。でも、君は知らなければいけない。本当のことを』
今考えれば、そこまで遠くない過去。
クダリはオレンジ諸島近海の深海で、長い間、それこそ気が遠くなる時間を一人ぽっちで生きてきた。同族が違う海に居るのは知っているし、ダークルギアだって偶にだけど顔を合わせて命懸けの喧嘩する仲ではあったけど、クダリが持つ強烈な孤独感を癒せる存在にはならなかった。
クダリは何十回、何百回、何千回と太陽が昇っては沈む間も深い海の底で願い続けていた。
心を許して信頼し合えるパートナーが欲しい、と。
そしたらある日、海の女神さまがクダリにこう言った。
【貴方の半身となる人間を与えましょう。しかし、条件があります。それは貴方方の絶対的な力である深層海流を操る力と引き換え、というものです】
そんな言葉を伝えられたクダリは高揚していた。がしかし、氷のように冷静であった。深層海流を操る力は、この地球にとって必要なもの。もし失ってしまったらそれこそ、天変地異の始まりだろう。
でもクダリは世界が滅びるとか、世界の命運とか、自分の使命だとか。理解しているようで、理解したくなかった。だから少し、ほんの少し考えた後。大きく首を縦に動かした。
それからというもの、ルギアは歌を唄っても深層海流を操る力を無くししてしまった。事態を知ったダークルギアには、『お前は何をしたか分かっているのか!?』と酷く叱られるし、折角女神に産み出してもらった半身も大規模な地球環境の変化による嵐のせいで行方知らずになってしまったのだ。
しかし、まさか自分と逸れた後に、あんなにもお人形みたいに何も喋らず意識も朦朧とさせていた半身がまさか自我を持ち、人間社会に溶け込んでいたとは夢にも思わなかったが。
『昔のノボリ兄さんも好きだったけど、僕は今の君が一番好きだ』
グランデシアの花に埋もれて眠る半身の頭を撫でて自分の名前も呼んで欲しいと思った時、ぐったりとした半身を背に乗せ空を飛びながら共にこの景色を楽しみたいと思った時。その全てが今、現実になっている世界をクダリは手放したくなかった。
『だから兄さん。君はそのままの君でいて欲しい』
そう呟いた時、脳内に愛おしい兄の声が木霊する。精神的に深い繋がりを持つ二人は、お互いの距離が近くなればテレパシーを使えるのだ。
(クダリ!)
胸を引き裂かれそうなほどに悲痛な兄の声を聞き、クダリが翼を羽ばたかせる。すると、ある島の上空に差し掛かった時、地上で何かがキラリと光った。
瞳を見開くとそれは、口を大きく開けたダークルギアと地面に項垂れるノボリだった。
それらを理解した瞬間、クダリは翼を折りたたみ急降下を開始する。空気が衝撃波となるほどの速度に到達したまま、ダークルギアの首元目掛けて尾を振り翳した。
大地が割れたのでは、と錯覚するほどの轟音と共に砂埃が辺り一体に舞う。ノボリはその中で、状況の把握をしようと脳みそをフルに動かしていた。
(先程の姿はきっとクダリです。わたくしと彼があの島から出てそう時間も経っていないはずなのに……流石はクダリわ後でめいいっぱい褒めてあげなくては。でも今は。目の前の二人の気を鎮めなければ)
大小様々な石や泥や砂や草の根が飛び交う空間で、黒と白がもつれ合いお互いの肉に噛みつきあっていた。クダリがダークルギアの首元に噛みつけば、ダークルギアはクダリの肩に自らの翼をぶつける。その度にどちらとも取れぬ悲鳴が響き、ノボリの不安を加速させていった。
『ダークルギア! 今日こそお前を殺す! ノボリ兄さんには指一本も触れさせない!』
『ふん! やれるものならやってみろ。私は闇の力に染まったとは言えルギアとしての使命を果たすという高尚な理念がある。自らの欲に負け、世界を危機に貶めるお前とは違うのだよ!』
そう言うと二体は大空へと戦いの舞台を移した。
地上では出来なかった、高火力の技をぶつけ合い大気を揺らす。次第に雲が渦を巻き始め、雷鳴が鳴り響き、小さな雨粒が天から降ってきた。
『神から与えられた使命を忘れ、世界を支えるという使命を放棄したお前に! 私は倒せぬよ!』
