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    グランデシアの花畑編

    眼下に広がるコバルトブルーの海。
    視界を埋め尽くす雲と空のまだら模様のコントラスト。
    耳元でうねる風に巻き上がる髪を気にしながら、視線を横に移せば、オニドリルやスワンナといった大型の鳥ポケモンが大空を舞う。
    そしてノボリの身体の下には、白亜の大鳥が逞しい翼を広げて自由自在に風を操っていた。
    まるで夢のような光景。しかしこれら全てが現実であると認識した途端、ノボリは胸が痛くなるほどの充足感に満たされた。
    ポケモントレーナーの夢。
    それはまさに十人十色だ。
    ポケモンリーグでチャンピオンになることかもしれないし、全てのポケモンを捕まえて図鑑を完成されることかもしれない。そんな数多の夢の中には、伝説と呼ばれるポケモンをパートナーにしたいというのも、もちろん存在する。
    御伽話や伝承の主人公のように、心を通わせて共に旅をする。ノボリはまさに今、自分自身がそんな存在になっているということが、どうしても信じられないでいた。
    海の神と呼ばれ、畏れられ崇拝される存在と、空を飛んでいるということが。
    『ノボリ兄さん。疲れてない?』
    「大丈夫ですよクダリ。あなたが気を遣ってくれるおかげで、とても快適です」
    そしてもう一つ。
    そんな神から兄と呼ばれている、ということが。


    約半年前。クダリと出会った嵐の日の翌日。
    ノボリは疲れた体を引きずって出勤したギアステーションの待機室で、書類と向き合いながら悩みのタネを抱えていた。
    それは言わずもがな、昨夜、ひょんなことから捕獲してしまったルギアのことだ。
    自然治癒では治らないほどの怪我を負い、自らをクダリと名乗った挙句、ノボリのモンスターボールに入った彼。普通の個体であればノボリとてさほど気にはしないのだが、どうしても問いただしたいことがあった。それは昨日歌っていた、子守唄のこと。
    あれは、ノボリが幼い時、海に出かけたまま帰ってこなかった母がよく口ずさんでいたものだ。
    どうしてあなたがそれを知っているのですか?
    そう聞きたいのに、ノボリはクダリを外に出せないでいた。理由は簡単だ。彼が超大型ポケモンであり、尚且つ幻のポケモンだから。
    自宅で出そうものならノボリの住むそれなりに古いアパートが半壊するのは目に見えているし、かと言って外で出すのは、良からぬことを考えている輩の目に留まりそうで怖かった。
    ノボリのそんな葛藤を知ってか知らずか、腰に下げているモンスターボールは今朝から激しく震え、中にいるクダリが早く出せと無言で訴えてくる。
    そうなる度に両手で包んで落ち着かせていたのだが、流石にそろそろ限界かもしれない。
    「はぁ……。どうすれば良いのでしょうか。ライモンシティ周辺に、この子を出せるような広い場所なんてありませんのに」
    重いため息をこぼし、手の中のモンスターボールを握りしめる。昨晩噛みつかれた腕の傷は塞がってはいるものの、未だに鈍い痛みを訴えて微かに眉を寄せる。
    そんな様子のノボリをシャンデラとシビルドンが心配そうに見つめていた。昨晩、腕に怪我を負いずぶ濡れの状態で帰ってきたら主人と、何故か共にいる大海の化身。どういった状況なのか全く理解は出来なかったが、二人はノボリが自ら話すまで待つことにした。がしかし、こんなにも思い悩んでいる姿を見て、もう声をかけるしか無いと思っていた。
    「シャァン……」
    シャンデラが気遣うように声をかけたのと、待機室の扉が勢いよく開いたのは同時だった。
    「ボスー! 聞いてくださいよラムセスが!」
    「待つのさカズマサ。どうして僕が悪い風に言うのさ」
    「あれはラムセスの言い方が悪いよ」
    どやどやと雪崩れ込んでくる鉄道員の面々。彼らの言動を見るに、どうやら仲間内でトラブルがあったらしい。
    少し喧嘩っ早いところがある部下たち。このままでは本格的な言い争いが起こりそうで、ノボリが手元のモンスターボールを机に置き仲裁に入ろうした。その時。ノボリの手から離れたボールがより一層激しく振動し、眩い光を発してその口を開いた。
    ノボリを巻き込むように広げられた翼に、狭い室内と低い天井の中で窮屈に折り畳められた巨躯。息苦しいだろうに、その目には衰えない殺意が宿っていた。
    ノボリが驚いたのは勿論のことだが、更に衝撃を受けていたのは鉄道員たちだ。各々呆けたように口を開け、突然現れたクダリを凝視している。数分の沈黙が流れたあと、待機室には耳を劈く悲鳴が上がった。
    「ル、ルギア!? どうしてここに?! というか今、ボスのモンスターボールから出てきませんでした??!!」
    「ノボリさんついに幻のポケモンを仲間にしたのですか! 流石です!」
