バーニスの作るドリンクは最高だ。一度でも彼女の飲み物を口にしたことがある奴なら、口を揃えてそう言うだろう。加えて彼女は街の子供までもが噂するほどに美人で愛想がいい。だから彼女のドリンクを目当てにこのバーを訪れる客もいれば、バーニス自身が目当ての客もいる。
少なくとも、今日の客が後者であることは火を見るよりも明らかだった。チンピラと呼ぶに相応しい粗雑な態度の客。狭い座席に巨体を押し込み、大きく股を開いてカウンターに身を乗り出す。男は唾を飛ばしながら大声で笑い、無駄に盛った作り話で女の気を引こうとしていた。
「もう一杯頼むぜ、どぎついのな」
「はいはーい! 任せて!」
バーニスはスキップでもし出しそうな程軽い調子で身を翻し、新しいジョッキにニトロフューエルを注いでいく。
男はその間も絶えず口を回し、やかましい程に話を盛り上げていた。
そんな様子をライトは目の前の波々と注がれたニトロフューエルをちびちびと口に運びながら、サングラス越しに伺っていた。
バーニスに向けられた舐めるような視線、隙あらば彼女に触れようと彷徨う手。
こうなるのはいつものことだ。本人も自覚していることだが、なにせバーニスはモテる。なんというかシーザーの人誑しとは少し違い、彼女持ち前の明るさと人の良さが人をその気にさせる。そうしてすり寄ってきた悪漢をするりと躱し、お触りにはハッキリとノーを突きつけ、しつこい奴には火を吹く。それがバーニスという女だ。
だが、今日は少し違った。
男が下品な武勇伝を語る間も、バーニスはいつも通りの笑顔を崩さぬまま相槌を打っている。もう一人の客であるライトには見向きもせず、男との会話に没頭しているようだった。
「バーニスちゃん? だっけか。俺、近くのモーテルに泊まってるんだ。よかったらそっちで一杯やらないか」
ほら来た。ライトは人知れず鼻を鳴らした。
「ええ〜でも、皆で飲んだほうが楽しくない?」
「なら尚の事良い。向こうにゃ連れも待ってる。一人で飲んでる兄ちゃんなんて置いて、大人数でどんちゃん騒ぎしようぜ」
男が遂にバーニスの手に触れた。
やはり妙だ、とライトは思った。バーニスは人に触れられるのを嫌う。こうやってバーニスを口説こうとした輩は、彼女自慢のシェイクとステアで即刻郊外の灰にされるのがオチだ。
しかし今はそれを拒絶することもせず、指の間をねっとりと這う汚い手を受け入れている。
まさか本当に彼女が乗り気だとか。ライトは首を振る。それこそまさかだ、こんな奴が彼女のお眼鏡にかなうとは思えない。
「なあ、どうなんだ」
「ええ、どうしようかなあ。ねえねえ、それよりさっきの続き教えてよ。君の彼女に手を出した男たちを結局どうしたの?」
「勿論兄弟共々拳で分からせてやったぜ。俺たちの恐ろしさってやつをな!」
へえ、すごい! とバーニスは両手を打つ。上機嫌なバーニスとは対照的に、男は不機嫌そうに眉間にシワを寄せた。
「なあ、話を逸らすなよ。それともアンタも、強引にやらないと聞かないクチか?」
男が椅子から立ち上がり、カウンター越しにバーニスの腕を強く掴む。勢いよく腕を男の方に引かれ、バランスを崩したバーニスは踵を浮かした。
流石にこれ以上は見過ごせない。バーニスがどういうつもりなのかは知らないが、チームのメンバーに危害を加えようとするのを黙って見てられるほどライトは薄情じゃない。
ガタンと、わざと音を立てて椅子から立ち上がり大股で二人に近づく。
「おい、あんたいい加減にしろよ」
バーニスを捕らえた男の腕を掴む。少し力を込めてやれば、男の顔は苦しげに歪んだ。
「いい加減にするのはアンタの方だぜ。無敗のチャンピオンだか何だか知らねぇが、この女は俺のモンだ。それとも何だ? 決闘ででもケリをつけるか?」
「俺を知ってるくせしてその態度か。いいぜ、表出ろ」
ライトが顎で階下を指すと、今更怖気付いたのか男の表情はさらに険しくなる。しかしバーニスのことを手放す気はないらしく、このままずらかろうと男はバーニスを掴む手を更に引いた。
「ちょっと!」
バーニスは完全にカウンターに乗り上げる形になった。
「もう! ひどいよ、せっかく楽しく飲んでたのに!」
男の腕を容易く振り払い、体勢を立て直してバーニスはその長い脚を高く振りかざす。バーニスの俊敏な蹴りは男の頬を掠めるだけだった。そして、その切っ先は真っ直ぐにライトに向いていた。
「あ」
顎にめり込む鋭利なヒール。衝撃でサングラスが吹き飛ぶ。
自分でやっておきながら驚いたようなバーニスの顔と、突然の出来事に面を食らった男の間抜け面がまるで走馬灯のようにゆっくりと流れる。
