宇宙でただひとりの――君は、俺が守る
心の準備なんて全くできないまま、彼の整った顔が迫り、唇がぐっと押し付けられる。彼の唇を感じた瞬間、まるで時間が止まったかのように思えた。
やわらかな感触。自分のものではない、人の熱。カガリの肩を掴む手の、強い力。彼に熱情をぶつけられた喜びが、鼓動を速め、全身を駆け巡る。
すべてが、はじめて味わうものだった。無我夢中で彼の唇を受け止める。
今となってはもう朧げだが、彼の唇は微かに震えていた気がする。あのキスは戦地に向かう、少年のひたむきな心が込められていた。
彼とともに生きたい。アスランとはじめてくちづけしたあの瞬間、確かにカガリはそう思っていた。
あまく懐かしい思い出を胸に浮かばせながら、カガリは自身の唇にそっと手をやる。ここしばらく、メイドたちが丹念に手入れを施したおかげで、そこはしっとりと潤って、すべらかだ。
寄せては引く波のように、彼との大切な思い出がひとつずつ胸をかすめていく。今夜は、あまい記憶を抱きしめるのをやめられそうにない。
本当は明日のために早く寝ないといけないのだけれど。
ガラスの向こうには、深い紺が広がりそのなかに星が白く瞬いている。あのキスは、この大きな宙のなか、いったいどのあたりで交わしたのだろうか。
ギッと、背後からドアがひらかれる音がする。振り向くと、アスランがいた。記憶の中の少年よりも、だいぶ成熟した姿で。
「眠れないのか?」
気遣うような、やわらかな声。
「隣にいないと思ったら、」彼はそういって、やれやれ、というように眉を下げた。
どうやら、カガリがベッドにいないことに気付いて、探しに来てくれたらしい。
「よくここがわかったな」
かつて、アレックスと呼ばれた少年が生活していた場所。カガリは何かに想いを馳せたいとき、いつもここに来る。
今も、長らく使われていないベッドの上に腰かけて、窓越しに空を見ていた。あとからあとから浮かんでしまうのだ。彼とのあれこれが。今夜は。
「君はひとりになりたいとき、ここに来るから」
アスランは、そっとカガリの隣に腰かけた。一人分の重みが増えて、マットレスがわずかに揺れる。あたたかな手が伸びてきて、やさしく手を握られる。
「……緊張、してるのかもしれない。明日のことで」
カガリは、掌を返して、彼の手を握り返した。アスランの手も、普段よりずっと滑らかで、かさつきひとつなかった。彼もまた、カガリ同様にアスハ家のメイドたちに入念に手入れされているのだろう。
彼の手はふだん、作りの精巧な顔とは対照的に粗さがあった。日々、鍛錬を行い、銃を握り、機器にも触れるからだ。彼に触れられるたび、この男がかさついた手をしているなんて知っているのは自分だけ、という優越をカガリはほんのり覚えていた。
それが今はこんなにつるりとして、おだやかだ。あの手が好きだったのに、とちっぽけな嫉妬心が芽を出し、ちくりとカガリの胸を刺す。
しかし、そのすぐに棘もすぐに立ち消えた。アスランがはにかんだから。
「俺もしてる、緊張」
彼が肩をすくめ、困ったように眉を寄せる。
「パレードなんて、どんな顔すればいいんだ」
はあ、とアスランが深くため息をつく。そうだ。彼は、明日はじめて『カガリ・ユラ・アスハの夫』として直接国民の前に出るのだ。プレッシャーはおそらくカガリ以上だ。
「お前がパレードを受けてくれるとは思わなかったよ」
明日の成婚パレードは、もともと予定していなかったが、氏族の者たちの強い希望で行うことになった。ただ、パレードを乞われたとき、アスランがすぐにそれを受け入れたのが意外でならなかった。
彼はこういった、きらびやかで、自分が見世物になるようなものは好まないと思っていたから。
「そうか?」
アスランがきょとんとした。
「お前は人前に出るようなの、苦手だと思ったから」
ああ、と彼が納得したように言った。思い当たる節はあるようだ。
「確かに、柄ではないと自分でも思う。でも……」
「でも?」
カガリが聞き返すと、アスランはきゅっと目を細めてこちらを見つめた。彼は、カガリに愛をつたえるとき、この目をする。愛情のこもる、カガリをどうしようもない気持ちにさせる目。彼がこの目をするとき、カガリの胸は高鳴り、甘酸っぱい感情でいっぱいになる。
アスランは、ぎゅっとカガリの手を握りしめた。痛い、と思ったのは一瞬で、すぐに握る力が弱まる。
「国民みんなに、幸せな君を見せたかった。彼らはきっとそれが見たかっただろうから」
アスランの言葉は、カガリにまっすぐ届く。目の奥からじわっと熱が滲んだ。彼のやさしさが、たまらなく嬉しい。
