きっかけ 自分がオメガであることを世一に気付かされた日から、数ヶ月が経つ。今までいろいろあって、少し前に世一と番になって、こんな幸せな日々を過ごしてもいいんだろうかと一人で不安に思っていたある日。
世一が事故に遭ったという話を聞いた。幸い命に別状はなく、打ち身や擦り傷は多数出来たが骨折はしていない、という話を聞いて内心ホッとしつつ病室を訪れてみると、頭に白い包帯を巻いた世一が俺に気付いて不思議そうに首を傾げた。
「えっ外人!?は、ハロー……?貴方も俺の知り合いですか?」
「……は?」
初対面の時ですらしなかった不思議な反応に、冗談にしては笑えないぞと口を開こうとしたタイミングで担当医師から話しかけられた。英語で話をしようとした医師にイヤホンで翻訳されるから日本語で構わないと伝え、病室を出て世一の状態を聞いた。頭を強く打ったようだけれど傷は大したことはない、ただそのせいで記憶喪失になってしまったようで、自分の名前すらも思い出せていないらしい。事故の原因は轢かれそうになっていた子供を助けるために道路へ飛び出したと聞いて、心底呆れた。誰かを助けるためなら自分を犠牲にする精神、到底理解出来ないけれど世一はそういう人間なんだろう。とにかく記憶を戻してやらなければ、と病室のベッドに座っている世一の傍に戻り、片耳からイヤホンを外して無理矢理嵌めさせた。
「言葉は分かるな?」
「えっ何だこのイヤホン、同時翻訳……!?」
「さっさと記憶を戻してもらわないと俺がクソ困る」
「えーっと、俺の知り合いなんだよな?名前教えてくんねえ?」
「……カイザー」
もどかしい、自己紹介からしなければならないことに変な感覚を覚えてぶっきらぼうに名前を伝えると、頭に染み付いている恋人の名前を改めて耳にして大きな溜息を吐いた。
さて、どこから思い出させようか。まずはサッカーや青い監獄のことを思い出させれば間接的に俺とのことも思い出すか?正直俺は世一が何をきっかけにサッカーを始めたのかも知らないから、切り出すことが難しくて少し悩んでいると、世一が俺の腕を掴んで首元まで顔を近付けてきた。
「あ?ッ、おい、何してんだ」
「カイザーなんかいい匂いするんだよな……甘い匂いみたいな、もっと嗅ぎたい」
「それはお前が──」
「あぁ、カイザーってオメガなのか。もう番になってる奴いんの?」
「……は?」
首筋にかかる息がくすぐったくて、でもそれが世一だと思うと強く抵抗出来ずにそのままの格好で受け答えをしていると、衝撃的な言葉が世一の口から聞こえて、全身から血の気が引くような感覚がした。番を、解消されたわけではない、世一は記憶を失ってるから俺と番になったことを覚えていないのは必然的で。でも、こんなの、番を解消されてしまったこととなんの違いもないんじゃないか。本能的にそう強く思ってしまったせいか、体が震え、頭の中が真っ白になる。番が解消されてしまった時、オメガは強いショックを受けてしまうらしいけれど、こんな感覚なんだろうか。世一と離れたくない、まだ何も出来ていない、ようやく思いを口に出せるようになって世一から愛してもらえるようになると思っていたところだったのに。
「カイザー?っご、ごめん、ごめん大丈夫、大丈夫だから」
「な、にが……何も分かってないくせに、クソみたいに甘い言葉吐いてんじゃねえよ」
「や、ごめんマジでこれは思い出した、俺があげたチョーカーつけてくれてんだもん。流石に思い出すよ」
「あ……」
多分、俺の顔は相当青白くなってしまっていたんだろう。世一は温めるように俺の頬に触れてきて、手の平で包み込まれる。その温かさに浸るように瞼を閉じて首に触れると、そこには世一が言った通り番になった翌日にプレゼントされたチョーカーをつけていた。
「俺の顔を見ても思い出さなかったくせに」
「ゔ……それは本当に申し訳ない……」
「チョーカー着けてなかったら世一くんは一生俺のこと思い出さないままか」
「いや絶対思い出してたって!カイザーとの思い出いっぱいあるしっ」
「どうだか」
今まであったこと、これからしたいことを世一は声に出しながら俺のチョーカーを外して、番になった時と同じように項に噛み付いた。満足そうに笑っているその顔にキスをしてやると、最悪なタイミングで病室の扉が開けられて何故か世一に頭を抱き締められて胸に顔をうずめさせられた。訪れてきたのは看護師だったらしく、記憶が戻ったことを伝えると大慌てで外へと走って出て行った。世一の腕の力が緩み、顔を上げると安心した顔で見下ろされていて、首を傾げる。
「別に隠さなくても良かっただろ」
「いや、カイザーの今の顔見ると誰でも惚れちゃいそうだから危なくて」
「はあ……?相変わらず独占欲強めねぇ」
「そりゃあな、誰にも取られたくないし」
外されてしまったチョーカーをつけ直し、乱れた衣服を軽く整えて立ち上がってから世一の言葉を頭の中で反芻する。俺も誰にも取られる気は無いけれど、そのことで不安がっている世一は捨て難いし黙っておくか、なんて思っていると態度で示すかのように強く手を握られた。