殴られたことは数あれどヒールがめり込んだのは人生で初めてだな、と妙に達観した感想を抱き、ライトは意識を落とした。
郊外の乾いた夜風が頬を撫でる。靡いた髪が肌を擽り、ライトは目を瞬いた。
郊外の満天の星空が眼前いっぱいに広がる。手探りで地面を撫でるとざらついた布生地が手に触れ、外に置かれたソファに転がされているのだと分かる。
「お、目が覚めたかー?」
「パイパー……?」
気怠げな伸びた声が頭上から掛かる。外にハネた金髪が街灯の光を通し、キラキラと輝いた。
「どれくらい倒れてた?」
「ん〜1時間も経ってないくらいだな。気持ち良さそーに寝てたぜ」
眠っている間に駆り出されたのか、パイパーはいつも以上に眠たげに目を擦りながら言った。
ゆっくりと上体を起こして周囲を見回す。人気の無くなった郊外には、ライトを気絶させた張本人の姿は見当たらなかった。
「バーニスならあたしにライトの世話を押し付けて直ぐどっか行っちまったぜ。ライトと同じく伸びてる男引きずってさ」
店にいた男のことだろう。結局バーニスが成敗したのなら、尚更あの態度には疑問が残った。
「パイパー! ごめーん!!」
背後から聞き慣れた高い声が響く。バーニスは地面の砂を蹴り上げながら、ライトの腰掛けるソファまで駆け寄った。
「あ、ライト、目が覚めたんだ! ごめんね、まさかライトに当たるなんて思わなくて」
「いや、いい。いつまでもしつこいのが耳障りでな。あんたは……平気そうだな」
聞くまでもないと言わんばかりに、バーニスは短いスカートの裾を翻し一回転して見せた。それ以上バーニスはライトにもパイパーにも事の顛末を特に語ることはせず、擦り傷の残るライトの顎を指先で優しく撫でるだけだった。ライトの心にしこりが残るだけで、カリュドーンの子ではよくある、いたって普通の出来事なのだ。
立ち上がろうと足に力を込めた時、ぐわんと体が傾く。咄嗟にバーニスがライトの上体を支え、ゆっくりと膝をついた。
「悪い……」
「今日はもう帰って寝たほうがいいと思うぜ。バーニス、ライトのこと部屋まで運んでやんな」
「うん、ライト大丈夫? 立てる?」
バーニスの肩を借りながら、慎重に立ち上がる。バーニスの蹴りを食らったせいだろう、まだ頭がぐらぐらする。
「本当にごめんね、ライト。せっかく助けようとしてくれたのに」
顔が近い。バーニスの下がった眉と、ゆらりと震えた赤い瞳が目に入る。
構わない、と返した声はひどく掠れていた。
そのまま自室へとたどり着いた頃には、普段と変わらないくらいには真っ直ぐ歩けるようになっていた。途中でもういいと言ってもバーニスは頑なに送り届けると言い張り、ライトのポケットに入ったルームキーを取られ手を引かれて行った。
「本当に大丈夫?」
「ああ、何度もそう言っただろ」
自室のドアの前でも、バーニスは心配そうに目を潤ませてライトのことを見上げた。
「じゃあおやすみ、ライト」
ドアが完全に閉まるまで、バーニスは笑顔でその手を振り続けた。ガチャリ、とドアの閉まる音が暗闇に響くと、どっと疲れを感じた。そのままベッドに入れば、すぐにでも眠れるだろう。
そういえば、結局あの態度はどういうつもりだったのか聞きそびれたな、と思ううちにライトは深い眠りに落ちていた。
それから数週間が経った。なんの変哲もない日々。ルーシーから与えられた雑務を適当にこなし、ケチをつけてくるやつを拳で黙らせる。この間の出来事なんてまるでなかったかのように、時は過ぎていく。まあ、あの程度の騒ぎなんて日常茶飯事といえばそうなのだが。
その日、一行はブレイズウッドに留まっていた。日も沈み昼間の喧騒が遠のいた頃、ライトがバイクについた砂を払っていると、後ろから上機嫌なバーニスが声をかけてきた。
「ねえ今から空いてないかな?」
「今から?」
ライトの返事を聞くより前に、バーニスは腕を取り引っ張っていった。こうなるとバーニスはこちらが何を言っても聞かない。大人しく身を任せて連れられるままに歩いた。
バーにはライトとバーニス二人きりだった。
チートピアとバーのネオンがあちこちに反射し、暗い郊外を色とりどりに着飾っている。ライトは定位置に腰を下ろし、バーニスが上機嫌に鼻歌を歌いながら手際よく準備を進めていく様子を見ていた。
「今日はね、ライトにどうしてもあげたいものがあって」
バーニスは後ろの棚から、細長い木箱を一つテーブルに下ろした。厳重に包まれたそれを一つ一つ丁寧に剥がしていくと、指紋一つ付いていない黒光りするボトルが現れた。