一瞬の隙を突き“サイコブースト”を放つダークルギアと、“まもる”体勢に入るクダリ。そして乱れた呼吸を整えた後お互いが“エアロブラスト”で応戦する。
一歩も譲らぬ激戦。ノボリはただ見ていることしか出来ない己の無力さが歯痒かった。
(どうすれば、どうすれば良いのでしょうか)
胸の前で両手を組み、心の中で自問自答を繰り返す。その間にも神の闘いは続いていた。
『お前があれを連れて帰ってきて、力を失ったと分かった時、私や他の皆がどう思ったのか分からないだろう。教えてやろう。失望したのだよ。お前の傲慢さや強欲さに。しかしな、今ここであれと一つに戻ったのならば、それらは撤回してやろう』
『勝手なことをベラベラと喋るな。僕はノボリ兄さんとずっと二人で生きていたい。ひとりぼっちに戻るくらいなら、ノボリ兄さんが犠牲になるぐらいなら、こんな世界いらない!』
『血迷ったかクダリ! 世界が崩壊したらあれとも一緒にいられなくなるのだぞ!?』
『分かっているつもりさ。でもそうなるなら、僕はノボリ兄さんと一緒に死にたい』
『……なら貴様の願い、私が果たしてやろう』
ダークルギアが翼を一際大きく広げたと思えば、雲間にプラズマが幾重にも生じ始める。近くで大小の稲妻が光り輝き、雨がよりいっそう強くなる。電気タイプの大技が来ると予知しながらも、クダリはそれを甘んじて受けるつもりだった。元より、ノボリという最愛の存在を抹消してまで海の神としての役目を果たそうなんて、はなから考えていなかった。
無責任と罵られるだろうが、クダリにとって海の神という肩書きは重すぎた。
それに。ノボリがダークルギアに取り込まれるのなら、もはや自分はこの世界にいる意味も無い。ノボリがいない世界で、生きていく自信も無い。それならばいっそ、彼の大義の為に死のうと思った。
身体の力を抜き、その時が来るのを待つ。しかし、クダリの耳に届いたのは雷鳴でも無く、静かな唄声だった。
ダークルギアとクダリが一斉に声のする方へと顔を向ける。
そこには、ノボリが海に向かって、女神の唄を歌っていた。
神の怒りを鎮め、荒れる海を凪に変えるという唄。そのメロディーが響き渡る時、二体の神は頭の中にあった熱が一気に冷めるのを感じた。この唄声を邪魔してはいけない、という本能的な反射だった。
『ノボリ……兄さん』
『全く興が冷める。あの唄にはどうにも逆らえんからな』
やがて唄が終わり、嵐は去った。見違えるような満点の星空の元、クダリはノボリの隣へと降り立つ。ノボリはそんな彼の背後に広がる光景に、初めて出会った時を重ねていた。
「落ち着きましたかクダリ?」
『う、うん。でも兄さん、全てを知ってしまったんだろう?』
「はい……わたくしが元々人間では無いことも、クダリたちにはわたくしが必要だということも。そしてこの世界が今危険に晒されていることも、全て彼からお聞きしました」
ノボリがダークルギアを仰げば、彼は少し苦い顔を浮かべる。
『ごめん兄さん。ずっと黙ってて。僕、兄さんを見つけた時、初めて話してくれたのが嬉しくて噛みついちゃったんだ』
「はい」
『それでね兄さんと過ごしていく内に、自分が何をしたいのか分からなくなっていったの。どうすれば兄さんを失わずに出来るのかって』
『ノボリ、お前の元にプラズマ団と名乗る連中が来たことがあるだろう?』
「あ、はい。先日、ギアステーションに乗り込んできた方たちです」
『あいつらはどこで情報を仕入れたのか、貴様がルギアの力の根源であることを知って連れて行こうとしたのだ。あわよくば私たちを操ろうという魂胆でな』
「そ、そんな……」
自分がまさか彼らの脅威になりかけたという事実に、ノボリは胸を痛めた。それと同時に、やはり元に戻らなければいけないような気もした。これ以上、無意味な争いを起こさない為にも。
「わたくし、あなたたちの元に還ります」
『な、何言ってるんだよ兄さん! そんなことをしたら君は君じゃなくなるんだよ!?』
「良いのです。わたくしは元々この世界にいない存在。それが何か数奇な運命を辿って、こうしてここにいるだけです。だからこれで良いのです」
