……コーンカーン、コーン……
四限目が終わるチャイムに、のろのろと目を開ける。気持ち悪い。胃が何度も収縮を繰り返している感じと、下腹部のずきずきとした痛み。少し眠ればマシになるだろうと目を閉じても不快感が邪魔をして一睡もできなかった。
のっそりと体を起こす。しばらく動きたくなくて、ぼんやりと白い掛布団に覆われた足先を見つめる。
クリーム色のカーテンが捲られ、青い半袖のセーターにコットンパンツを履いた女性が音もなくなまえの方に近づいてくる。保健室にいるより都会のオフィス街の方が似合いそうな女性だ。
「みょうじさん、どう?」
「あんまりって感じで」
ぼそぼそと会話が交わされている保健室とは反対に、静かだった廊下は潮が満ちていくように騒がしくなっていく。ぐちゃぐちゃに丸められた音の塊が容赦なく彼女の頭に叩きつけられるので、具合がさらに悪くなりそうだった。なまえは片手で顔を覆った。
「もう早退する?」
養護教諭が顔を覗き込んで声をかけるのと同時に、保健室のドアが開いた。
「すみません」
五月の青い風のようにテノールの声がりんと響く。ちょっと待っててね、と養護教諭はなまえに言って「はーい」
と行ってしまった。
「二年A組のみょうじさんいますか。荷物、持ってきました」
「ありがとう。ちょうど目が覚めたところ」
「そうですか」
きゅっと上履きが床を踏む音になまえは顔を覆っていた手を下した。耳によく馴染む声が自分の方に近づいてくる。
「みょうじさん体調悪いから、そっとしておいてあげてね」
「はい」
簡潔な返事とほとんど同時にカーテンを開けられた。光が視界一面に広がり、くらりとなって反射的に目を閉じる。そっと目を開き光を目で辿っていくと綾瀬川の色のうすい目とかちあった。体調の悪い人間に向けるにはふさわしくない、冷ややかな目で彼女を見下ろしている。真っすぐとなまえを見つめる透き通るような目には後ろめたさを抱かせる。なまえはじり、と後ずさりした。
「これ。教科書とか」
腿の上になまえが教室に残していった筆記用具などがぽんと置かれる。落ち着いた動作がかえって綾瀬川の底知れなさを感じさせた。
「ありがとう」
弱弱しく濁った声に初めて恥ずかしさを覚えた。何度か咳払いをし、教科書を受け取ってそのまま俯く。綾瀬川は断りもなくベッドの縁に座った。
「突然出ていくから焦った」
「ん」
「体調悪いの知らなかったんだけど。言ってくれればいいのに」
「言ってもどうにもならないよ」
薬を持っているわけでもないし、と続けて言おうとすると綾瀬川がこちらを睨んでいることに気付いた。しまったと思うより先に、綾瀬川が口を開く。
「どうにもならないことはないでしょ。オレだったらもっと早く……」
「綾瀬川さん?」
大きな目を見開き声を荒げて感情を露わにしかけた綾瀬川を養護教諭の声が中断させる。綾瀬川はそちらの方に視線のひとつも寄越さず淡々とした口調で「すみません」と言った。
「みょうじさん、どうする? 最後まで出られそう?」
「早退します。多分、最後までいるの難しそうなんで」
「じゃあ、職員室に行ってその後荷物まとめてもう一回ここに来て」
とん、と床を鳴らして上履きを履き、ベッドから降りた。
「わかりました」
キャップを被った用務員が持つ緑のホースの先から水しぶきが飛び跳ね、小さな虹を作っている。彼の足元では菖蒲が気持ちよさそうに水を浴びている。花はなまえの視線に気づいたかのように軽く花弁を揺すってみせた。まるでそれが合図だったかのように、花の方を向いていた用務員は日に焼けた顔をなまえの方に向け「さようなら」とにこりと笑う。
「さよなら」
なまえはぎこちなく頭を下げた。じっと見すぎていたのかもしれない、と気まずくなりすぐに目を逸らす。。
前を歩いていた綾瀬川が立ち止まり、振り返ってこちらをじっと見つめている。彼の着ている半袖の白いシャツが初夏の光に照らされていて、まぶしい。何の特徴もない夏服でもスタイルの良い彼が着ていると高級ブランドに特注で作らせたもののようになる。綺麗な人は制服姿でも様になるんだな、となまえはぼんやりと思った。
「何やってんの」
大きな目をぐっと細めて綾瀬川が尋ねる。
「ごめん」
短い謝罪を口にして綾瀬川の方に歩いていく。綾瀬川はなまえが隣に来るのを待ってから、再び歩き出した。何か物言いたげなスピードで、ゆっくりと。校門に早く着きませんように、となまえは心の中で祈る。
ありがとうございました、と言ってなまえは保健室のドアを閉め、購買に向かう人達をうまく避けながら廊下を歩き出した。すれ違う下級生の綾瀬川先輩だ、と嬉しそうな声はすぐに隣さ……と声を潜めてこそこそと話し合う声に変わる。まるで一点の間違いでも見逃さないような厳しい目でじろじろとなまえを見ながら。その視線に気圧されないように、顔を上げ大股で歩く。何も気にしていませんよ、というふりをする。もちろんふりなので、もしその人たちが詰め寄ってきたらすぐに潰れてしまうだろう。