    「もう少し近くで見たいのさ」
    好きなように話し始める彼らに、クダリの怒りが蓄積されていくのを側にいるノボリだけが感じ取っていた。このままではまずい、と思うが遠慮がちなノボリではこの場を治めるのは難しかった。
    「あ、あの、皆さまどうか落ち着いて……」
    『お前たち誰だ。僕の兄さんに近づくな』
    ノボリがなんとか口に出した言葉は、クダリ本人によって遮られてしまった。高度なテレパシーに、一瞬ざわめきが治るもの、元来ポケモンオタクである彼らには火に油だった。
    ますますヒートアップしていく鉄道員たちの熱気と、何処からともなく風が唸る音が聞こえる。そしてついに、クダリの堪忍袋の尾が切れた。
    『うるさい。消えろ』
    口元に収縮された空気の塊が大きな渦を伴い、室内に置かれていた書類などを巻き上げる。台風すらも操ると言われる力が、柔らかい生命に迷いなく向けられる。数人の鉄道員が咄嗟に目を瞑る。しかし彼らに訪れたであろう死はノボリの、「やめてくださいクダリっ!」という声に掻き消された。
    ノボリはエアロブラストが解き放たれようとした瞬間、自らの身を挺してクダリの首に抱きつき技の発動を止めていた。
    クダリもまさか、そんな危険な状況で、ノボリが割って入って来るとは思わず。慌てて体の力を抜き技の発動を停止したが、完全に消滅出来るわけは無くて、咄嗟に分散させた風は壁に大きな穴を空けていた。
    舞い散る埃と、書類だった紙切れ。呆然と座り込む鉄道員。そして息を切らすノボリと、そんな彼をオロオロしながら見下ろすクダリ。
    カオス、としか言いようが無い状況の中。少し曲がってしまった待機室の扉が開き、何も知らないクラウドが顔を出した。
    「えらい音したんやけど、何の騒ぎや」
    どうせトトメスかカズマサ辺りが何かしでかしたのだろう、とたかを括っていた彼は、目の前にいるルギアに気の抜けた声を出してしまった。がそこはギアステーションの最古参。すぐに思考を持ち直して、鉄道員に片付けをするように号令を飛ばす。
    「ラムセスとカズマサは掃除道具持って来い! トトメスはとりあえず破壊箇所の報告書や! 他の奴らも自分のできることしろ!」
    怒らせると怖いクラウドからの指示に、鉄道員たちが蜘蛛の子を散らすように部屋から出て行く。
    「あー……ボス、悪いけど、上に報告しといてくれますか? 理由は適当にでっち上げといて下さい。ここにいる奴らは、ああ見えても口は硬いんで」
    クラウドはそれだけを言い残して、部屋から去っていった。残されたノボリは、恐る恐るクダリに耳打ちした。
    「クダリ、こういったことは今後してはいけませんよ。それに、何ですか。兄さんって」
    見上げなければ全体像すら捉えられない巨体が首を傾げて思案するも、すぐに嬉しそうな顔に変わった。
    『僕、ノボリ兄さんにまた会えて嬉しい。それに兄さんがそう言うなら、もうあの人たちを攻撃するのやめる』
    そしてノボリの顔にゆっくりと頭部を近づけて、まろい頬を舌で舐める。
    『あとね、兄さんは僕の兄さんだから!』
    元気よく答えたかと思えば、目の前の狂騒を置き去りにして再びモンスターボールの中へと戻っていってしまったのだった。


    話が逸れてしまったが、本題に戻ろう。
    ノボリは今、クダリが散歩の途中で見つけたという孤島に向かっていた。
    出会った頃の傷もほとんど癒えて、体躯も目を見張るほどに大きくなっていた。ご飯はもちろん、おやつさえも毎日強請ってくる旺盛な食欲はノボリを安心させた。
    『今から行く島ね、とっても綺麗なグランデシアの花畑があったの。それを兄さんにも見てほしくて』
    感謝の花言葉を持つ、ピンク色の可憐な花。イッシュ地方のみならず、様々な地域に群生し、誕生日や特別な記念日にその花束を渡す風習があった。
    「グランデシアの花。わたくしも久しぶりに見るので、とても楽しみです」
    ノボリが手元にある軽食や飲み物が入ったバスケットを抱え直せば、クダリも嬉しそうに頷く。ノボリと一緒に出掛けられる。というのが、彼にとっては幸せ以上のことだった。
    『あ、兄さん。見えてきた』
    高い声をあげれば、ノボリも下界に視線を移す。周囲を紺碧の海に囲まれたその島は、中心部に火山を有しその周りを深い森や草原が取り囲む無人島だった。
    徐々に高度を落とし、風の抵抗を最小限に抑えて着陸する。
    クダリ一人ならもう少し荒々しい方法で陸地に降りるのだが、今日は背中にノボリという宝物を背負っている。もしバランスを崩してしまえば、取り返しのつかない事態になるだろう。
    ふわり、と重さを全く感じさせない繊細な動作で草原の中に腰を下ろす。ノボリが降りやすいように翼を畳めば、完璧な着陸だ。
    『降りて大丈夫だよ、兄さん』