『僕は嫌だ! 兄さんを失ったら僕はまた死ぬまで、あの暗くて冷たい海の中で一人になっちゃう。寂しさで押し潰されそうな夜も、孤独を分かち合う仲間のいない昼も全てまた戻ってくるんだよ』
「それでもクダリ。やらなければいけないことがあるのです。これはわたくしやあなただけの問題では無いのですよ」
『でも、兄さん』
「クダリ」
聞き分けなさい、と語尾を強くして言えばクダリは押し黙ってしまう。そんな兄弟喧嘩を静かに見つめていたダークルギアが、やれやれと口を開いた。
『一つだけ、ノボリを消さずに出来る方法がある』
『なっ! ほ、本当か!?』
『あぁ。だがこれは賭けだ。成功すればノボリに宿る力のみを取り出すことは可能だ。が、失敗すればノボリの魂は身体ごとクダリに取り込まれるだろう。それでも、やるか?』
『……そこにほんの一握りの希望があるなら、僕はそれに賭けたい』
「わ、わたくしも! もちろんやります。だって、あんなこと言いましたけど、わたくしだって、クダリとお別れしたくはありません。せっかく出会えた家族なのですよ……」
ほろほろと大粒の涙を流すノボリに、ダークルギアはたじろいでしまう。外見はただの人間なのだが、やはり根幹は女神の力により形作られたもの。庇護欲が働いて仕方ない。
『っ。ま、そう言うなら、やってみろ。方法は簡単だ。海神の島に行き、そこで女神に願うのだ。一等強い力でな』
『それだけ、なのか?』
『あぁ。しかし、強い願いでなければ女神も怒ってしまうだろう。その時は、分かっているな?』
ダークルギアの言葉に、一人と一体は強く頷く。
その姿に、黒き神はどうしてか安心感を覚えていた。
彼らはきっとこの世界に必要な、賢きものたちだ。
『お前たちなら出来るかも、しれんな』
それだけを言い残し、彼は深い海の底へと帰っていた。残されたノボリとクダリは早速、海神の島へと向かう。行ったことは無いが、道筋は知っている。それはまさしく、ルギアとしての本能だからだ。
さて、ほんの一時間。ゆっくりと優雅な空の旅を堪能していると、件の島が姿を現した。
この前のグランデシアの花畑を見に行った時とは真逆でとても静かな旅だったが、彼らにはそれを揶揄う余裕も無かった。
クダリの頭の中では女神にどう祈れば良いのかとか、もし失敗したらどうしようとか。そんなことが二転三転と回り続ける。
ノボリはそんなクダリの心配事を全て分かった上で、彼の背中を優しく撫でていた。
「大丈夫ですよ、クダリ。絶対に女神さまも分かってくれます」
『兄さんは楽観的なんだよ。神っていうのは大体利己的で残虐で嫉妬深くて、こっちの失敗とか不幸を面白おかしく見ているような人たちだよ』
「そうなのですか? でもクダリのお願いを聞いてくださったのですから、きっと良い人ですよ」
『でもその代わりに、力を失っちゃった訳だけどね』
「うーん……ま、確かにそうかもしれませんが。でも話せばきっと分かってもらえますよ!」
右手で拳を作りガッツポーズをするノボリと、重たい鉛のようなため息を吐き出すクダリ。
期待と不安を乗せた白き方舟は、神が住まう島にようやく到着したのだった。
『着いたよ。ここが海神の島だ』
「随分と殺風景な場所ですね……」
その島は一面を白い石灰岩に覆われた、まるで天国のような場所だった。背の高い岩が彼方此方に立ち並び、その隙間を強い風が吹き荒れる。人類未到の地、と呼ばれてもおかしくはないような場所だった。
『この先に女神の祠があるはずだよ』
「行ってみましょう」
ノボリが手元にある石灰岩を掴み登ろうとすると、島全体が微かに揺れてその動きが徐々に大きくなる。岩肌からパラパラと砂岩が落ちてくるのを腕を翳して避ければ、その先に見える他の物よりも抜きん出て大きい岩の前に女が座っていた。
美しい金のストレートの長髪に、真っ白なワンピースを身につけ、その顔は幼さを残しつつも儚さも感じられるほどの美貌。ノボリは彼女を見た時、「母様……?」と呟いていた。
「予想以上に早かったですね。もう少し遅くなると思っていました」
女神は蘭のように真っ直ぐ立ち上がると、ワンピースの裾を摘み恭しく頭を下げた。
