「ボスー!!」
その叫び声ひとつで、ノボリの平和な一日は破られた。
ギアステーション内部にある、サブウェイマスター専用執務室。重厚な机に向かい、締め切りが刻々と迫る書類を片付けていたノボリ。その耳にカズマサの悲痛な叫び声と、荒々しく開かれた扉の蝶番が軋む音が木霊する。
「どうしました、カズマサ」
「大変です、あの、あの。え、エントランスに」
「カズマサ。ゆっくりと、報告してください」
落ち着きなさい、と促しペンを手元に置いて立ち上がり、カズマサと向かい合う。その緊迫した雰囲気に只事では無いだろう、と内心では冷や汗をかきながら。
「は、はい。ふぅ、えっと。改めて報告します! エントランスホールにプラズマ団が突然入ってきて、ここの責任者を出せと騒いでいます。今はクラウドさんが対応していますが」
「人数は?」
「3人、です」
「分かりました。わたくしが向かいます」
ノボリは自身のうちに巣食う、胸焼けにも似た恐怖や絶望を押し込めるように大きく息を吸った。泡をたてる白波のような、そんな心を落ち着かせようとベルトに付けられているモンスターボールを撫でる。シャンデラやシビルドンのボールが気合を込めるようにカタカタと動いているのに反して、クダリのボールは深海のように静かだった。
こういう時は、いの一番にやる気を見せそうなのに珍しい。
考えながらも、ノボリは急いで執務室を飛び出してエントランスホールに走り出した。
「我々の要求はただ一つ。ここの責任者である、サブウェイマスターのノボリに会わせなさい」
「鉄道員はそのような脅迫には屈しない」
「理由も言わんとノボリに会わせろって。道理がなってないで、あんたら」
「うるさい。お前たちに用は無いのだ」
一歩も譲らぬ押し問答が、円形のホールに響き渡る。一般客は既に避難し、残っているのは鉄道員たちだけ。神聖な場に土足で踏み込んできた不届きものに対する怒りで拳が震える。血の気が多い彼らだが、ここで不祥事を起こせば、全責任を被るのはノボリだ。敬愛する上司の面に泥を塗るようなことは、死んでも出来ない。
「何事ですか」
一触即発の雰囲気の中、凛とした声が通り抜ける。その声が発せられた方向に、皆が一斉に顔を向けると。職員専用通路の扉の前に、渦中の人物であるノボリが立っていた。背筋を伸ばし、黒のコートをはためかせ、視線を侵入者に対して真っ直ぐに向けて。
「ここに来るまでに、あなた方の目的は聞きました。どのような目的かは知りませんが、わたくしの部下には手を出さないでください」
一歩一歩ゆっくりと、しかし、力強い足音が聞こえる。そうしてノボリがプラズマ団員たちの前に立ち塞がる。鉄道員の面々はノボリを守ろうと前に踊り出ようとするが、それらを手で制して、地下の王者は前を見据える。自らの弱さを隠して。
「意外と早く出てきたな。だが、その方が好都合だ。では、単刀直入に言おう。サブウェイマスターノボリ。我々に手を貸せ」
「はい?」
迷いなく発せられた言葉に、理解が追いつかず素っ頓狂な声が出てしまった。
手を貸せ、とはどういうことなのだろう。まさか、プラズマ団の活動を手伝えということか。
「それは、あなたたちの活動に加担しろ、という意味でしょうか」
「察しが良いようで何よりだ」
不遜な物言いに、ノボリの眉間が微かに痙攣する。
プラズマ団は、イッシュ地方を拠点にする宗教団体だ。ポケモンを人間の手から解放する、と大々的に銘打ち無垢な人々から、時に人生のパートナーとなり得るポケモンを奪っているのだ。
そんな悪事に、加担しろと。秩序を守ることを第一に掲げ、模範的な人であれと教わってきたノボリからすれば、そのようなことは死んでも出来ない話であった。
「お断りします、と言えば、あなた方はどうされますか?」
「力づくで連れて来い、と彼の方から言われているのだよ!」
プラズマ団員3名が一斉にモンスターボールを宙に放り投げる。白い閃光と共に現れるのは、レパルダス、ゴルーグ、ワルビアルだ。
ノボリも腰のモンスターボールに手をやるが、その指先は微かに震えていた。
ノボリは、バトルが怖かった。大切な相棒が傷付くのを目の前で見せられるのに、自分は手出しが出来ない歯痒さ。安全な場所から一歩引いて眺めている秘境で臆病な自分。
しかし第一の理由は、ノボリはポケモンと心をリンクすることが出来る、ということだった。だから痛みも、恐怖も、悲しみも、絶望すらと全て感じ取れる。それを一身に受け止めなければいけないのが、嫌だった。サブウェイマスターに任命された時も、随分と抵抗したものだ。
しかし。部下である鉄道員たちが見守る中、自分だけ尾を巻いて逃げるわけにはいかない。覚悟を決め、シャンデラのモンスターボールを選んだ時、その隣に下げていたもう一つのボールの開閉口が開いた。