ボトルに描かれているロゴマークにはライトも見覚えがある。味も良くて評判もいい、非常に高価なブランド物だ。欲しいけど高くて買えないとバーニスがパイパーに漏らしていたのを覚えている。
「これ……いいヤツだろ。本当にいいのか?」
バーニスは慣れた手つきでコルクを開け、氷の入ったグラスにとぷとぷと中身を注いだ。バーの照明を反射して黄金に輝く液面はうっとりするほど美しい。
「うん! この間蹴っ飛ばして気絶させちゃったでしょ? その時のお詫び!」
ライトは目を瞬いた。そんなこともあったな、と平穏であり騒がしい日々の中に眠っていた記憶を呼び覚ました。
「別に構わない。俺が勝手にやったことだ」
無意識にサングラスを押し上げた。まあ気絶するとは思っていなかったが、と心の中でひとりごつ。
ボトルとグラスを軽く小突き乾杯してから口に運ぶ。一口目はキレのある苦味、そして段々と口に広がるコク深い甘みはそれを高級品だと思わせる一品だった。
「美味い」
「ホント? 良かった」
ライトがすぐに二口目を飲むのを見ると、バーニスも自分用にグラスに注ぎ味わっていった。用意されたツマミをお供になんてことない雑談していると、バーニスは話を切ってふっと目を細めた。
「あの日いたお客さん、覚えてる?」
バーニスはテーブル下から1枚の紙を取り出し、ライトの前に置いた。
人相の悪い男の顔写真と共にWANTEDと書かれ、その上から大きく赤線でバツ印が引かれている。写りは違えど、手配書に書かれた男は間違いなくあの日バーに来た男であった。
「これは……」
「実はね、あの人新エリー都から逃げてきた指名手配犯だったんだよね。少し前に手配書で見たこと思い出したんだけど、でも顔が似てるだけかもしれないし本当に犯人かって確信が持てなくて、色々探ろうとしてみたんだけどね」
うまくいかなかったみたい、とバーニスは肩を竦めながら笑う。
バーニスが言うには、ライトを昏倒させた後すぐに逃げようとした男をひっ捕らえ最寄りの治安局に突き出したらしい。あの時パイパーが代わりに自分を看ていたのも、バーニスがすぐに何処かで消えてしまったというのも合点がいった。
あのもったいぶった誘うような話しぶりも、全ては男から言質を取るためだったというわけだ。
ライトは人知れず安堵の息を漏らした。
「じゃあ、それは……」
「うん! その懸賞金で買ったってわけだよ! パールマンに比べたら大した額じゃないけど、ちょっとした副業分は稼げたかな」
次はどんな手配犯を捕まえて高級ニトロフューエルを買おうかなと、バーニスは既に次なるターゲットへと想像を膨らませていた。
「つまり、俺は余計なことをしたってわけだ」
ライトは自嘲的に言う。まさか! とバーニスは声を上げて笑った。
「助けてくれて嬉しかったんだよ? だっていつもなら絶ーっ対横目で見てるだけで何もしてくれないし、それどころか男の方に同情してたでしょ?」
「それは普段のあんたがやり過ぎるからだ」
「そうかな、おイタにはちゃんとメッしないとダメだよ!」
どこから取り出したのか、バーニスはステアでボッと火を吹き出した。やはり心配すべきは彼女の方ではなく手を出した方のようだ。
今夜はいい感じに酔えそうだ、ライトはほっと甘い息を吐いた。
勿体ないと思いつつも、ボトルの中身は既に半分近くになっていた。火照った頬が夜風に晒される。そろそろいい時間だ、どちらかが言い出せばすぐにお開きになりそうな、そんな雰囲気。
でも、この喧騒の合間の心地よい微睡みにもう少し浸っていたかった。
「このあと、二人で飲み直さないか」
「ええ? 今だって二人だよ?」
「俺の部屋でって意味だ」
ライトはカウンターの上に置かれたバーニスの手にそっと指を這わせる。
バーニスはほくそ笑み、その細い指を遊ぶように絡ませた。
「意外だなあ。ライトってそうやって女の子のこと口説くんだ」
「そんなに変なこと言ったか?」
「ううん、ほらライトって何も言わなくても女の子が寄ってくるでしょ? だから誰かを口説くなんて想像できなくって」
「そうか、じゃあ俺とあんただけの秘密にしておいてくれ」
バーニスの手を握り込む。アームカバーの隙間にそっと指を入れても彼女は愛おしげに微笑んだままだった。
「拒まないんだな、俺のことは」
「当たり前だよ、だってライトだもん!」
どういう意味だ、と言いかけた。いや、聞き返すのは野暮だ。
多分バーニスは理解している。これからライトがしようとしている事も、自分がどうされるかも。それを察せないような彼女ではない。
「じゃあ、行くか」
「うん! ほらほらライトはそっちの缶持って!」
まだ夜は終わらない。少なくとも、缶の中身が尽きるまでは。