「お久しぶりですねノボリ、それにクダリ。貴方たちがここに来た理由は分かっています」
ゆっくりとした言葉遣いでそう言えば、ノボリは話が早い人だと喜んだ。しかしクダリは違った。きっと裏に何かある、とそう睨んでいたのだ。
「ノボリの中から深層海流を操るための力を抜き出し、貴方に戻す。けれどそれは簡単なことではありません。強い覚悟と願い、想いが必要です」
「覚悟なら出来ています。わたくしはどれだけ苦しくても我慢出来ます! だからお願いします母様。わたくしはまだクダリと一緒に居たいのです。それが例え、修羅の道だったとしても」
『……僕からもお願いします女神さま。兄さんは僕が初めて見つけた宝物です。だからどうか、彼と生きていくことを許してください』
「まぁ。大変強い願いですね。でもそれだけで叶えてしまう訳にはいきません。私にも面子というものがありますから。だから、貴方たちがこの試練を乗り越えられたら、その願いを叶えましょう」
女神が人差し指をクダリに向ける。金の髪がふわりとたなびき、彼女の肌が僅かに発光するのが見えた。何をするのか予想も付かない二人は身構える。そうして周囲の空気がピンと張り詰めた時、クダリが苦しそうな呻き声を出した。
「ク、クダリ!」
「そのルギアには怒りの感情に支配されよ、という暗示をかけました。さ、ノボリ。貴方一人の力で、彼をその負の感情から解放してあげるのです。それが私から貴方たちへの、試練です」
クダリが邪悪な雄叫びをあげ、ノボリを睨みつける。その瞳は真っ赤に染まり、今にもノボリを噛み殺してしまいそうな雰囲気をひしひしと感じた。
足が内股に震え、腕だって鳥肌が止まらず、泣き出してしまいそうなのを必死に堪えている。
けれどノボリはそんなクダリの中に、違うものを見つけていた。
それは、強烈な痛みだ。
きっとクダリは、憤怒に支配された心の中で必死に抵抗しようとしているのだろう。
しかしそれが分かったところで、今のノボリには何の解決策にもならない。
(あの唄をもう一度……いえ、女神さまはこう言いました。自分の力で、と。あれは元は彼女のもの。だからあれを使った時点で負けです)
ノボリは拳をギュッと強く握りしめ、クダリに向かい合う。彼は暴れ、地面をのたうちまわりながらもノボリの姿を認知した途端、その牙を躊躇なく向けた。翼で胴体を支え、地を走り近づいてくるクダリ。逃げ出したい気持ちに駆られるが、ここで逃げては駄目だと本能が叫ぶ。
(クダリだって苦しんでいるのです。わたくしだけが逃げるなど、そんなこと許されるはずがありません!)
下唇が白くなるほど力を入れて噛み締め、彼が近づいてくる様を睨みつける勢いで見つめる。逃げる素振りを見せないノボリに、クダリは一瞬怯むがそれでも勢いを殺さずに彼の目前で立ち止まる。
荒々しい息遣いが直接顔に当たり、体全体から漂う怒りを一身に受けて腰を抜かしそうになる。
「クダリ。痛いですよね、苦しいですよね。わたくしが出来ることならなんだってします! だから、どうか正気に」
そこまで言葉を吐き出した時、右の肩が燃えるように熱くなった。視線をゆっくりと移動させると、クダリの横顔が自分の真横にある。
それらを認識した途端、激痛がそこから溢れてきた。
見て仕舞えば、痛みというのは実際よりも大きく感じる。何故なら、想像してしまうからだ。見えない筋肉や脂肪が損壊している場面や、血が止まらなくなる場面を。
ノボリもこの時、クダリの口内で噛み砕かれた筋繊維や薄い肉、ひび割れた骨を全て想像してしまった。でも口から飛び出そうになっていた悲鳴は、唾と共に飲み込む。
そして震える指と腕で、クダリの頭を包み込んだ。本当なら痛みで泣き出してしまいたかったのに、それでも我慢して弟に寄り添った。
「こうして、いると。出会った時を思い出しますね……。あなたはあの日もこうやって、わたくしに噛みついて。あの時、わたくし本当は恐ろしくて怖くて堪らなかった。でもクダリが噛んでいるところから、クダリの気持ちが流れ込んできたんです。ごめんなさいって。本当は嬉しいのに驚いてるんだって。だからわたくしは逃げずに、受け入れたんですよ」