喜びをつたえるように、カガリは、アスランの手を強く握り返した。
「それに、映像記録として残したい……というのもあったかな」
アスランは神妙な顔をつくった。それにはカガリも同意だ。
「まあ、記録は大事だよな」
映像記録というものは、いまや重要視せねばならない要素だ。個人の思い出や報道資料としてもさることながら、それらのデータはコピーを繰り返されて、電子の海のあちこちにしぶとく居残り続ける。
そして、ことあるごとに掘り返され、再び人の目に晒される。
政治家として生きたカガリはもはやその重要さをよく知っている。
うん、とアスランが頷きながら、口元に孤を描く。満足そうに。
「これで『カガリ・ユラ・アスハ、結婚』で検索しても、俺たちの写真が出る」
冗談っぽい口ぶりだったが、本心だろう。カガリはおかしくなって、声を立てて笑った。
確かに、悲惨だったかつてのパレードよりも、彼との写真が世に残るほうがいいに決まっている。
「その通りだな」
ふかぶかと頷き、同意する。明日はめいっぱい笑って、笑顔の写真ばかりにしようと決めながら。
カガリが彼の肩に頭をこてんと預けると、ゆったりと髪を撫でられた。髪に触れた手は、そのまま頬をとおり、カガリの顎を掬う。
こちらに向いた翡翠には、熱が滲んでいる。はじめてキスしたときも、この瞳がカガリの前にはあった。
くちづけの予感に、カガリは瞼を下ろす。
予想通りに彼からキスを贈られる。唇をとおして愛をつたえられると、カガリは多幸感に浸され、何もいらない気持ちになる。
唇が離れてから、ふいに彼に尋ねた。聞きたくなって。
「お前、あのときなんでいきなりキスしたんだ?」
「あのとき?」
「ヤキン・ドゥーエのとき」
だって、当時の自分たちはまだ、キスを交わす仲ではなかった。アスランの数段飛ばしともいえるキスで、はじまってしまったのだ。
まだ形になってなかった恋が。鮮烈に。
カガリの中で予想はある。しかし、彼自身の言葉で聞いてみたかった。
そうだな、とアスランはどこか遠くを見るような顔をしてから、話し出した。昔の思い出を語るのにどこか落ち着かないのか、親指がくるくると握ったままのカガリの手をなぞる。少しこそばゆい。けれど、嫌がるほどじゃない。
「……あのときは夢中だったんだ。君は明日出撃するっていきなり言いだすし、自分もどうなるかわからない。いろいろな気持ちで胸いっぱいになって、気付いたら身体が動いてた。……とにかくカガリに伝えたかったんだ。俺の心を」
アスランはゆっくり、ひとつひとつ、自分の中に眠っていた言葉を拾い上げるように話した。彼の瞳はカガリではなく、上の方を見ている。きっと彼の目に映っているのは天井のずっと上、あのとき見た宙なのだろう。カガリは何も言わずにアスランの言葉に耳を傾けた。すべて言い切ると、彼はふうと息を吐いて、カガリを見た。
「洒落たものじゃなくて悪かったな。感情が高ぶったんだ、あれは」
「全然。聞けてよかった」
あのキスとともに放たれた「守る」という言葉は、十五歳の少年の精いっぱいの愛のことばだった。唇をあわせたときの形容しがたい喜びと、彼のことばはずっとカガリの心の底にあり、カガリのすべてを守り続けてくれた。
「それに、ええと、」
「?」
アスランは言い淀んで、少し考えるような顔をした。言うべきか言わぬべきか迷う仕草。けれど、まあ、言ってもいいか、と小さくつぶやいてから、また彼は口をひらく。
「――君の心に残りたかったのかもしれない。あのとき、俺は死ぬ覚悟だったから。今思うと、だが。」
「ばっ……」
カガリは目を丸くし、声を上げる。死ぬ覚悟だったのは、当時から薄っすらと察していた。けれど、そんな気持ちがあったのだと伝えられると、気持ちがかき乱されてしまう。
「コーディネイターでも馬鹿は馬鹿、だからな」
動揺するカガリとは裏腹に、アスランはあっけらかんと笑った。多分、彼のなかではもう整理がなされたことなのだろう。
「それより、いい?」
アスランが聞いた。彼の瞳にまた熱が滲んでいる。『それより』じゃない、まだ話は終わっていないと内心思いながら、ごまかされてやる。
カガリがふたたび目をつむると、瞼にやわらかくあたたかな感触。アスランの唇が、右の瞼にふれ、今度は左へ。
そして、おでこに来たと思ったら、今度はカガリの唇にぐっと押し当てられる。
さきほどのおだやかなキスとは違う、情熱をはらんだキス。舌が官能をかきたて、カガリもそれに応える。
心に火が灯り、ただただ二人の世界へ浸っていく。
未来への意志をもったキスは、ひたすらに愛しかった。