教室に着いてなまえはカバンの中に荷物を詰め始めた。早退するの?と友達が聞くのを、やっぱ最後までは我慢できないと思うと苦笑いして返す。お大事にね、ノート写真撮ってLINEに送っとくねという言葉にありがとう、と言う。
口を真っすぐに結るんだ綾瀬川がなまえのところまで来て、手からカバンをかすめ取って、「ついてく」とだけ短く言い、なまえが止めるより先に出て行ってしまった。教室じゅうから意味ありげな目が向けられているのを無視して綾瀬川のあとを追いかける。
ただ綾瀬川が普通に廊下を歩くというだけで、廊下でたむろしている生徒たちが自然と端に寄って彼のために道をあけた。彼らはちらりと綾瀬川の方を見るものの、すぐに目を逸らす。反対に綾瀬川の数歩後を歩くなまえに対してはじろじろと視線を向ける。敵意と侮蔑を隠そうとしない。なまえを見ている集団の中のひとり、シャツの第二ボタンまで開けた少女とうっかり目が合ってしまった。彼女は氷のように冷え切った目をしており、先に目を逸らした方が負けだと言わんばかりに、じっと睨まれた。綾瀬川がなまえと付き合っていることを知っていても、綾瀬川にアプローチをしてくる人は後を絶たない。彼女はその中の一人だということを綾瀬川から聞かされていた。散々付きまとった挙句に綾瀬川に「俺が付き合ってんの知ってるくせにしつこい。興味ない」と突き放されたことを根に持っているのか、それからなまえに向ける目に厳しさが増した。
綾瀬川と付き合うということは、どんな理不尽な物事でも黙って受け入れるということだった。
「お前、早退すんのけ」
気づけば綾瀬川が荒っぽい口調で話しかけられていた。「違う。なまえが」と綾瀬川が言うとほーんとそれ以上は興味なさそうに手元のペットボトルをあおった。黒いスラックスの裾を折り足首をむき出しにしている。尖った足の腱になまえは一瞬だけ見惚れる。
「なまえ、行くよ」
「あ、うん」
綾瀬川の手がぎゅっとなまえの手を掴んで再び大股で歩き始めた。彼女のひんやりとした手がさらに熱い手に包まれて、そこから温くなっていく。どき、と心臓を脈打つ音が早くなる。
「いちゃつくな、ハゲ!」
昼休みの廊下を手を引かれながらずんずん進む。ずいぶん乱暴な言葉を背中に浴びせられながら。
「桃吾のこと、見てたでしょ」
繋いでいた手をぱっと解き、目じりをきっと吊り上げて唐突に言う。見てないとすぐに否定の言葉を口にできなかったのは、確かに一瞬だけだったが、雛に見惚れたからだ。
「ありえないんだけど」
なまえが何も言えずにいるとぷいと綾瀬川は顔を背け、錆びた下駄箱のドアを開けローファーを地面にぽいと投げ捨てる。靴を履きなまえの方を振り向きもせず昇降口から出て行ってしまう。
「はー……」
体調が悪いのに加えて綾瀬川の機嫌を悪くさせてしまうとは、今日はついてないなと思った。でも、だって、という言葉たちがぽこぽこ生えてくるのを押しとどめ、のろのろとローファーを取り出す。綾瀬川はもう随分と先のほうを歩いていたが、立ち止まってなまえのことを待っている。薄暗い昇降口から初夏の光のなかへと足を踏み出す。
「あのさあ」
「ねえ、」
言葉がかぶってしまい、思わず顔を見合わせる。丸い目をさらに丸く大きく見開き、きょとんとした顔をしたあと、すぐにふいと顔を背けられた。
「先、言って」
眼前で鮮やかな新緑がざわざわと揺れている。短く言い切った綾瀬川の横顔は静けさを湛えていた。
「心配してくれて、ありがと」
「……」
口を曲げてむずがゆそうに頬を掻く。
「あと、ごめん」
「ん」
綾瀬川はすうっと息を吸い込んだ。
「俺、彼氏としてダサいなって思った」
強張っていた顔がふっとゆるむ。
「なんだろ、なまえが教室出て行った時に、めっちゃ慌ててさ、戸田にはお前彼氏なのに彼女のこと知らないのかよとか言われるし」
「俺の知らないとこでさあ、なまえが困ったりしてんの、やだなって」
「うん」
「でもマジで桃吾のこと見てたのはありえないから! 俺がいんのに」
確かに雛のことを見ていたのは否定できない。しかし雛その人に好意を持っているわけではないのだから大目に見てほしい、と思ったが、綾瀬川が他の女子のことを見ていると想像すると不快な気分になる。
「……ごめん」
大きな手がなまえの頭をやさしく撫でる。感情の波が激しいところがあるものの、綾瀬川は思いやりがある人だ。ねえ、見てよ、と嬉しそうにアイスの棒のあたりを見せてくるような可愛いところもある。
綾瀬川からかばんを受け取る。
「お大事に。またね」
「ありがと。うん、ばいばい」
なまえは校門を出てしばらく歩いたあと、一回だけ振り返った。すると、綾瀬川は校門から出て歩道の真ん中に立っていた。なまえが小さく手を振ると、綾瀬川もまた手を振り返してきた。