彼の頭をゆっくりと、慈愛の籠った手つきで撫でる。ノボリはクダリの好みは全て把握していた。どこを撫でられのが好きなのかとか、好きなおやつとか、好きな寝相とか。彼に纏わる全てを。
だからこうして、自分のことが分からなくなっていても変わらずに愛情を注いでやりたかった。
それこそがこの世界にある、最も尊いものだと知っていたから。
「クダリ、大丈夫ですよ、クダリ。わたくしはここにいますから。どんなことがあっても、離れるなんてしませんから」
口内に血の味が回りだして、視界が濁ってくる。心臓の音がやけにうるさいくせに、体はどんどん冷たくなっている。
もう立っているのがやっとなのに、それでも撫でる手は動かし続けた。
どれほどの時間そうしていたのかは分からない。けれど肩に乗る重みが少し軽くなり痛みが麻痺によるものなのか、意識が薄れているのか、遠のいた時。
赤から黒い瞳に戻ったクダリと目線が絡み合った。
『ノボリ兄さん……? あ、あれ僕……?』
「やっと気が付きましたかクダリ。全く、世話の焼ける子」
『え、待って兄さん、血が!』
「わたくしなら、大丈夫ですよ」
力を振り絞って伝えるが、最後の方は尻すぼみになってしまった。先ほどまで微かにクリアだった視界が今度こそ霧がかかったみたいにぼやけ始める。両足からは完全に力が抜けて、マリオネットの糸が切れたみたいに倒れ込んでしまった。
『兄さん! ノボリ兄さん!』
クダリの叫び声が遠くから聞こえるものの、ノボリには応える力すら残っていなかった。
自分はここで死んでしまうのだろうか。折角クダリと一緒にこの試練を乗り越えたのに。
流せる涙も枯れてしまったから糸みたいな呼吸をして声のする方に意識を向けていると、女神がようやく動いた。
「素晴らしい絆。見ていてとても感動しました。今回は及第点ですが、合格としましょう」
本当ならここから苦しんで絶望する姿を見るのが好きなんだけど私の子供だからね、と誰にも聞こえない独り言をこぼす。
女神がそろそろと歩きノボリの隣に立った。そして両手をゆったり掲げれば、周囲の地面から光の束が出現してノボリの体に纏わりつく。
『兄さんに何をする気ですか?!』
「安心してください。これは治療の一種です。流石に貴方の半身でも、ここまでの傷を放置しておけばすぐに死んでしまいますよ」
そう言っている間にも光の束はノボリの傷口に集まり、まるで命を分け与えるように脈打つ。クダリが見守る中、見るのも憚られるほどに肉が抉られた肩口の傷が徐々に元通りになっていく。時間が巻き戻ったような神の奇跡を目の前にし、クダリは人知れず涙を流していた。
『ノボリ兄さん!』
「ふぅ。時期に目を覚ますでしょう。それよりもクダリ。先ほどの二人を見て私は貴方たちの覚悟がどれほどのものなのか、よくわかりました。だからノボリの中から力を抜き取り、ルギアに還しました」
『本当にですか……? あ、ありがとうございます!』
「でも今回のこの騒動は貴方が引き金になっていることは、自覚していますよね?」
『はい……。どのような罰も甘んじて受けるつもりです』
「では貴方に命じます。ここオレンジ諸島にはこれより一切の立ち入りを禁止し、世界を循環させる役割を剥奪します。もちろん、深層海流を操る力も。そしてノボリと二人、イッシュに帰りそこで静かに暮らしなさい。それがこれからの貴方に与えられた役目です」
その言葉に、クダリはバッと顔を上げ女神を見つめた。正直、存在を消されてもおかしくは無かったのに、彼女はクダリに温情を与えたのだ。
『ありがとうございます。僕はこれから自分の未熟さと向き合って、ノボリ兄さんを命尽きる日まで守り抜きます』
クダリの芯の通った言葉を聞き、女神は母のように優しく父のように深く微笑んだ。そうして岩の玉座に座ると、その体を硬化させて静かに眠りについた。
この世界の行く末と、彼らの命運を祈りながら。
「うっ、ここは……?」
女神が眠りにつき一時間が経った時、ノボリがようやく目を覚ました。頭が痛むのか側頭部を手で押さえて、肘で体を起こして辺りを見回す。