『ノボリ兄さん!』
飛び出して来たのは、クダリだ。目前にいる3体の前に立ち塞がり、ノボリを守るように白亜の翼を広げる。その姿に鉄道員たちは興奮で声を荒げ、プラズマ団員は驚愕で目を見開いた。
「な、ルギア、だとっ!?」
「なんや。下調べもせずに乗り込んできたんか。随分と荒い仕事するんやな、プラズマ団は」
クラウドが彼らの失態を嘲るように豪快に笑う。それに腹を立てたのか、顔を真っ赤にしたリーダー格の男がゴルーグに指示を飛ばした。
「幻のポケモンだろうが怯むな! ゴルーグ“はかいこうせん”!!」
巨人兵が両手を胸の前に掲げると、光が収縮し、やがて球体が形成される。そして一筋の線がクダリに向かって放たれた。高速で迷いなく進むそれを見て、ノボリの指示が一歩遅れる。だが、クダリだって甘んじて受ける訳にはいかない。
翼を一振りし、上空に回避すれば、そのまま予め発動状態にしていたエアロブラストをゴルーグに向けて放つ。鈍足なゴルーグでは、避ける動作すら出来ない。轟音と共に圧縮された空気が直撃し、巨体が後方に吹き飛ぶ。
プラズマ団員の男は、後方で鳴る衝撃音と頬を掠める風を受けて尚呆然と立ち竦んでいた。
男の中にあったのは幻のポケモン--ルギアを目の前にした畏怖と、崇拝にも似た感情。
どうやっても勝てない、と心臓がざわつく。がしかし、男も易々と逃げ帰るわけにはいかなかった。このまま何の収穫も得られずに戻ったところで、待っているのは苦しみの果ての死だけ。
「くそっ! お前ら!」
「りょ、了解です!」
「足止めぐらいなら……!」
部下であろう2人が、レパルダスとワルビアルに“かみくだく”を指示。エスパータイプのクダリには効果抜群の選択だが、彼は低いエントランスホールの中を、それでも大海の上のように優雅に舞っていた。
ホールに設置された時計台やオブジェを駆使し、登り詰めるが一歩が届かない。
ノボリは圧倒的な力で相手を翻弄するクダリに、ただ尊敬の感情を抱いていた。
今、己の心にあるのは、大切な人の役に立てる喜びと、愛おしい人を守るという義務感。
それらは現在クダリが感じているものであり、心のリンクで繋がっているノボリもまた、同じものを甘受する。
真綿のように優しく、暖かいもの。
ノボリは今までのバトルを、走馬灯のように思い出していた。自分はポケモンたちが感じている痛みや恐怖にしか意識を向けていなかったが、その中に、クダリと同じ感情が存在していたのではないかと考える。
それはつまり、愛であり、慈しみであり、思いやりというものだろう。
ノボリはそんなことすら気が付けなかった自分を、心の中で激しく罵倒した。自分が怖いと、悲しいと、可哀想だと思っている最中にも、彼らは一生懸命に前を向き立ち向かっていたのだ。
ノボリは顔を上げ、クダリを見つめる。クダリもまた、ノボリを見つめ一つ首を縦に振った。
「クダっ……、ルギア! “ハイドロポンプ”です! 敵を一掃してください!」
『任せて兄さん!』
口を大きく開いたクダリの口元に、どこからともなく水の塊が形成されていく。やがて臨界点を超えたそれは、目にも止まらぬ速さでレパルダスとワルビアルに直撃する。
2体が壁にぶつかる重たい音と同時に、地下世界に霧雨が降る。
帽子の鍔から垂れる水滴を眺めていたノボリは、その向こうに見えるプラズマ団員と気絶状態のポケモンたちを見て、勝利したことを初めて知った。
「キャメロンはジュンサーに連絡、カズマサとシンゲンは上層部に報告に行け」
クラウドがすぐさま指示を出せば、了解と敬礼した部下たちが散り散りになる。
ノボリは地上に降りて来たクダリの首や頭を撫で、額同士をゆっくりと合わせた。
「クダリ、ごめんなさい。いつもあなたばかりに、こんな苦しいことをさせてしまって」
『気にしないで兄さん。だって、僕にとっては兄さんがこの世界で一番大切なものなの。それは何があっても変わらない。それに、あの人たち、兄さんを連れて行こうとした。僕と引き離そうとした。許せなかった』
「でも、クダリ。今回は呆気なく終わりましたが、次はどうなるか分かりません。出来れば傷ついて欲しくないのです。わたくしのためなんかに」
『前も言ったけど、僕はノボリ兄さんとまた会えて本当に嬉しいの。だからこの奇跡を、もう二度と手放したくないんだよ』
クダリがノボリの濡れた髪の毛を一房、柔らかく噛む。本当は人間体になり、目の前にいる兄を抱きしめたかった。けれど他の人間がいる場所でそんなことは出来ない。クダリは歯痒かった。しかし、ノボリが自分の身をこんなにも案じてくれていることが何よりの幸せだった。
クダリは小さく、キャゥと鳴く。その一瞬だけは幻のポケモンルギアではなく、ノボリの弟のクダリとして振る舞いたかった。