    「ありがとうございますクダリ。長旅ご苦労様でした」
    労わるように頭を撫でれば、きゅわぁと喜びの声をあげる。
    「お腹も空いているでしょう? お昼ご飯にしましょうか」
    バスケットの中からレジャーシートを取り出して広げていると、クダリの身体が眩い光に包まれる。そうして現れたのは、翼の一部と尻尾、背中の青く小さな翼に頭部の側面に特徴的な鱗を残し人型に変形したクダリの姿があった。
    「ノボリ兄さん! 僕も手伝う!」
    嬉々として近寄ってきたクダリが掌代わりの翼を器用に使ってシートの端を掴む。自分とほとんど同じ体格になったクダリを、ノボリは本当に愛おしそうに見つめていた。
    この姿は、謂わばクダリの強い執念の現れだった。
    ノボリと共に過ごしたい、もっと一緒の時間を共有したいという果てない欲。ポケモンであるクダリにとってこんな感情は、初めてだった。が、同時にそれだけ大切な物を見つけたのだという悦びもあった。
    ギアステーションで職員たちを嬲ろうとした日の晩。自宅に帰ってから早々に、『見せたいものがある』と言ってノボリにこの姿を披露した。ポケモンが人の姿に化ける事例は極端に少なく、初めて見た時は腰を抜かしてしまったが、慣れてきた今ではすんなりと受け入れるまでになっている。
    「上手に敷けましたね、クダリ。では飛ばされないように石を置きましょうか」
    「うん!」
    足元に転がっている石を四隅に乗せて、軽食を広げれば昼食の準備は万端。クダリは尻尾を振りながら早速、ノボリお手製のポフィンを頬張り始めた。食べカスがあちらこちらに舞い散るが、ノボリは決して怒らない。口の周りに付いた小さなカケラをナフキンで拭き取りながら、「まだたくさんありますからね」と言うのだ。
    過保護だと思われるかもしれないが、ノボリにとっては初めて心を許せる家族が出来たのと同然だった。孤独にこの年まで生きてきたから、他人に尽くせることの嬉しさや、寂しさを共有できる相手がいるというのが、何よりの幸せだった。
    そうして持ってきたポフィンの半分を平らげたクダリは、花畑へと足を向ける。マイペースなところはいくら幻と呼ばれようとも、ポケモンであることを如実に示していた。
    「あまり遠くに行ってはいけませんよ」
    一言声をかけて、ノボリも自分のご飯へ口を付ける。サンドイッチを一口二口かじれば、周囲から湧き立つグランデシアの花の濃密な香りが鼻を掠めた。
    ふと、口角を緩める。
    (そういえば、お母様もこの香りが好きでしたね)
    母がいつも纏わせていたコロンの香りが、脳裏の奥底でちらつく。鼻をツンとした痛みが襲い、無意識に洟をすする。誤魔化すためにもう一口香ばしい匂いを発するパンを齧った時、さわさわと花の海が揺れた。
    「兄さん! 見て、いっぱい摘んできたの! 花冠作ってあげる」
    両の腕いっぱいに持ってきたグランデシアの花束をシートの上に置いて、器用に茎同士を結び始めた。
    ノボリはその隙にバスケットから包帯や消毒液を取り出して、怪我の残る箇所を入念に確認する。かさぶたになっている箇所は放置していても問題無いが、若干膿が残る傷口は消毒液を染み込ませたコットンで消毒していく。未だに残る傷跡を見て、ノボリはほんの少し顔を歪めた。クダリにいくら問いただしても、この傷が出来た経緯は話してくれない。がこんなにも酷い怪我を負うということは、同族同士の争いではなく、人間による仕業だと考え始めていた。
    (わたくしがもう少し早く出会っていれば)
    ようやく生え揃った背中の小さな翼を撫でていると、突然クダリが振り返った。
    「上手く出来たよノボリ兄さん!」
    嬉々とした表情を浮かべるクダリの手元には、目を見張るほど美しいグランデシアの花冠があった。
    「流石クダリです。とても素敵ですね」
    手放しで褒めると、クダリは満更でも無い顔になる。ふふん、と鳴る鼻を見て、ノボリの心は多幸感に包まれていた。まさか自分に、このような幸せな時間が訪れるなんて。もしクダリに出会っていなかったら、あの狭いアパートの部屋で、今日も孤独な休日を過ごしていたに違いないから。
    「上手く出来たでしょ? これ、兄さんにあげる!」
    ふわりと頭の上に、雲のような重みが乗る。
    白銀と新緑が調和し、クダリの瞳がうっとりと細められた。
    「僕から兄さんへの、感謝の気持ち。僕を助けてくれてありがとうとか、ね。僕の兄さんでいてくれて本当に嬉しいの」
    その言葉が聞こえた直後、体を屈めたクダリにノボリは口付けを一つ、硬く結ばれた口元に落とされた。少し冷たい体温に一瞬驚いてしまったが、クダリの顔が離れた時に垣間見えた大人びた顔に、心臓が痛いほど跳ねた。
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