クダリがそれに気付いて、一目散に走り寄った。
『ノボリ兄さん!』
「クダリ! あれ? 女神さまはどこに行ってしまったのですか?」
『うん。女神様は兄さんの怪我を治して眠っちゃった。それよりも、ごめん兄さん。僕、訳が分からなくなっていたとはいえ、君に怪我をさせちゃった』
クダリはノボリに恐る恐る近づき、首筋をチロチロと舐める。怖がらせないよう、傷付けないよう、優しく。
ノボリは柔らかい急所を舐められるのがくすぐったくて身を捩るが、クダリはお構いなしに舐め続ける。そろそろ良いんじゃないか、と思うけど強く抵抗出来ないノボリは、クダリが満足するまで静観することにした。これ以上、彼を傷付けたくなかったのだ。
ようやくクダリが離れた時、ノボリの首周りは涎でベタベタになっていたが特に不快とは思わなかった。だってこれは、愛おしい人からの愛情表現なのだから。
『ね、兄さん。アーシア島に戻るまで時間あるよね? 少しだけ、僕の話をしても良い?』
「構いませんよ。わたくしも、クダリのお話が聞きたいです」
拒絶されなかったことが存外嬉しくて、尻尾をパタパタと振る。そして隣に丸まって座り、ノボリの顔を覗き込んでから口を開いた。
『あのね、もしかしたら薄々気付いているかもしれないけど。兄さんの中にはもう力は残ってない。女神様がぜーんぶ取って、ルギア達に還したの。でもね、その。僕は兄さんに謝らないといけない。こんな大切なことをずっと隠しててごめんなさいって。本当はもっと、それこそ出会った時にでも言うべきだった。けれど君が話している姿を、今まで見せたことのない表情で生きている姿を見た時、この人ともっと一緒に居たいって思ったの』
「はい」
『兄さんは僕たちの力の源を形にした存在だったから、本来なら自我なんて存在していなかった。僕はそれでも満足してた。一緒に居てくれたらって。でもこうやって過ごしていくうちに、離れたくなくなっていった。頭の隅にはずっーと、自分の使命だとか、この世界をより良い方へと導かないといけないとか色々あったのに全部無視してた。それだけノボリ兄さんが大切で、大事にしたかったのにこのままじゃないけないのも分かってて……。心がぐちゃぐちゃになりそうだった』
「クダリ」
海の神と崇められるポケモンの静かな独白を聞き、ノボリは静かにその頭に手を置いた。
「わたくしなんかのために、そこまで考えてくださってありがとうございます。実はねわたくしもどこかで気付いていました。自分はきっと普通の人間では無いって。それはあなたと出会って確証に変わったけど、この関係を壊したくなかったから言い出せなかったのです。一人で苦しい思いをさせていて、本当にごめんなさい。」
『ノボリ兄さん……僕の方こそ、ごめんなさい。君に危ない思いをさせて』
「そんなこと気にしなくて良いのに。だって好きな人から付けられた傷って、少しロマンがありませんか?」
好きな人。その言葉を聞いた時、クダリの頭は沸騰しそうなぐらい熱くなって、頬が一気に赤くなる。
「わたくしクダリのこと、この世界の何よりも愛していますから」
大真面目な顔で、恥ずかしげもなく一世一代の告白をするノボリはやはり可愛くもありかっこよかった。
クダリはあわあわして汗をかきながらも何とか表情筋を整えて咳払いを一つしてから、ノボリに向き合った。
『僕も! あ、僕も、ノボリのこと、心の底から愛しているから!』
「あら。ふふ、お揃いですね」
微かに笑って空を見上げた時、真っ暗だった空が青紫色に染まって夜明けの兆しが見えていた。
それからもクダリは少しずつ、女神から伝えられたことを話した。自分にはもう幻のポケモンと呼べるほど強力な力は残っていないこと、この地にはこれから先足を踏み入れられないことを伝えても、ノボリはどこ吹く風で聞いていた。もしかして怒っているのか、と思ったけどそうでは無かった。
ノボリは純粋に嬉しかった。クダリがルギアとしてでは無く、弟としてこれから生きていけるということが。だから別に、力があろうがなかろうがそれはどうでも良かったのだ。大切なことは、離れ離れにならないことだから。
そうして一通り話し終えた彼らはアーシア島への帰路に着いた。名残惜しそうに海神の島を振り返るノボリだったが、丁寧なお辞儀をして前を向く。
その瞳には、果てしない空と海が映り込んでいた。
アーシア島に戻ったノボリは早速、宿屋の女将から年甲斐もなく説教をされた。
曰く、連絡もなしに一日中、それも厄災の日に居なくなるとはどういうことだというらしかった。ノボリとて色々と、それこそ話しきれないほどのことがあったのだが洗いざらい話すわけにもいかずひたすら頭を下げ続けるしか出来なかった。
しかしそれも、彼女が心配していたからこその説教であることは分かっていたから、怒られながらも心が温かくなるから不思議だった。
残り一日はアーシア島の散策に当て、一通り新たな知見や、ギアステーションでの企画に活かせるネタやらを得たところで宿での最後の夜を過ごす。そして夜が明け太陽が真上に昇った頃、行きと同じ漁師の船に乗り込む。約束通りの時間に来てくれたとこに感謝して、ノボリとクダリはオレンジ諸島を後にした。
「もう、戻ってくることはありませんね」
『うん。これからはきっと、あいつがこの辺りの深層海流を管理することになるよ。ま、大仕事だろうけどね』
つっけんどんな物言いの中に、少しだけ心配の色が見え隠れして、「素直じゃないんですから」と呟いた。
イッシュに帰った後、ノボリの頭を悩ませたことがある。それはポケモンと心を通わせることが出来なくなった、ということだ。
クダリとはテレパシーでいつでもどこでもお話が出来るのだが、他の手持ちやポケモンではこうはいかない。ライモンシティから出て外を歩いていれば、この前まで友達だと思っていた彼らから突然攻撃されて泣いてしまったの記憶に新しい。
さてどうしたものか、と頭を捻るがどんな道を考えてもやはり行き着く先はお互いを尊重して分かり合うという至極シンプルな答えのみ。
だからノボリはまず、自分の手持ちの中でも最古参であるシャンデラとシビルドン、アーケオスの三体と頻繁にお話することにした。最初は彼らも、ノボリと意思疎通がうまく出来なくて戸惑っていたが、日進月歩の歩みで溝を埋めていった。
「心の声が聞こえていた時はそりゃ便利でしたけど、こうやって言葉にして話すのも、とっても楽しいですね」
と弾ける笑顔で言っていたのを、きっとクダリは一生忘れない。
おかげでバトルの腕前は少し落ちてしまったけど、ノボリはそれ以上に大切なものを見つけた。
それは仲間と一緒に切磋琢磨して、成長していくことの尊さだった。きっとクダリに出会わなければ、こんな近くにあった大切なものに気が付かなかっただろう。
それ以来、バトルサブウェイは以前にも増して大盛況だ。なんせサブウェイマスターの元まで辿り着き、その実力を認められれば幻のポケモンであるルギアと対決出来る、という噂が流れたから。
ノボリとしてはあまりクダリを公の場に出したくないのだが、弟は血気盛んなところがあって、強いトレーナーと見ると嬉々としてフィールドに出て行ってしまう。ノボリも最初こそ怒ったものの、クダリの楽しそうな顔を見てすぐに許してしまった。
そうして今日また、バトルサブウェイには大勢のトレーナーが押し寄せる。
その中には将来、伝説のポケモンと相棒になる逸材だっているだろう。彼らのキラキラと宝石のように輝く瞳を見るのが、ノボリは一等好きだった。
「ありがとうございますクダリ。わたくしの弟でいてくれて」
『僕の方こそありがとうノボリ兄さん。僕のたった一人の大切な人になってくれて』
ノボリが乗車するトレインの扉が開く。
入ってきたトレーナーの姿を見て、強者であることを理解する。
モンスターボールを掲げて、普段通りの無表情を貫き通し、お決まりの口上を口にする。
「本日はバトルサブウェイご乗車ありがとうございます。私サブウェイマスターのノボリと申します。 さて、次の目的地ですがあなた様の実力で決めたいと考えております。ポケモンのことを良く理解なさっているか、どんな相手にも自分を貫けるか……勝利もしくは敗北、どちらに向かうのか……。では、出発進行ーッ! 」